ヴィドマーがGKをやったゲーム、といえば記憶に残っている方もいらっしゃるだろう。1999年4月14日ナビスコカップ仙台戦(広島スタジアム)での出来事だ。でも、私が注目したのはそのひとつ前の場面・・・
99年のナビスコカップはJ2チームも参加してホーム&アウェイのトーナメント形式だった。サンフレの初戦の相手はこの年Jに加わったベガルタ仙台で、4月7日のアウェイは苦戦となったが2-1で勝利、当時は平日に仙台まで遠征するサポはいなくてゴール裏はアラタ君1人だったと聞いた。これから書くゲームはそれを受けてのホームでの第2戦、その前96年広スタの天皇杯の時はブランメル仙台というチーム名でベガルタになってからは初めての広島での対戦だった。
サンフレのメンバーであるが、トムソン監督時代の3-5-2は両サイドをどこに書くか悩む。当時は守備的な戦術で両サイドはボランチが前を向いて持ったら片方が上がって良いみたいな感じで、5バックの時間が長かった。そのころ優勝のかかった試合はBSで2元中継していて、サンフレの相手(清水だったと思う)が優勝の可能性があってその試合に画面が切り替わった時のアナウンサーの第一声が「広島は引いています」だったのが忘れられない。だから5バックで書くのが正解かもしれないが、書いてみたら長くなって見づらいのでダブルボランチと横並びで書くことにする。この試合のアウトサイドは左が古賀、右が沢田だった。99年は高橋泰のルーキーイヤーで4日前のリーグ戦が初スタメン、このゲームもスタメンだった。久保竜彦はカップ戦ということでベンチスタート、GK前川はこの年初めての出場だった。
FW 26高橋、11ヴィドマー
MF 15主税
MF 13古賀、4桑原、8吉田康、3沢田
DF 19上村、6フォックス、5伊藤哲
GK 1前川
(SUB) GK22佐藤浩、DF23川島、MF17服部、9山口敏、FW10久保
ベガルタの10番は21歳の中島浩司、そしてサンフレユース1期生の高田純もスタメンだった。メンバー表順に書いておこう。
GK1高橋、DF2山路、5ドゥバイッチ、4渡辺、MF7千葉直、10中島、3斎藤、18御厨、8越後、FW9高田、17阿部
(SUB) GK22石川、DF6花山、MF14千葉泰、19伊藤、FW16瀬川
このゲームはアウェイでの苦戦とは違ってサンフレが順調に加点。サンフレのイヤーブック、Jリーグ公式サイトとも出退場記録しかなくて(私はトップのゲームはあまり詳しくメモしていない)、試合経過がうろ覚えなのだけれど、問題の前川退場は68分、その時のスコアは3-0じゃなかったかと思う。その場面に移る前にサンフレの得点者を書いておくと、沢田、ヴィドマー、主税、上村の4点、交代は45分ユタカ→タツ、51分フォックス→山口、63分古賀→服部だった。
そして、タイトルにした場面、68分に前川がペナの中で相手を倒して得点機会阻止で退場、仙台のPKとなる。キッカーは高田純だった。
ここで高田純を簡単に紹介しておこう、ジュンは三原市出身で中学時代は普通の部活のサッカー部で、顧問はサッカー経験のない人だったと聞いている。93年サンフレユースに入団、1期生だった。当時のチームについて稲田寮長に聞いた話では、クラブユース選手権(Jヴィレッジ完成までは河口湖周辺での開催だった)に行ったら関係者に「おたくはもっと力をつけてから出て来られてもいいんですよ」と言われたそうだ。おとといおいでってことだね。それがジュンが3年生のJユースカップで初優勝、それに加えて、1期生からジュンがトップチーム昇格、これはサンフレユース七不思議のひとつじゃね。(あとの6つも考えてあるけど長くなるので別の機会に) ジュンはプロ1年目の96年のサテライトリーグで開幕してからの6試合で4得点、しかしトップのゲームでのベンチ入りはなく、その年のオフにJFL仙台にレンタル移籍、サンフレの契約満了を待って完全移籍となっていた。
さて、PKの場面に話を戻そう。3人交代後であるからフィールドの誰かがGKをやらなければならない。ジュンがキッカーの位置にいるのを見て、GKを買って出たのは上村だった。ゲーム後ウエミーが語ったところによると、ジュンはサンフレ時代非常にやさしい性格だったそうで、大先輩ウエミーがゴールマウスにいたら、びびってしっかり蹴って来ないだろう。きっと右足サイドキックでゴール右側を狙って来るから左に飛べば止められるという確信があったそうだ。しかし、どれほど優しい性格だったのか、96年のイヤーブックを見ると抱負の欄に「まずはフェアプレーで」と書いているからウエミーに比べると勝負事に向いてない性格だったのかもしれない。
ゲーム再開、ウエミーの確信は大外れで、ジュンは右足しっかり振り抜いて左隅に決めた。ウエミーも「成長していた」と語っている。そのあとはDFのウエミーがGKやるわけにはいかんからヴィドマーがGK、横っ飛び両手でキャッチした場面があって場内は大きく沸いた。ヴィドマーはゴールとスーパーセーブでこのゲームのヒーローだった。ゴールは覚えてないけどね・・・。ゲームは4-1でサンフレの勝利、通算2勝で2回戦進出を決めた。
ジュンは病気でこの年を最後に現役引退、2000年のサンフレのファン感の時に後輩を訪ねてきたジュンを見かけたけど、その時は元気そうに見えた。一方ヴィドマーは2010年アデレードを率いてACLでサンフレと対戦したのは記憶に新しい。99年は11月にカズのデビューがあって、私の中ではそこからがらりと風景が変わっていくのだけれど、前の時代の記憶に残るひとコマであった・・・
まずはサンフレのスタメン。タイトルの通り寿人が出ていた。写真はコーナーフラッグにピントが合っていて申し訳ないが、サンフレサポなら寿人がいるのは米粒でもわかっていただけるはずだ。寿人はこの年仙台から移籍して来たけどシーズン当初はフィットせず、前日16日のビックアーチの神戸戦でもサブで89分ガウボンに代わって短い時間の出場だった。
FW 27ジョルジーニョ、19盛田、11寿人
MF 14龍朗
MF 26洋次郎、32くわしん
DF 28吉田恵、2池田昇平、22西河、29森脇
GK 31佐藤昭
(SUB) GK21上野、DF30入船、MF23青山、FW15田村、13田中俊也
ガンバの方のフォーメーションはメモしていないのでメンバー表順に書いておこう。
GK1松代、DF26小暮、25丹羽、30青木、MF17児玉、32岡本、14家長、28前田、20寺田、FW18吉原、11松波。
サブは、
GK31木村、MF29松岡、FW21三木
小野監督時代のサテライトチームはバスで関東遠征、フェリーで韓国遠征と意欲的なスケジュールだった。しかし、サテライト監督の評判が芳しくなくてぱっとしなかった。順位はあまり問題ではないからメモしていないのだけれど、確か連続して最下位になったはずだ。ミーティングが長くて、ホワイトボードに書いてあることを実現するためにゲームをやってるような印象だった。ゲームが始まってみると若手選手の勢いというものが全く感じられず、チャンスを作って得点するという意識も見えなかった。おそらく、ミーティング通りに動くことで精一杯だったと推測している。洋次郎や前田俊介などの個性派がサブに回ることも珍しくなかった。しかしこれは、すべてサテ監督のせいと言えるかどうか。小野監督の末期にも新聞に「マニュアル人間」と書かれたように、これと似た現象が見られた。小野さんの理論の影響も少なからずあったのかもしれない。それに最初に書いたように、この時期だけ成果が上がらなかったわけではない。
この年のサテライトリーグDグループは大分、鳥栖、福岡、広島、神戸、C大阪、G大阪の7チームだった。開幕戦雁ノ巣でアビスパに0-2、山形恭平に決められ、寒さの中で吉弘負傷で長期離脱となってしまった。その次は吉田でのガンバ戦、このゲームでヨースケが骨折したことは前に書いたが結果はジョルのPKで先制したものの前田雅と松波のゴールで1-2逆転負け。この4月17日のゲームが3戦目だった。
立ち上がりから右サイドの森脇が家長に苦戦してピンチの連続、中盤で洋次郎とくわしんも防戦一方だった。ところが9分、ジョルが抜け出して相手DFがこれを倒してレッドカード、ジョルがFKを決めてサンフレが先制した。
1人少なくなったガンバは吉原に代えて三木を入れて松波、三木の2トップにボールを集めて効果的に攻め、サンフレの劣勢は変わらない。相手が1人少なくてもミーティング通りなんだろう。それでもジョルと盛田を中心にチャンスはあったのだけれど、盛田と寿人はシュートが入らなかった。この時期の寿人は少し焦りがあったのかもしれない。
私が注目していた洋次郎は、前を向いて持つ場面がほとんどなく、セットプレーのキックも良くなかった。この頃の洋次郎は、キックが空振りに近いような外れの日があった。タツローはよく動き回っていたが、シュートが少なかった。
後半に入ってもガンバが攻勢、サンフレの交代を書いておくと57分盛田→トシヤ、71分洋次郎→青山、82分ジョル→タム、89分森脇→入船。ゲームは終盤相手に疲れが見えたところでトシヤが77分、88分に決めて3-0でこの年の初勝利となった。寿人が不調であるからトシヤにチャンスが来るのではないかとノートに書いてあるが、実際は寿人が復調、このあとサテに来る事はなかった。
小野監督時代はFWが苦戦した印象が強い。高橋泰も03年の最初は好調だったが、そのあと振るわず、特に若いFWが次第に点を取れなくなっていく傾向が見られた。約束事が多いせいで本来の点を取る部分が弱くなってしまうのではないかと推測できるのだけれど、寿人はこの傾向と全く無関係であった。うるさい約束事の一部をスルーしていたか、ある程度自由に動いて良いと言われていたのか。小野さんが前田俊介について、あまりうるさい事は言わないようにしたいと発言しているのを聞いたことがあるから後者だったのかもしれない。
このゲームの会場はガンバ練習場、ユースで行った時はゴール裏からネット越しに見るような場所だったのに、この時は写真のようにぐるりと芝生席があって快適だった。内容は良くなかったけれど、それでも勝てたらうれしい。天気も良く大きなケガもなく、この年のサテのゲームの思い出の中では明るい部類だったのは間違いない・・・
昨日までの代表合宿で大声で悪はしゃぎしてる槙野の横に洋次郎がいるのが残念だとか、槙野が上がりすぎて塩谷が上がれなかったとか感想が聞こえてくるのだけれど、まあ彼らしいというしかないだろう。ただ、槙野の昔話だけ書くのはさすがにうっとうしいのでヨースケ(柏木陽介)にも登場してもらう事にして、二人がユース3年だった2005年の話を書いてみたい。
これは吉田町(当時)の広報紙、広報よしだ03年4月号に乗ったユース新入団選手の自己PR。この年はJ2降格の影響なのだろうか、新人は7人だけ。そのうちプロになった4人分を見てもらおう。吉田サッカー公園のロビーにおいてあったのを事務所でコピーしていただいたものだ。
槙野のところを読むと、彼の基本的な部分はユースに入る前に完成されていたことがわかる。「常に声を出し相手をビビらす」ために大声を出していることもわかる。こんな事を自己PRで書く人は他にはおらんよね。私もユースのゲーム後に槙野から「今日は一回いい声がありましたよ」と言われて、90分応援して一回かとガックリ来たことがあったけれども、槙野というのはそういう男だ。私に言わせれば、10年前と今とではユニの色が変わっただけで、中身はちっとも変わっていない。
ヨースケも「キーパー前に入ってくるちょっとだけうまいコーナーキック」ってところに性格が出ている。この頃のヨースケはネガティブでひがみっぽくて、ゴリさん訓話に必ず出てくる、「へたくそだから帰る」というセリフは有名だ。ここからはヨースケを中心に05年の話をしてみる。
05年3月20日に吉田で行われたサテライトリーグG大阪戦にユースから槙野、ヨースケ、金山の3人が参加、槙野は先発でヨースケは68分くわしんに代わって出場。ややモチベーションの上がらないプロ選手の中で素晴らしい動きを見せる。ところが71分に負傷してわずか3分で前田俊介と交代、鎖骨骨折だった。
そのあと3月29日、私はユースのアシックス杯西日本フェスティバルを見るために吉田へ。この大会は30分ハーフのゲームを1日2試合、春休みということもあってJrユースから宮原兄や、皆実高校が選手権優勝の時のFW、吉田中の金島君も練習生として出場していた。その2試合のインターバルのあいだにちょうど天然芝でサテライトが練習していたので見ていたら治療を終えたヨースケがやってきた。思いがけないことではあったけれど、一緒に練習を見ながらしばらく話を聞くことができた。
まずは20日の負傷の場面、自分でも調子が良くて完全に抜けたと思ったそうだ。ところがつま先が引っ掛かって受身が取れずに肩から落ちたって。その時、サポーターの「うちのプリンスに何するんじゃ」という野次が聞こえて来たそうで、痛さの中で笑ってしまったと言ってた。プリンスと言われたことが嬉しかったようだ。
自分がいない今のユースについては、「龍一にパス出す奴がいない」って。この時、ヨースケは自分の持ち味をパス出しだと思っていることを知った。これは私にとっては意外で、豊富な運動量で縦にボールを運ぶのがヨースケの魅力だと思っていた。ミシャが「危険な走りをしなければならない」と言う時、真っ先にヨースケの顔が思い浮かぶ。パス出しがうまい人は他にもたくさんいるのだから、もしこれからヨースケが代表を目指すのであれば、危険な走りの部分で勝負するのが良いのではないか、上半身の筋肉はいらないのではないかと思うが、これは本人が選択したことだからとやかく言うまい。話がそれた。
そのあとU-18の話、去年の自分のベストシーン、これはプリンス多々良戦88分のドリブルからのゴールとJユースガンバ戦のFKと言ってた。私はずっと聞き役であったが、それで十分幸せだった。ところが、そのあと話題が変わって突然質問が飛んできた。曰く、
「槙野は、どうして大人の女性にもてるのでしょうか?」
これにはびっくり。20年サポーターをやっているがこんなことを選手から聞かれたのはあとにも先にもこの時だけだ。確かに、槙野は年上のファンが多くてプレゼントはブランドの財布とか、一方ヨースケは中学生女子が多くてプレゼントも猫耳とかおもちゃの類、この傾向はプロになってからも変わらなかった。しかし、これは聞く相手を間違っている。もっと女性にもてそうな男に聞くべきだ。もちろん、答えられるはずもなく、サッカー頑張ればもっともてるようになるよと言って逃げるしかなかった。
ところがそのあと少しヒントになるような出来事があった。05年から2種の試合に女性審判が来るようになって、ユースの試合を担当する事もあった。しかし、接触プレーの判断はまだまだ経験が足りなくてサンフレユースのゲームを吹くレベルではなかった。まずは槙野のケース。
7月9日のプリンスリーグ2ndラウンドは吉田で国泰寺と対戦。その48分、女性審判から不可解なイエローカードを出された槙野がレフェリーに向って歩いていく。一瞬緊張が走ったが、そのあと槙野は女性審判の肩を抱いて何かささやいてる・・・端から見たらセクハラ、思わず「触ったらいけんじゃろー」と叫んでしまった。こちらの方がセクハラだったかもしれないが、ユース選手を野次ったのはこの時だけだ。しかし、こんなことをする高校生男子はおらんよね・・・。
なお、槙野はこの年のプリンスリーグは代表とかでいない時もあって10試合中7試合に出場、手元に残ってる公式記録ではシュートは計5本しか打っていない。槙野の、特に足による得点力はむしろプロになってからのものだ。センターバックとして海外行きたいならシュート練習よりも別の練習した方が良かったんじゃないかと思うが、これも本人の選択だ。新入団会見で得点王とると宣言してその線で努力する、それが槙野のやり方なんだろう。実現しないことがあったからといって何年にもわたってガタガタいうのはいかがなものかと思う。
次はヨースケのケース。8月27日の吉田招待、2試合目の大阪朝鮮とのゲームだった。後半4分、女性レフェリーがレッドカードを掲げる。このゲームは天然芝のクラブハウス寄りにピッチが切ってあって、私がいた谷側のゴール裏からは遠い場所だったので何が起きたのか全くわからなかった。退場になって引き上げてくるのはヨースケ、もちろん声をかけるつもりはなかった。しかし、ネット越しにこちらを見て話したいように見えたので、「どした?」と聞いたら、「だから女審判イヤなんじゃあ」と言ってしまったと。なるほど、それなら異議じゃなくて侮辱でレッドかもしれない。「謝りませんからね、だってへたくそじゃないですか!」と続ける。そう言われても同意も反論もできない。なるほど、わかったと言うしかない。
そのあと、ゲームを終えた選手たちが引き上げてきて、ヨースケもネット際まで来て迎える。そしたら龍一が「ちょっと言い過ぎなんじゃないの? 謝ってきたら?」って。ユースに入った頃の龍一は大人に対する態度がアレで視界に入っただけで睨みつけられてるように感じたものだ。この時期の龍一に接した人に、10年後はJでキャプテンやってると言っても誰も信じないだろう。だからこの発言は私にとってもびっくりだったけど、ヨースケは龍一に言われてがっくり、とぼとぼと女性レフェリーのところに謝りに行った。ゴリさんも加わった話し合いで、招待試合であるからベストメンバーで臨むのが礼儀、しかし公式戦でなくてもレッドが出たらノーペナルティというわけにもいかない。次のゲームの前半だけ出場停止という裁定になった。
この女性審判への対応をみて、ヨースケの質問の答えが少しわかったような気がした。しかし、高校生男子一般でいえば、ヨースケの方が平均値に近くて、やはり槙野の対応の方が特異であるように思える。もちろん、ヨースケと答え合わせはしていない・・・
ユース出身者が次々と移籍してしまう事態に、クラブ愛教育をしろという人がいる。しかし、サッカーやってる中学生高校生のスピーチを聞くと、8割以上が将来は海外でプレーと言う。それは止められない。それに、いくら忠誠心を上げてもambition(若い選手の成長には必要不可欠なものだろう)のパラメータが高ければ飛び出す力は生まれてくる。確かにユース出身者が移籍金も残さずに移籍してしまうのはクラブにとって頭の痛い問題だ。クラブの将来を真剣に考えて行動しているサポーターをリスペクトしているし、3人が移籍したあとの新入団会見で24番を継いだ選手にサンフレ一筋と言わせてしまったのは心が痛む。しかしそれでも、ユースやジュニアユースのゲームの現場では選手の個性を応援したいと思う。それは理屈ではなくて自然な感情だと思っている。
仙台のアーノルド監督の解任が伝えられている。サンフレ時代はアニーと呼んでいたので以下アニーと書かせていただく。プレーでの印象はあまり残っていないが、97年の思い出を少し。写真にアニーが写ってないのは申し訳ない。
98年11月に吉田サッカー公園が完成するまでは、サンフレの練習は郷原が多かった。当時は広島熊野道路がまだ開通してなくて、バスで行こうとすると呉駅まで行ってから引き返して来ないといけなかった。広島市内の自宅からだと長居の方が時間的には近い場所だった。そのせいで自力で行ったのはほんの数回、ほとんどユースの公式戦ばかりだった。
ところが97年の11月2日、郷原に練習を見に行こうと誘ってもらって、その人の車に乗って郷原に行った。W杯初出場を決めたジョホールバルが16日で、Jリーグは中断期間に入っていた。そのせいか紅白戦にはすでにサンフレを離れていたゴリさんやユース1期生の高田純や名前は思い出せないがどこかで見たことのある選手も練習生として出場していた。
そして、サポーター同士で話しているうちに、アニーは今日の練習を最後にオーストラリア代表に合流すると聞いた。ジョホールバルの日本vsイランの敗者が大陸間プレーオフでオーストラリアと対戦する事になっていた。
それならサポーターとしても、アニーに声をかけたい。しかし、プレーオフの相手は日本かもしれなくて、こういう場合何と声をかけたらいいか・・・。あーだこーだ言い合っても英語のできる人もおらんし良い知恵は出ない。ここはいらんこと言わずに握手だけしてもらおうということになった。そしてアニーが出てきて、我々が近づこうとしたら、その前に望月コーチ(現ユース監督)がアニーと握手して「グッドラック」って。ああ、ってことでサポーターも握手してもらいながら一人ずつグッドラック、今考えると馬鹿みたいな光景だ・・・
その後はご存知のようにジョホールバルでは岡野のゴールデンゴールで日本がフランス行きを決め、オーストラリアvsイランは2分ながらアウェイゴールでイランが最後の切符をつかんだ。2戦目のメルボルンが、アニーの豪州代表での最後のゲームになったそうだ。私が郷原でトップの練習を見たのはこの時一回だけ、それだけにアニーのことは忘れられない思い出だ。今年Eスタでその姿を見られなくなってしまったのは残念、プロの監督の宿命ではあるけれども・・・
徳島のシュート打てコールが話題になっているけれども、サンフレのゴール裏からも同じコールが出たことがある。2003年8月30日、ビッグアーチでのJ2水戸戦だった。記憶がいい加減な私がすぐにゲームを特定できたのはちょっとした思い出があるからで、まずはそのあたりから。
その前の年の2002年、私の幕を作ってもらっているS子さんが関東のゲームでトゥーリオファンのMさんという女性と知り合った。Mさんにとってトゥーリオは高校の先輩にあたるそうだ。トゥーリオは01年サンフレ新加入のあと03年は水戸にレンタル。その時のいきさつを今西さんから直接聞いたことがあった。それによるとトゥーリオはA契約外国人としては物足りないということで02年で契約満了になる予定だった。しかし、J2降格が決まった札幌ドームのゲーム後、久保社長が全員と契約すると発言、これは今西さんにとって寝耳に水の話で、その後引き受け先を探すのに苦労したけど外国人枠の余っていた水戸にお願いしたという話だった。これは後年の今西さんのインタビューと食い違う部分があるのだけれど、03年に今西さんから直接聞いた話だ。話がそれた。
03年水戸でのトゥーリオは守備の要というだけでなくポイントゲッターとしても活躍。4月24日の誕生日にプレゼントを渡しに行ったMさんの話では、どういうルールか知らないがその日から帰化申請ができるとかで練習後ファンサービスもそこそこにサンフレ職員と一緒に去って行ったそうだ。4月下旬の時点で評価が一変していたことがわかる。
さて、やっと本題に戻るが、この8月末の対戦の前にS子さんから連絡が来て、ビッグアーチでのトゥーリオの様子をMさんに手紙で教えてあげてほしいという。ちょっとおせっかいだなとは思ったけれど、私が女性に対してできることで唯一得意分野なのが手紙を書くことなので引き受けることにした。この時点では、お安い御用だと思ってた。
ところが、当日になってみると、ユース2年の洋次郎がスタメンだった。故郷Jヴィレッジでのクラブユース決勝が8月3日、そのあと洋次郎は夏休みということもあってトップの二葉寮に移って練習参加していた。小野監督にとってみれば夏休みの最後に一回出しておこうということだったのかもしれない。洋次郎がプロ契約するのは10月の高円宮杯全日本ユース敗退後のことだ。
その年のサンフレは一回り目は他を圧倒して独走かと思われたけれど、夏場は相手に対策されて厳しいゲームが続いていた。雨の中で始まった水戸戦も、双子がやや夏ばて気味で精彩がなく、春の広スタでの対戦の時のようには押し込めない。最初右サイドに入った洋次郎は雨のせいかトラップミスが目立つ。前半23分に失点後、システムを4バックに変更、洋次郎はボランチに移ったが若さのせいか前へ前へ行ってしまって相手に反撃のスペースを与えてしまう。そんな中でB6から、
「動け、動け」
「シュート打て、シュート打て」
というコールが出た。後にGK下田は「厳しいなあと思った」と語っている。何より問題だったのは、この二つのコールでスタンドの雰囲気が暗くなってしまったこと。結論から言えば、もうやらん方がいいだろうね。一回やってみてわかることだけれども。
洋次郎は後半18分サンパイオと交代、CKを得てゴールエリア付近にいたときに交代に気づいてそのままゴール裏に出てメイン方向に去っていく35番の背中が今でも忘れられない。J1復帰に向けて負けられないゲーム、そして異様なスタンドの雰囲気、17歳になったばかりの洋次郎にとっては酷なゲームだったかもしれない。試合はその後相手に退場者が出て、後半44分サンパイオのゴールでかろうじて引き分けた。
そのあと、手紙を書かなければならないのだけれど、もう洋次郎ばっかり見ていて、トゥーリオがどうだったか・・・。ひとつ言えるのはあまり上がって来なかった。記録を見るとシュートは1本だけど、これはセットプレーで流れの中では来なかった。明らかに広島への遠慮があったと思う。この時点では、来年J1のサンフレでプレーしたいと思っていたようだ。でも、上がって来なかっただけ書くわけにいかんので、それ以外は洋次郎のことばかり書いてしまった。当然S子さんからはお叱りの言葉をいただいた。あまり興味のないことを安易に引き受けるものではないという教訓じゃね・・・
あれから十年、しかしながら、Mさんは今でも関東サンフレのゴール裏にいて、しかも10番を着ていらっしゃる。これはひとえに私の功績であると、関東サポを見つけたら自慢することにしている・・・