阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

オイルショックの記憶

2020-03-05 21:09:18 | 日記
 マスクの転売防止に1973年、オイルショックの時にできた法律を活用するという。この頃まだ子供であったため、オイルショックが何たるものか全然理解していなかった。今調べると中東戦争から色々な出来事が重なって複雑だ。時期も1973年(第1次)と1979年(第2次) があってピークは1980年とウイキペディアにある。私の認識ではオイルショックとは小学生だった1973年の方で、ピークと書いてある1980年は高校生、その頃は既にオイルショックは昔話だった記憶があり、ウイキペディアの記述とはずれがある。

 小学5年生だった1973年のオイルショックで一番記憶に残っているのはやはり、トイレットペーパー不足だろう。ある日学校で担任の先生が、トイレットペーパーが学校でも不足しているから紙をトイレには置かない、トイレに行きたい人は先生に言って決められた長さをもらってからトイレに行くように言った。長さは忘れたが大と小で違いがあった。誰かが小の時はいらんと言ったら、女子は小でも使うんだと先生が返して、これは男子生徒の多くが初めて聞く話だった。その頃は学校で大をするのは恥ずかしい事だったから、私は期間中一回ぐらいしかもらわなかったと思う。今調べてみると、原油不足が紙不足につながる懸念は確かにあったものの、実際に不足していた期間の生産量は落ちていなくて、この時も流言飛語が原因だったようだ。また、石油には関係ない砂糖なども噂で不足になったのを覚えている。

 もうひとつオイルショックで嫌な思い出といえば、それまで少しずつお年玉を貯金していたものが、父の会社の資金繰りで消えてしまったことだ。当時、広島の経済の中心だった東洋工業(現マツダ)のロータリーエンジンは音は静かであったが燃費が悪く、オイルショックの直撃を受けた。父は東洋工業の本社に近い今の南区で鉄工所を経営していたが、その時は相当苦しかったらしい。その後もちゃんと教育を受けさせてもらったのだから、お年玉が無くなったぐらいで済んで良かったと今は思う。しかし子供の時の忘れられない思い出であることに変わりはない。今の子供たちも窮屈な思いをしているだろうけど、今の状況がちょっと嫌な思い出ぐらいで早く過ぎ去ってほしいものだ。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。