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阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

ランダムにサンフレ昔話 その15 カズの51日間(2) 日曜日の練習

2014-04-27 09:39:26 | サンフレ昔話

 チャレンジャーズリーグから2日後、の1999年11月14日(日)、Aチームの練習(11時)とサテライトのチャレンジャーズリーグセレッソ戦(14時)を見るために吉田に出かけた・・・

 

 吉田に着くと既に選手が出ていて、ピッチはクラブハウスから遠い方でリハビリの器具が谷側のゴール裏に並べてあった。午後のサテライトに出ない選手ということで人数は少なく、フィールドは13人しかいない。その中にカズの姿もある。おとといの試合で落第ということにはならなかったようだ。13人のうちポイチは次節出場停止だから、サテのゲームに出る人の中から2人はベンチ入りできるということになる。

 アップメニューのあと、攻めのフォーメーションの練習。何度か書いたがエディ(トムソン監督)の戦術は守備的でボランチが前を向いて持って初めてサイドが上がってよいという感じだった。それで2班に分かれて、ポイチが起点になるセットとカズが起点になるセットでの練習だった。私には、次節のスタメンが濃厚なカズに戦術を徹底するための練習のように見えた。ポイチのプレーがお手本なんだろう。そして、時々ポイチがエディに質問しているのも、カズのために聞いてるように思われた。ここまでにサンフレユース出身者では安武亨、秋元雅博の2人がサンフレでJデビューしていたけれど、それぞれ2試合、1試合の出場にとどまっていて、トップチームに定着する選手は出ていなかった。ましてや高校生デビューなんて私にとっては降ってわいたような話でスタメン濃厚と聞いてもまだ半信半疑だった。だから本当に見ていて疲れる2時間で終わった時にほっとしたのだけれど、本人は楽々こなしていたのかもしれない。

 午後のチャレンジャーズリーグにはコウジと駒野が出場した。20日のガンバ戦のベンチ入りをかけてのゲームであったが、それほどモチベーションが高い印象は受けなかった。メンバーを書いておこう。なお、このゲームはコウジのワンボランチのように見えたので、両サイドはその左右に書いておく。前にも書いたように、この時期のサテの背番号は古いユニの若い番号を使っており、上で出るときの番号とは違っている。

FW 14大木、10松永

MF 13古賀、8吉田幸生

MF 6宮崎、15コウジ、2駒野

DF 7大畑、4池端、5山下

GK 16植田

(SUB) GK1加藤寿、MF9松岡、FW12池田学徳、11秋元

 配られたメンバー表を見ると、セレッソは加地が出ている。こちらはサブのGKがいなくて加藤コーチがのっているけど、広報氏に聞いたところによると準公式戦だから登録外の選手を使わないでくれと運営から言われたそうだ。だから公式記録には加藤コーチの名前は載らなかったと思われる。余談であるが翌2000年12月にチャレンジャーズリーグ京都戦(ビッグアーチ)を99年同様トップチーム同士でやった時に、ウエミーが一発退場になった。相手のエンゲルス監督は練習試合感覚で代わりの選手を入れるように要請、他の選手が入ってゲームは続行された。しかし、準公式戦だから公式記録を出さないといけない。審判団と競技してウエミーがイエローもらったあとに交代したように改ざんされた公式記録が出されたそうだ・・・

 このゲームに話を戻したいが、池端が負傷してサッカー公園に救急車が来てそのまま入院になってしまったこと、宮崎光平のミドルが決まった事は書いてあるがスコアを書き漏らしている。カズのことで頭がいっぱいだったのかもしれない。コウジも足を蹴られて交代したが、これはたいしたことなかったようだ。駒野は中々上がるタイミングがつかめず悩んでいるようだった。昨日新聞に記事が出たせいか、ゲーム後コウジにサインを求めるファンが何人かいた。私も次にもらっておこうかなとノートに書いている。

 後年稲田寮長に聞いた話であるが、この99年、木曜日の放課後に森兄弟と駒野は寮長さんの車で府中町の揚倉山Gへ、ここでエディの特訓が行われていたそうだ。寮長さんは就職活動と呼んでいたが、エディも3人が将来クラブを支える選手になることはわかっていたのだろう。しかし、トップの監督が練習以外の時間を使ってユース選手の特訓をしていたという話はあまり聞いたことがない。エディの監督時代は守備的な戦術で成績も中位にとどまっていたけれど、降格することなく将来の中心選手を育てた事は知っておいてほしいと思う。

 


ランダムにサンフレ昔話 その14 カズの51日間(1) チャレンジャーズリーグ

2014-04-26 12:22:33 | サンフレ昔話

 GWの間に、99年のカズのデビューについて書いてみたい。この年終盤のドキドキが始まった11月12日のチャレンジャーズリーグ京都戦(広島スタジアム)から話を始める。

 チャレンジャーズリーグはサテライト公式戦が終わったあとのシーズン後半、関西のJクラブを中心に行われていたサテライトの準公式戦で、サンフレも参加していた。この時期は日本代表の海外遠征でJリーグは中断していて、京都とのチャレンジャーズリーグをトップチーム同士でやろうという話になったようだ。以下、当時のノートの文章をできるだけそのまま書き写してみる。

 

99年11月12日(金)広島0-0京都(13時広スタ・チャレンジャーズリーグ)

FW 11森山泰、26高橋泰

MF 9山口敏

MF 17服部、21大久保誠、38森和、3沢田

DF 19上村、4桑原、23川島

GK 1前川

交代

61分 3沢田→36駒野
    26高橋→14大木

77分 21大久保→37森浩


 サテのCLをトップ同士でやると聞いて、軽い気持ちで見に行って、いつもユースを見ているホーム側のペナの前あたりに腰を下ろした。アップが始まって出てきた選手の中に、平日にもかかわらずコウジとコマの姿があって、ゴール付近を行ったり来たり並んで走ってた。ラッキーと思う反面、カズはどうしたのか気になる。先月の国体ではこの二人が優秀選手に選ばれて、カズだけ出遅れたように見えた。しかし最近のJユースではむしろコウジよりカズの方が好調だと思っていたのに、呼ばれなかったんだろうか・・・そしたら、加藤GKコーチの「カズ」という大きな声。センターサークルあたりでスタメンのビブスを受け取るカズ。これは、えらい事になった。次節はポイチが累積で出場停止、ボランチに一つ空席があるんだった。このビブス受け取った瞬間が、51日間のドキドキの始まりだった。選手入場の時、恥も外聞もなくメイン中央の人をかきわけて写真を撮る。

(左から半分切れてるのが11森山、26ユタカ、17コータ、3ケンタロ、9トシ、21マコ、1前川、23シン、38カズ、4クワ、19ウエミー)

 キックオフ、相手は三浦カズが出ているようだが、私にとって今日のカズは紫の38番。そして、ライバルはダブルボランチを組むマコ。ヨースケ(池端)とかDFもう一枚入れてクワを上げる可能性もあるからだ。先月ぐらいからマコがサテで真剣に練習しているのは知っているけど、今日だけカズに譲って欲しいという気持ちだった。

 急に決まったゲームのせいか、レフェリーがまずい。三浦カズの怒鳴り声が響く。こっちのカズは、最初はうろうろしているばかりで、ほとんどボールにさわれなかったが、前川の大声の指示もあって、いいポジションがとれるようになる。前川とはサテで何試合かやってるからね、今日は前川でよかった(下田は代表で遠征中だった)。前半は、生き残りに必死なマコやシンの積極的なプレーが目立ったぐらいで、見せ場なく終わる。カズの評価が気になるところだが、良くも悪くもない、としか言いようがない。引き上げてくるカズにスタンドから「カズ」と声がかかる。ユースで一つ上の林君(当時経大1年)だ。思わずカズの表情が緩む。ほんとは同期のサチヲやイケちゃんに会いに来たんだろうが、心強い応援だ。

 ハーフタイムを終えて、出てきた選手の中に38番を見つけてほっとするが、コウジとコマの出番はまだ先のようだ。カズは相手CKの時はマークにつかず、こぼれの位置に。まだ一対一は半人前ということだろうか。こういうことがいちいち気になる。しかし、受けたパスはミスなく100パーセント味方につなぐカズの持ち味が出てきた。後半16分、ケンタロに代わってコマ入る。カズとのコンビで見せ場を作って欲しいと思うが、動きが硬い。ユースのゲームでも、コマはあまり上がっていかない。中盤の選手が前を向いて持たないとサイドは上がってはいけない、というエディ(トムソン監督)の戦術を忠実に守っているようだが、物足りなく思っていた。今日も、積極的に行こうという気持ちはあったようだが、三歩上がって五歩下がる、みたいな場面が多かった。コウジは後半32分、マコに代わって入った。コウジにとっては時間が少ない。ポジション的には双子のダブルボランチだが、カズと違うところを見せねばならない。コウジはほとんどの時間をカズより高い位置でプレーしてシュートも打った。しかし、焦って力んだのか枠にいかなかった。ゲームはスコアレスドロー。ユースの3人に興味がなければ、全く内容のないゲームと言われるかもしれない。

(翌日の中国新聞、カズの右で三浦カズがこけてる写真は新旧交代を印象づける意図だったかもしれないが、この日から15年たっても三浦カズが現役とは普通思わんよね・・・)

ダウンのあと記者の求めに応じてカズとコウジが写真に撮られてる。ユースでは意識して一緒にいないようにしていて2ショットを撮るのはかなり難しいから、ずるいなあと思うし見慣れない光景だ。

 外に出ると、多くの人が三浦カズが出てくるのを注目していて、ユースの3人はノーマーク。みんな今日のゲームの意味をわかってないな。まずは、寮長さんが3人とがっちり握手。寮長さんにとっても、ユース3選手が同時にトップのゲームに出るってのは初めてだったはずだ。コウジの感想の第一声は「(三浦)カズはレフェリーにぶち文句言いよった」あこがれの人もピッチで実際対戦するとちょっとイメージ違ってたようだ。まあ、審判にも問題あったけどね。カズは「今日出ることは日曜のユースの試合のあとに言われてたけど90分とは思わなかった」次節の万博にオフィシャルのバスツアーで行くことを告げると、「頑張ります」もう、出る気でいるようだ。コマは、どうだったと聞いても、「ハイ・・・」コマは何聞いてもハイと大丈夫ですしか言わないんだけど、これはかなり悔しいハイだったようだ。寮長さんの車で帰っていく3人に手を振って、心地よい疲労感。カズは楽しみだけれども、あさってからの練習が正念場。長い一週間になりそうだ・・・

 


ランダムにサンフレ昔話 その13 くつみがき

2014-04-25 19:11:47 | サンフレ昔話

 今回は2004年8月21日J12ndステージ第2節セレッソ戦(ビッグアーチ)での洋次郎と一誠のパフォーマンス。洋次郎の話題が多くなっているが、サンフレで一番応援している選手なので・・・。なお、写真は私が撮ったものではなく、当時クラブのカメラマンが撮ってホームゲームのテントで販売していたもので300円だったと思う。右23番は田中俊也、主審奥谷。

 この年の洋次郎は高校3年生ながらプロ2年目、初のJ1でのシーズンとなった。しかし、1stステージでは中々出番が来ず、初出場は6月26日、最終節の磐田戦で、J1デビューは12節に途中出場したユース同期の前田俊介に先を越される形になった。

 8月14日に始まった2ndステージでは、駒野の離脱で夏休み中の3節まで一誠が右サイドに入った。そして2節セレッソ戦前日の練習ではFWチアゴが何回目かのリタイア、またかいなとノートに書いてある。セレッソ戦のスタメンを書いてみよう、4-4-2で中盤は台形、上がり目のワイドにタツローと洋次郎が入った。

 

FW 11茂木、27中山

MF 24木村龍朗、26洋次郎

MF 8カズ、6ベット

DF 17服部、3小村、2リカルド、36一誠

GK 1下田

(SUB) GK33上野秀章、DF25吉弘、28吉田恵、20FW大木、23田中

 

セレッソの方はメンバー表順に書いておこう。

GK22羽田

DF23下村、3柳本、15千葉、4布部、MF6濱田、7久藤、8森島、11徳重、FW9古橋、20西澤

(SUB) GK21伊藤、DF16齋藤、MF2マリオ、FW18御給、27苔口

 

 立ち上がりタツローと服部のコンビで左を崩してチャンスを作るが、相手が修正対応してきてそれ以降は前線にボールが収まらず、一進一退。セレッソの先制点は19分、一誠のパスを西澤がカットしてリカルドを抜き去り、最後は古橋のゴールだった。この直後、小野監督はサブの吉弘にアップを命じる。これはおそらく一誠との交代を視野に入れていたと思う。一誠はプロデビュー戦となった7月24日のナビスコ東京V戦で豪快なミドルを決めたものの、前節市原戦(市原臨海)では対面村井慎二にかなりやられて厳しいJ1デビュー戦となったようだ。この失点につながったパスミスから消極的なプレーが続くようならば交代ということだったのだろう。しかし、この日の一誠はこの場面以外は守備のカバーがさえていてヘディングのクリアから洋次郎のミドルにつなげた場面もあった。守備でサポーターのコールも何度かもらった。

 0-1のままハーフタイムとなり、後半頭から小野監督は茂木→大木、龍朗→吉田恵の2枚替え、ベンちゃんが入ったことで少し前線のリズムに変化が生まれ、73分ベンちゃんの同点ヘッドは全くのフリーの状態でのシュートだった。そして77分に元気→トシヤの交代のあと、決勝点は83分、服部のクロスのこぼれを洋次郎が決めた。J1デビューは先を越されたが、俊介よりも3ヶ月早いJ1初ゴールだった。

 そのあと写真のくつみがきパフォーマンスとなったわけだ。ところが、私は喜び過ぎていたのか見ていない。そして翌日の新聞には、ユースお決まりのポーズと書いてあったけれど、ユースのゲームでも見た記憶がない。おそらく旗振ってる間に終わっていたのだろう。後の槙野の時代のパフォーマンスに比べるとささやかなものだが、高校生2人がJ1のピッチでやってのけたところに値打ちがある、ということにしておこう。

 このあとの洋次郎は4節清水戦(日本平)の途中交代以降はベンチ入りもなく、翌05年も出場ゼロで06年には愛媛FCにレンタルとなる。なぜ、小野監督の構想から突如外れてしまったのか、そこはよくわからない。サテライトリーグにまわっても、洋次郎は洋次郎らしいプレーを随所に見せていたと思うんだけどね・・・

 


ランダムにサンフレ昔話 その12 メンバー外練習

2014-04-24 12:42:15 | サンフレ昔話

 極端な例ではあるが、プロのBチームを考えるという観点から2009年6月13日のメンバー外練習をふりかえってみたい。写真左側の久保竜彦の右が茶島雄介、中央丸谷拓也の左が中山雄登(現熊本)。

 この日はクラブユース選手権U-18の中国予選を応援するため、タイコの人と2人で吉田へ。ついでだからサテライト練習も見ることにして午前中から出かけた。天然芝のピッチではリハビリ組の佐藤昭大とくわしんが並んで歩き、そして楽山がタオルを労働者風に頭に巻いた独特のスタイルで走る。ユースの森保兄弟もこの時そろってケガしていて仲良くではないが一緒に走ってた。

 この日のサテ練にはユースの選手も混じっていた。クラブユース予選は最近立ち上げたばかりのクラブが相手のためかゴリさんは2年生中心で臨む方針で、出ない選手がプロの練習に来たようだった。プロ選手の方はフィールドばかり6人しかいなくてGKの練習生が1人来ていた。フィールドだけだと練習メニューが限られて来るので、広島市内の大学生GKを借りてくることは時々あった。この日の練習生が借りてきただけなのかプロ候補だったのか、それはわからない。プロのメンバーは、

久保、丸谷、篠原、清水、西河、岡本、練習生(GK)。

ユースの方は、

茶島、中山、大森(GK)、浅田、玉田、宮本、砂川、宗近。

3年生6人と2年生2人という構成。

アップのあとのミニゲームはユースの方が1人多いから1本目は茶島がフリーマンで始まった。立ち上がりからユース2年の砂川の動きが目立っていて、プロの選手はついていけない。5分もしないうちに森保コーチが試合を止めて何か言ってる。そのあともユースの方は茶島が持った時に砂川、浅田、玉田が動き回ってパスコースはたくさんあるのに対して、プロの方は動きが悪くて茶島もパスの出しどころがない。久保は普段から弱いものいじめはいかんと言っていて高校生相手だとモチベーションが上がらないのはわかるが、他の若手はもうちょっとやってほしいと思った。前半はユースが3-1でリード、ハーフタイムに森保コーチの2度目の説教があった。

 後半は茶島がユース側に戻ってユースが1人多い。森保さんとしても前半でユースがリードするとは思わなかったからこういう予定だったのだろう。流れはますますユースに傾いてスコアはトータルで7-2だった。プロの2点は一人気を吐いた丸谷だった。もちろん、技術、フィジカルともプロの選手が上なのは言うまでもない。問題は、少人数のメンバー外練習っていうのは監督も見ていないしモチベーションが上がらなくてユースに負けるような練習になってしまっているということだ。ダウンのあとプロの選手を集めて森保コーチの3度目の説教、前2回より声が大きくなっていてネットの外の我々のところまで聞こえてくる。

「繰り返し言ってるけど、無駄な時間はない」

 この年のメンバー外練習を数えたら70日、ACLがあった翌2010年は80日あった。これを無駄にするのはいかにももったいない。ベンチに入れない人がいる以上メンバー外練習はなくならない。そしてモチベーションが下がってしまうのは昔から見られる傾向だ。選手本人の問題と言うかもしれない。しかし、クラブとしても何かアイデアが必要ではないだろうか。今は森保監督の下、新人もたくさんとってBチームの遠征も積極的に行われている。あるいは既に新しい変化が生まれているのかもしれないけれど。

 あれから5年、あの日はゲストだった茶島が今はベンチ入りをかけてチャレンジする立場にある。今のサンフレはボランチもシャドウも入り込むのは中々難しい。もう一人の大卒ルーキー皆川もそうだが、正直、難しい時に入ってきたなあと思う。もっとも、クラブも即戦力として採ったのではないだろうから、焦る必要はない。それに、昨夜ACLグループステージ突破が決まったことで過密日程はまだまだ続く。どこかでチャンスが巡ってくる可能性はある。あるいは、今が頑張りどころかもしれんよ。

 

 


ランダムにサンフレ昔話 その11 J1J2入れ替え戦

2014-04-21 19:07:49 | サンフレ昔話

 今回は07年の降格について。こちらもその年全体を総括するのは面倒なので、いくつかの場面を点描しながらふりかえってみる。

 この年のノートに最初に不安を書いているのは5月26日の清水戦(ビックアーチ)。終盤に戸田とヨースケのゴールで逆転勝ちしたものの、前線で寿人と龍一が孤立して8-0-2みたいに見えた。元々ミシャの守備はブロック作るからコンパクトではない時間が出てくるものだが、この07年の夏場はそれが顕著であった。

 8月29日のFC東京戦(ビッグアーチ)は0-5と大敗。ウェズレイの欠場で寿人の1トップ。寿人と右サイドの駒野をケアしながら最終ラインにプレスをかける、という相手の当たり前に見えるやり方になすすべもなく、ベンチが無策とノートに書いている。我々は洋次郎の起用など、メンバーの入れ替えを期待していたが、選手起用も硬直化していたと思う。聞くところによるとミシャのミーティングは毎回誕生日会のようなものだったとか、ワンマン体制が一度悪い方向にはまってしまうと立て直すのは難しかったということだろうか。

 10月27日の千葉戦(ビッグアーチ)、2点リードを終盤あっという間に追いつかれて引分け、同点ゴールは山岸だった。こういうゲームを見せられては、入れ替え戦を覚悟せざるを得なかった。ゲーム後、バスの待機列整理に出てきた高田豊治さんを捕まえて、このままじゃこのあと入れ替え戦も含めて一つも勝てない。何か手を打つべきじゃないかと訴えてみた。サンフレにとっては幸いな事に、一つ下の17位甲府も不振を極めていて自動降格は免れそうだ。入れ替え戦まではまだ一ヶ月以上あるのだから、そのための体制という手もあると思った。しかし、高田さんの返事は「今更動かない」というものだった。もっとも、高田さんは03年サンフレに復帰したときはGMであったけれど、07年の時点ではそうではなかったようだ。今ウィキを見ると06年からホームタウン推進本部長とある。訴えても権限はなかったのかもしれない。

 そして、12月5日の入れ替え戦初戦は西京極。全く好材料がなくて厳しい状況だったが、応援するしかない。オフィシャルツアーで出かけた。ゲームは田原に2点取られて絶望的な展開、しかし情けないことに、これは予想通りだった。いや、少なくとも一ヶ月前から予想できた事だった。まったく、応援していても座して死を待つという心境だった。この時期の強化部はミシャに丸投げで何も仕事をしていないように見えた。翌年以降好転したからといって、これで良かったとは思わない。

 そんな中で飛び出した86分の龍一のゴールは嬉しかった。このアウェイゴールで流れが変わるかもしれない、それにかけるしかなかった。このとき、私にとっては思いがけないことが起きた。それは、龍一のゴールを喜んでいたら、突然隣に覆面男が現れた。わたしゃプロレスとかに疎いので何の覆面かはわからない。そして、私と肩を組んでガニマタでぴょんぴょん何回か跳ねてから去って行った。その時は、まだ時間が残っていたし確かめる余裕はなかった。ゲームはそのまま2-1で敗れた。

 ゲーム後片付けていたら後ろから声をかけられて、振り向いたら関西の大学に進学したユースOB3人、後に岡山に入った福本尚純や今は札幌にいる金山隼樹がいた。ユースを離れたあともサンフレを応援に来てくれるのはうれしいことだった。そして、3人の顔を見た瞬間、さっきの覆面男は遊佐克美ではないかとひらめいた。ガニマタで跳ねる足に見覚えがあった。遊佐はこの年は7月8日のナビスコ準々決勝鹿島戦(ビッグアーチ)で途中出場、ペナの中で得意技のダイブを披露したが、家本主審はPKもシミュレーションも取らず私としては残念だった・・・。そこで、龍一や遊佐と同期の金山に今日遊佐は来ていたかと聞いてみた。そしたらさっきまでそこにいたと言って笑う。これで答え合わせは終わった。現役サンフレ選手と肩を組んでゴールを喜んだのは、さすがにこの時だけだ。龍一のゴール、遊佐の登場、そして金山との会話は、サンフレ観戦歴20年間でもワーストに情けないこの時期唯一といっていいほどの明るい思い出だ。この日のチケットには龍一にサインもらってコレクションに加えた(画像)。

 この結果を受けての12月8日の第2戦(ビッグアーチ)は、1-0で勝てばアウェイゴールが効いて残留できる。そして、ゲームもその通り0-0で進んだのだが、1点を取る力がなかった。終了間際、槙野のオーバーヘッドがころころと右に外れたシーンは忘れられない。入れ替え戦だから仕方ないが、目の前で入れ替わるのは辛いものだった。二度とやりたくないもんじゃね・・・

 選手たちが挨拶に来た頃、B6に監督続投反対の幕が出る。私がいたバックスタンドからは降ろせと非難の声が上がった。でも、これを用意できるということは試合前から続投が決まっていたということだ。そのあとに社長や強化部長がサポーターの前でハンドマイクを握ったけれど、どうして降格したか、どう立て直すかという話はなかった。ただ、ミシャを信頼して任せると繰り返した。この年は戦術、選手起用が硬直していたにもかかわらず、全く修正できないまま降格の日を迎えた印象だった。原因があって結果が出ている。続投させるにしても、今年の反省の上に注文をつけるのが当然だと思うが、そういう話ではなかった。別室に移って第2ラウンドがあったようだが、私は帰ることにした。何ヶ月も情けないゲームを見せておいて、これはないと思った。何度も言うが、翌年からの成績が良かったからといって、これで良かったとは思わない。

 ただ、この日のゲーム後、寿人がサポーターの前で残留宣言をしたのは、重要なことだった。その時は腹が立っていたからすんなり耳に入ってこなかったが、これがなかったら今のチームはどうなっていたかわからない。寿人の貢献度というのは、本当に群を抜いている。

 降格というのはつらいものだ。しかし、ガンバやジュビロも落ちる時代、3度目はそのうちやってくると考えておいた方がいいだろう。その時どう行動するか、若いサポーターも頭の片隅に置いといてほしいと思って書いてみた・・・

 


ランダムにサンフレ昔話 その10 洋次郎の海

2014-04-19 09:49:33 | サンフレ昔話

 数日前に洋次郎がパパになったといううれしいニュースが入ってきた。今回は洋次郎が故郷に錦を飾った2003年8月3日のクラブユース選手権決勝(Jヴィレッジスタジアム)について書いてみたい。ご存知のように3年前の大震災で大津波がこの地域を襲い、洋次郎の実家や家族にも大変な被害があった。また、この大会の会場であったJヴィレッジは東電の資金で作られており、今や原発事故と無関係に語るのは難しい。しかしながら、2011年3月11日のことをふまえて03年のJヴィレッジのことを書くのは、私の能力を超えている。そこで03年当時書いた文章をそのまま読んでいただくことにする。したがって、内容がおちゃらけているのはご容赦いただきたい。選手の説明を本文に挿入するのは面倒なので、最初に予備知識として書いておく。当時のチーム構成は、3年に田村祐基、西山貴永、田坂祐介、2年が藤井大輔、洋次郎、一誠、森脇、くわしん、佐藤アキ、冨成慎司、大屋翼、1年に槙野というのが主なベンチ入りメンバー。2年前田俊介はJヴィレッジに入ってから怪我して離脱、1年柏木陽介はまだベンチ外だった・・・

 土曜日の平塚でのゲーム前、ユースの準決勝はとっくに終わってるはずなのにS子さんも知らないし情報が入って来ない。メインスタンドの向こうに夕焼けの富士山が美しかったけど、ちょっとイライラしながらサポの後ろに加わった。

 ゲームは相手前半唯一のシュート決められてこっちは動き悪い。一人だけ元気で動きのいい茂木はシュート入らん、ってぶつぶつ言いながらハーフタイムの集合場所にしてたS子さんの席に行ったけど見当たらない。しばらくそこでぼんやりしてたら、サポのたすきの中から走って戻ってくるのが見えた。かなり向こうから、いい知らせだとわかった。「勝ったよ、Vゴールだって!」 なんとS子さん、サポの中にいた吉田安孝さんに思い切って聞いてみたそうで、そしたらゴリさんに電話してくれたそうだ。私にはそういうことはできんな。昨日の朝、中電坂Gでトップの前日練習見てそのまま海田市から鈍行で東へ向かったから、家を出るときはメンバーわからず幕3枚(龍朗、洋次郎、ユース必勝)ともカバンに入ってる。もしユース負けてたら1枚も出さずに無駄に持ち運んだ事になるところだった。トップはぶさいくなゲームでそのまま1点が返せずタイムアップ。でも、私は落ち込んではいられない。ブーイングし始めたサポから抜けて自分の荷物まとめてS子さんの下田幕のところへ。相手サポは「ラララ~」って勝手にシンドバッド歌ってる。幕をくるくる巻くの手伝って外へ。

 シャトルバスは出たばかりで、Yさんから満員にならないと出ないと聞いてたのでタクシー拾って平塚21時29分発の東京行きに間に合った。「品川が好き」というS子さんの意見で品川で乗り換えて御徒町でS子さんと別れてカプセルホテルへ。滞在時間が短いからネットカフェでもいいんだけど、昨夜も大垣夜行で汗ベトベト足パンパンだから、風呂入ってお尻以外のところつけて寝たい。フロの中で今日一日を振り返ると、トップは全然ダメだったけど、久しぶりにS子さんや運良く東京駅で新潟へ向かう栗原ファンのYさんにも会えたし、そして何より、ユースの勝利で帰りの夜行に乗らずにすんでフロに入れて明日はJヴィレッジのスタジアムで決勝見れる。昨日は中電坂Gの前日練習で龍朗も洋次郎も入ってなくてH軍団の人にぶつぶつ言っちゃったけどね、平塚だけで帰る人には悪いことしちゃったな・・・。カプセルに戻ったら11時半、5時半にアラームをセットして、まあ、ぐっすり寝たと思う・・・

 ふと目がさめたら4時18分、常磐線の始発に間に合う。早く行って情報収集するのもいいかなと思って急いでカオ洗って着替える。もちろん洋次郎の35番レプリカ。外へ出て、線路と平行に上野駅に向かって歩く。改札で18きっぷに8月3日の日付入れてもらって9番ホームへ。前の方にロングシートじゃない車両あったからそこに座る。同じボックスに座った人が話しかけてきて、その人は柏サポだという。Uちゃんはレプリカ着た私と一緒に歩きたくないと言うけれど、レプリカ目印に話しかけてくる人もいるから、レプリカ着ての一人旅も面白いと思うけどな。私は昨夜のJ1ファーストステージ最終節の結果知らないから聞いてみたらこの人も他所の結果は興味ないから知らないと言う。サンちゃんやケンさんの話してたら柏に着いて降りていった。

 7時48分高萩で下車。1本遅らせてもどうせいわきで一緒になるから、始発に乗れたときは降りてみようと思ってた。まず窓口で入場券を買う。昨日だったら洋次郎の誕生日だったのに、トップのへぼ試合を見たばっかりに・・・スポーツ紙買ったら、今日の相手は浦和ユース、J1はFマリのVってやっとわかった。10分後の次の電車に乗るために再びホームへ。女子高生のグループがこっち見てるから、わざと背中向けて「萩洋次郎」って洋次郎が書いてくれたサインを見せる。しっかり名前覚えとけよって感じだけど、広島で太郎さんはルンペンの名前だから、高萩にもそーゆー人がいたらイヤだな・・・

 さらに20分乗って、福島県の最初の駅が関所で有名な勿来、その次が植田、洋次郎の中学校と同じ名前で、実家もこのあたりなのかな。

 8時50分いわき着。駅前で朝食買って2両編成のワンマンカーに乗り込む。システムは芸備線と同じだけど、ドアの開閉は乗客がボタンで行うみたいで、「無人駅では、後ろの車両のドアは内側からは開きません」というアナウンスは独特だ。9時41分、木戸着。駅前の酒屋の向こうの三叉路を左に折れて歩いていく。ちょっと坂道を登って振り返ると水田の向こうに太平洋が広がっている。2年前に田森君を応援に来たときも見たはずの風景だけど、洋次郎のふるさとの海だと思うとちょっと違って見えた・・・

 15分歩くとJヴィレッジのセンター棟が見えてくる。ロビーに入るとダイスケの母と姉がいて、昨日は洋次郎のVゴールだった事を知る。トップのへぼい試合を選択したばっかりに、洋次郎17歳のバースデーVゴールを見逃してしまったと思いっきり後悔。そのあとは、スタッフが通りかかる度に笑顔で挨拶。塩さん、寮長さんと握手。トレーナーのナベさんによると、俊介が怪我で帰ってしまった以外は怪我人も出場停止もなく調子は上々とのこと。高橋シンさんも聞きもしないのに「大丈夫!」って自信ありそうだ。ゴリさん「勝ちます」こっちはあまり当てにならん。選手たちも一回チェックアウトしないといけないみたいで、荷物の移動のためロビーを横切った。洋次郎はまっすぐこっちを見て「こんにちは!」もう気合が入ってるようだ。ほかの選手も表情が明るい。去年のJユース決勝で長居スタジアムに入っていく選手たちを見送った時とは全然違う。今日は違う色のメダルがもらえるんじゃないかという期待がますます大きくなる。12時前までロビーでトーナメント表を眺めたりして時間をつぶしてからスタジアムへ移動。くぼ地の1番ピッチの横から遊歩道がつながっていて、アップダウンがけっこうあったけど、ヤマユリや桔梗が咲いてて荷物さえなければステキな山道だった・・・

 最後の上り坂を上がったらそこはメイン側の一般人は立ち入り禁止区域で、関係者受付の人になんでそっちから来るんだという目で見られたけど、わたしゃ案内板どおりにたどって来ただけだからね・・・。はいはい出て行きますよってアウェイゴール裏にある入り口に回って12時半の開門を待つ。パンフ売りのおっちゃんたちと話したら、やっぱりここは福島県、茂木の知名度抜群だね。そしてご当地選手の洋次郎も。また背中見せたらびっくりしてた。

 開門直前に前田カズと桂ちゃんのママも到着。2年前田森君の時の準決勝敗退が今までで最高の成績だったから、ユースがJヴィレッジのスタジアムでゲームをするのは初めて。ずっとここでやりたいと思ってたんだよね、って話をしているうちに開門。気がつけば50人以上の人、楽しみにしている地元の人も多いようだ。スポンサーのサントリーからダカラ、アディダスからスパイクのキーホルダーもらって、次は幕を張らなきゃ。今日は必勝幕のほかに、洋次郎幕も初めて出そうと思う。実はこの幕、ほかの父兄の目もあるし(トップの小野監督が3年生を全然評価してくれないからね、2年生ばっかりひいきしてって・・・)、ユースでは出さずにトップで出たときにデビューさせようと思ってた。だから、今回もユースで出すためじゃなくてトップで出る可能性を考えて持ってきていた。でも、さっき、洋次郎の海(勝手に命名)を見たときに、ここで出したい、という気持ちが強くなった。幕2枚持ってバックスタンドホーム側にしっかり張った。

 ホームのゴール裏は通れないからぐるりと回ってメインホーム側のペナのあたりに荷物を置く。桂ちゃんパパやウマパパも今回は行けるんじゃないかと口をそろえる。トオルも私のところに来て、今回20人(今は俊介帰って19人)のメンバーに入れなくて自費で来たと言う。コウジや駒野も1年生の夏はBチームで全広島に出てたんだよって得意の昔話をしてたらピッチから槙野が近づいてきて、「フラッグ余ってませんか?」って。どーしてか聞いたら、ゴリさんのシナリオでは、V決定の瞬間、槙野がフラッグ振りながらピッチに乱入する事になってるらしい。ゲーム前にそういう話をしてるところがゴリさんらしいけど、そんな事してもいいんだろーか?とにかく、ロスタイムにベンチ横に私のフラッグ持って行く約束をした。

 1時57分、選手入場。そのときバックスタンドの後ろから10発ほど花火が上がる。私も気合を入れ直してフラッグを掲げる。コイントスに勝った桂ちゃん向こうのピッチ取って前半はこっちに攻める。キックオフ直後から、洋次郎がサイドにいいパス出して何度もチャンス作る。馬屋原のポストプレーから西山のドリブルも出ていいリズムになってきた。最近守備で苦戦してる田坂も前でプレーしてるから問題ない。「まだこれからだ、顔上げろ」相手選手の声が飛ぶ。まだ0-0なのに、かなりのプレッシャーを受けているようだ。勝負には相手の嫌な事をするって要素が重要だっていつも言ってるんだけどね、洋次郎はそういう事がわかってる選手で、きれいに点を取ろうなんてあまり考えてないようだ。今日の洋次郎はピッチのどこにでも顔を出してしつこく相手にプレスかけて、たちの悪い借金取りのよう。相手からは鬼のように見えただろうね。

 前半30分、左サイド一誠の前のスペースに逆サイドから大きなパスが出て、中へのファーストタッチでDFを抜き去りGKと1対1、左足のシュートは中腰になったGKが前に出した両手をかすめるようにゴール右上のネットゆらした。 一誠らしい、気持ちの入ったまっすぐなシュートだった。一誠ふり返って大声出しながらベンチに走ってくる。ほんとに嬉しそう。私もうれしい。チャンピオンシップ、3度の天皇杯決勝、去年のJユース、タイトルのかかったゲームで私の見たゲームはことごとく無得点。初めて見る、タイトルへ向けてのゴールだった。

 その後も一方的に押しまくって、西山や馬屋原の惜しい場面もあった。守備はほとんど中盤で片付けて佐藤アキは声出すだけ。そして37分、左CKからのこぼれを田坂が押し込んで2点目。ユースに入った頃の田坂はフィニッシュのところで技におぼれて失敗することが多かったけど、最近こういうゴールが増えてきたのはいい傾向じゃないかな。このゲームは40分ハーフ給水付で、2分のロスタイムを経て2-0でハーフタイム。2点差は油断できないけれど、プリンスリーグの時とは見違えるような動きで、選手たちが頼もしく見える。落ち着かないけど焦っても仕方ないから私も腰をおろして給水タイムにした。

 後半が始まると、さすがに相手も必死になって攻めてきて自陣でゲームをする時間が長くなった。しかし、洋次郎と後半から入った田村がボール追いかけて決定機を与えず、2-0のまま時間が過ぎて、いや何回時計見ても時間がたたなくて困ったけど、とにかくゲーム終盤へ。20分の給水のあたりから相手が落ちてきて、再びこっちのペース。田村が何度もチャンス作って72分に自分で決めて3点目、優勝をぐっと引き寄せた。79分にレフェリーがロスタイムの合図を出すのを見てフラッグをベンチの後ろに落として槙野に目で合図、あとはタイムアップを待つだけだ。

 初優勝の瞬間、槙野はすぐには出て行かずに中央での挨拶が終わってからベンチ全員がダッシュ、スタンドにいたトオルも加わった。歓喜の輪の中に私のフラッグがあるのがうれしい。よく、そのきちゃない旗をなんとかしろって言われるんだけどね、双子や駒野や洋次郎のユース時代のサインが入っていて、Jヴィレッジのスタジアムのピッチのど真ん中で槙野が振ってくれた旗だから、そう簡単に換えるわけにはいかないんだよ・・・。ゴリさんは、優勝のシナリオを書いてただけあって、胴上げのとき空中で変な踊りを踊ってた・・・

 

(まずベンチのメンバーだけで喜んでから)

(ピッチ中央へ)

 閉会式、待望の優勝メダル、そして副賞が結構多い。桂ちゃんから並んでる順番に受け取っていったら、相馬の馬追いが描かれた双葉地方町村会提供の優勝絵皿は洋次郎の番。これは地元出身の洋次郎にぴったりだね。洋次郎受け取って高々とスタンドにかかげたあと、落としそうになっておっとっと、危なかった。このとき、スタンドのサポと多分ゴリさんの脳裏には9年前のチェアマン杯の悪夢が甦った。(落として割った犯人と噂されたゴリさんは今でも無実を主張している。)

 記念撮影を何枚も撮って、最後は父兄も降りて行ったけど、サポはピッチに降りるわけにはいかないから、幕を外して外で待つ。でも、胸が一杯で洋次郎には「おめでとう」ってひと声かけただけ。バスを見送って、再び遊歩道をセンター棟に向かって歩く。人気のない道端で見事な花をつけているヤマユリが、まだ世間にはあまり知られてないけれど素晴らしいプレーを見せてくれるユースの選手たちと重なって見えた。

 

 センター棟で土産にJヴィレッジサブレ買って、S子さんに優勝の報告の電話かけたあと、再び木戸駅に向かって歩く。朝来たときよりずっと、洋次郎の海が美しい。これからここに来るたびに、17才になったばかりの洋次郎のプレーを思い出すだろう。



 木戸駅17時49分発の電車で帰路につく。ここから広島までは18きっぷだと22時間だけど、勝ったあとは頭の中でゲームをリプレイしてればいいから来るときよりはずっと楽。いわき駅の食堂街でラーメン食って(洋次郎にうまい店聞くの忘れた)、再び電車に。勝田でイベント帰りの人がどっと乗ってきたけど全然苦にならない。臨時の夜行の始発の品川駅で、座席の夜行で変な格好で寝ると背番号が痛むから35番ユニ脱いでていねいにしまった。次はトップの試合でこのユニ着たいな・・・。若者たちがホームでだらっと待ってたけど、私はまだまだ元気。結果がよかったから、私も品川駅が好きかもしれない。


ランダムにサンフレ昔話 その9 クレドのPV

2014-04-18 18:55:55 | サンフレ昔話

 今回は02年の降格について書いてみる。この年を総括する能力はないので、いくつかのシーンを点描してみたい。この年の誤算がヴァレリー監督の突然の辞任から始まったのは明らかであるが、そこは他の人も書いているところだから省略する。

 私が最初にガジエフ監督を疑問に思ったのは開幕前、2月27日の天津との練習試合(ビッグアーチ)だった。開幕4日前ということで久保、大木はスタートではなくて、2トップは梅田直哉と中山元気だった。梅ちゃんはポストプレー、元気はサイドに流れて起点にはなっていたけれど、この組み合わせでは点が取れそうになかった。ガジエフはフィジカル重視、それだけではなくて日本人の特性がよくわかってないのではないかと感じた。4日後の開幕札幌戦のスタメンを書いておこう。システムは4-4-2で中盤はダイアモンドだった。

 

FW 10久保、20大木

MF 11主税

MF 7コウジ、16梅田

MF 8カズ

DF 3沢田、31ビロング、2川島、5駒野

GK 1下田

 

 開幕戦は5-1で快勝、右MFに抜擢された梅ちゃんは3節京都戦で決勝ゴールをあげてチームは2勝1敗のスタート。しかしそのあとは4試合で1点しか取れなかった。3月23日、リーグ戦のない週に吉田でJFL愛媛FCと練習試合があったが互角の内容で2-2、愛媛FCの大西貴選手兼監督に「サンフレやばいんじゃないか」と言われてしまう。

 W杯の中断期間に入って、5月3日のユースの試合の時に今西総監督と話す機会があった。今西さんの話によると、守備がしっかりしていないのが一番問題。ビロングは試合に出てないところを急に呼び寄せたためオーバーウエイトだった。しかも体重を急に落としたために体調がよくない。実力はロシアリーグでトップクラスのDFである。そして、現状はリーダー不在で声が出ていれば防げた失点が多い。闘志のあるトゥーリオを起用してはどうかと助言していると話された。今西さんの総監督という立場は現場の監督に対してこういう話をする権限があったことがわかる。翌年、今西さんが降格の責任をとって辞任したあとに高田さんをGMとした理由について「織田(強化部長)はまだ若いから高田さんにGMとして来てもらった。日本人監督(小野さんのことを指す)になったら総監督は必要ない」と今西さんは言われた。このことから、今西さんの概念では総監督はGMより広い権限を持っていたということがわかる。昨年今西さんがEスタに来られたときに元GMという肩書きだったと思うが、私の記憶では今西さんはずっと総監督でGMと呼ばれていた時期を知らない。話がそれた。

 そのあと5月25日のアイルランド代表との記念マッチ(出雲浜山)は久保のゴールで先制したもののロビーキーンの2ゴールで1-2、しかしこのゲームはトゥーリオ、ビロング、川島の3バックがよく守っていた印象がある。

 私が印象に残っているのは6月15日のSC鳥取との練習試合(吉田)。ベストメンバーを組んで臨んだが素人目にもダメな内容だった。主税とミロのゴールで2-0だったけど、この2人以外のモチベーションは高いとは言えなかった。Bチームならともかく、トップチームのモチベーションがここまで低いのを見るのは初めてだった。今西さんと目が合って、今西さんもさえない表情だった。突っ込んで聞かなかったけれども、監督交代に動くのは間違いないと思った。

 しかし、ガジエフ監督の辞任が発表されたのはそれから一ヶ月近くたってからだった。違約金がかからないようにしたいふところ事情があったのかもしれないが、中断中のキャンプをガジエフでやってから交代というのはいかにももったいないことだった。中断明けの第8節は木村ヘッドコーチが指揮をとり、9節から木村監督ということになる。しかし、1stステージはガジエフ監督の7試合で勝点7、木村監督の8試合で勝点3であった。シーズン通してみれば、この時期の不振が降格につながったともいえる。中断期間中にすばやく対応できなかったことが悔やまれる。

 2ndステージに入って、小野剛コーチが就任。ウィキによると、9月に就任して10月に監督権限を委任されたとある。しかし、私が見た9月13、27日の前日練習は両日とも小野コーチが仕切っていた。小野さんは生き生きとエネルギッシュで小野さんのワンマンチームという印象だった。当初はそれまでの4-4-2をベースに、シーズン終盤には小野さん得意の1トップ2シャドウも見られた。

 しかしながら、チームは劇的には好転せず、降格の日が近づいてくる。11月2日、吉田での紅白戦では、Bチームに入っていたトゥーリオがAチームに向って「いい攻め全然なーい」と怒鳴る。この年の特徴として、見に行ったら誰か1人が目立ってる。梅ちゃんだったり、主税だったり、小野さんだったり、トゥーリオだったり。ってことは全体的にはモチベーションが上がってないということなんだろう。小野さんの評価は低かったのかもしれないが、この時期のトゥーリオは使ってみてほしい選手だった。

 そして11月30日の最終節札幌ドーム、私は基町クレドのPVに参加した。自力残留はなく、残留のためには順位を逆転しなければならない神戸や柏の得点シーンが映し出されて絶望的な状況、4-4で延長に入った瞬間に降格が決まった。この試合ではGK下田が負傷して林卓人がJ1デビューとなった。ゲームはVゴール負け、翌年J1は延長が廃止されたから、Jリーグ最後のVゴール負けと言われている。2ndステージは15試合で勝点16、通年で勝点26は一つ上の神戸に勝点5足りなかった。

 私の隣で見ていたアテネ世代の女性3人は試合終了後泣き出してしまって、そしたらテレビカメラが寄って来た。それで思わず石井のモモちゃんにあっち行ってよと言ってしまった。その時はそう言うしかなかった。

 翌12月1日、私はユースの天皇杯を応援するため大分市営に向った。トリニータは逆にJ1昇格を果たしたシーズンで、駅前のビルには祝J1の懸垂幕がかかっていた。開門後幕を張って準備していたら知り合いの大分サポや大分市在住の鳥栖サポが来て慰めてくれた。「J2は楽しいよ」と言う人もいた。実は他サポに慰められてるこの時が、一番つらかった。以来私は降格した他サポに対しては、何も声をかけないことにしている。

 そのあと12月22日、天皇杯Fマリノス戦(愛媛県陸)で久しぶりにサンフレの勝利を見て、この時は本当に嬉しかった。サッカーは、明るく楽しくないといけないと思った。そのためには、できるだけ降格したくないもんじゃね。あるいはゴリさんが平塚で降格して「明るくてすみません」と言ったように、次回は明るく降格してみるか。その前に、07年についても書かんといけんね・・・

 

 

 


ランダムにサンフレ昔話 その8 2000年サテ開幕戦

2014-04-17 18:41:36 | サンフレ昔話

 7回目がコウジだったから8回目はカズの事と思ったけれど、一番書きたいカズのデビューは一回で書ききれないのでGWにとっておくことにして、今回は2000年3月12日のサテライドリーグ、セレッソ戦(舞洲セレッソG)の話。写真20番はカズ。

 2000年の新人はユースから森兄弟と駒野、外部から山形恭平、松下裕樹、八田康介、中山元気と年代別代表経験のある選手7人をそろえてスーパーセブンと呼ばれた。カズは前年11月にプロデビューして元日の天皇杯まで出場したがその頃から腰痛があったそうでちょっと出遅れて前日3月11日のJ1開幕戦はベンチ外だった。そのJ1第1節は神戸ユニバで1-0の敗戦。この年はラストの天皇杯も神戸ユニバでヴィッセルに1-0で敗れ、最初と最後が同じ場所同じ相手に同じスコアだった。

 サンフレのメンバーであるが、スーパーセブンのうち山形と松下は高校選抜の合宿で欠場、残りの5人が出場した。この日驚いたのはサテライトリーグであるのに正規の背番号をつけていたこと。97年に固定番号になったあとも、サテライトリーグでは古いユニの若い番号で出るのが普通であった。だからトップで出場機会がないとイヤーブックの写真撮影の時だけ自分の番号を着てゲームでは袖を通さないままサンフレを去る選手もいた。それがこの2000年からサテでも自分の番号の、しかもその年のユニで出場するようになったわけだ。システムはトムソンの3-5-2、前回にならって両サイドはダブルボランチと同列に書くことにする。

 

FW 15上野優作、32ミゲル

MF 33栗原圭介

MF 22コウジ、9山口敏弘、20カズ、23駒野

DF 28八田、2宮澤浩、16川島眞也

GK 12加藤竜ニ

 

(以下途中交代)

12加藤→21佐藤浩

22コウジ→30宮崎光平

16川島→29吉田幸生

15上野→27中山元気

9山口→24石川裕司

 

 セレッソのメンバーはメンバー表がなくてわからない。コウジの左サイドは山口、栗原がサテに回ったせいで押し出された格好で、このあとのノートを見てもこの年左サイドはやってないようだ。スタメンを見ていただいてわかるようにサテライトというにはベテランが要所にいてゲームは立ち上がりからサンフレが優勢。その中でルーキーたちが良い動きを見せて強風で観戦しづらい環境ではあったが十分満足できる内容だった。

 サンフレの得点はCKのこぼれからミゲル、同じくCKを八田が頭で押し込んで2-0で開幕戦を勝利で飾った。サテとはいえスーパーセブンの公式戦初ゴールは八田ということになった。

 ルーキーイヤーのJ開幕戦でベンチ外となったカズは「調子が悪い」と発言して先輩に怒られたという記事を読んだ。しかし、このあとのカズはトップに定着してこの年はJ1リーグ24試合出場3得点の記録が残っている。駒野は右サイドのレギュラー沢田を脅かす事はできずリーグ戦の出場はなく、ナビスコで先発したが対面三浦淳宏(当時横浜Fマリノス)に苦戦して広スタのバックスタンドから多くの野次を浴びせられた。なお、広スタのバックスタンドは昔から野次が多くて11年の名古屋戦の仮設スタンドの時もひどかった。構造的なものだと思うが、新スタジアムへの研究課題かもしれない。これは余談。とにかく、駒野がレギュラーをつかむのは翌01年まで待たなければならなかった。コウジもコンスタントに出場機会を得るのは02年から、しばらくはサテライトと代表のゲームでのチャレンジが続いた。

 双子駒野のプロとしての最初のゲーム、先にも書いたが、私にとってサテでは初めて見るおニューのユニとともに記憶に残っている。サテライトリーグがなくなってもう何年もたった。去年からJの試合の翌日に仙台や浦和で日帰り練習試合をするなど意欲的に若手の強化が行われているが、やはり公式戦の緊張感もほしいところだ。何か準公式戦みたいな有料試合があっても面白いと思う。小口のスポンサーを集めて数日間の小さな大会をやれないものだろうか。

 


ランダムにサンフレ昔話 その7 11番コウジ

2014-04-15 18:54:01 | サンフレ昔話

 今回はコウジを初めて見た、1997年7月20日の全広島サッカー大会準決勝、広島経済大学vsサンフレユース(広域一球)のお話。写真はアップの様子で中央11番のパンツがコウジ、その左は島卓視コーチ。

 私がユースのゲームを初めて見たのは95年12月のJユースカップ決勝、しかしこれはテレビ観戦であった。生では翌96年11月17日、トップの天皇杯ブランメル仙台戦(広島スタジアム)の試合後引き続きJユースカップ予選リーグ鳥栖フューチャーズ戦を見た。小林伸二監督のユースを見たのはこの2試合だけということになる。しかし、ゲームは2試合とも面白かった。ユースを見に行きたいという気持ちが大きくなっていたのは間違いない。

 今回のお話の全広島サッカー大会というのは天皇杯予選を兼ねていて、全国的には96年から天皇杯予選に2種チームの出場が可能になった。しかし、今回これを書くにあたって天皇杯パンフの予選のところを調べてみても広島県では96年に2種が出たという記録は見当たらなくて、どうやら97年からの対応になったようだ。

 私は新聞の日程を見て一球に出かけたけれど、選手等の予備知識は全くない状態だった。スタンドには2年続けて天皇杯決勝のチケットを電話対応していただいたサンフレの事業部長さんがいらっしゃったので(当時は事務所で売っていた)、その隣で観戦した。ユースは1回戦2-0ヤマコーFC、2回戦3-1ルネス学園大竹SCのスコアで準決勝進出。しかし、この準決勝はクラブユース選手権の全国大会とかぶってしまってBチームでの出場だという。まあ、私は選手を1人も知らないのだから、そんなことはあまり関係がなかった。事業部長さんもわかる選手は一人だけ。大怪我をして留年を余儀なくされた雨野裕介(現鳥取U-15監督)が復帰していると教えてもらった。雨野は本来なら大学1年生の年齢であとのメンバーは1年生が多かった。

 ゲームは経大が優勢で前半2失点、ところが1年生FW小坂が倒されたPKで1点返したところから流れが変わり後半追いつく。後半はユースの1年生たちの技術が光っていた。80分過ぎてユースが疲れたところで経大に決勝点が入って2-3で敗戦となったが、面白いゲームだった。今西さんも明るい表情で「楽しみだねえ」とふり返った。

 私が気になったのは11番の選手。2種のゲームはあまり見たことがなかったし、技術がどうとかはわからない。ただ、ピンと来るものがあったとしか言えない。名前を知りたいと思ったが、この頃のユースはピッチでの声はあまり聞こえなかった。片付ける時にコウジと呼ばれているのがやっと聞こえてきて、「11番コウジ」とメモして帰った。

 その日何枚か撮った写真を見ると、駒野は写っているけれどカズの姿は見当たらない。あるいは、1年生でただひとりAチームの遠征メンバーに入っていたのかもしれない。

その後、当時クリスタルプラザにあったVポイントにユースの会報「みつや通信」が貼ってあり、そこに新入生の氏名一覧がのっていて初めて双子の兄がいることを知る。カズのプレーを見たのは9月のJユースカップが始まってからだった。この大会では双子と駒野の3人が1年生ながらスタメンに名を列ね、年末の本戦では準優勝だった(Jユースカップは今でもグループリーグを予選リーグと呼んでいる)。この年は右サイドに行友亮二(現徳島U-18監督)というタレントがいて駒野は左サイド。決勝の清水戦では対面の市川大祐(当時2年)にかなりやられてしまったが、市川は翌年のフランスW杯の候補になるような選手だったから当時としては仕方ない事だった。

 この日コウジに出会ったことは、私にとって大きなターニングポイントとなって、次第にユース中心の観戦に変わって行った。コウジに注目したことは大変なビギナーズラックだったけれども、今でもこういう出会いを大切にしたいと思っている。素人のカンもね。先日のホームゲームでコウジの復帰を願う幕が掲げられたのをテレビで見て、この日のことを書いてみようと思った。私もコウジの復帰を心から願っている。


 


ランダムにサンフレ昔話 その6 タムのゴール

2014-04-14 18:27:10 | サンフレ昔話

 今日は10年前に田村祐基が初出場初ゴールを決めた日。2004年4月14日ビッグアーチ19時キックオフのJ1ファーストステージ第5節名古屋戦をふりかえってみる。画像は翌日の中国新聞。

 タムはユース9期生。Jrユースからの同期に田坂祐介がいる。前年2003年ユース3年の時のタムは、レギュラーというわけでもなかった。当時のユースの3トップは前田俊介、西山貴永、馬屋原の3人が先発する事が多く、タムは俊介が代表に行った時や途中出場が多かった。しかし2年途中まで監督だった中村重和さんから、タムは2年生の時はまだ背が伸びていて成長痛があったそうで将来は上に行く可能性があるという話を聞いたことがある。この03年に16歳の洋次郎がJ2デビューしたことはよく知られているが、春のキャンプから小野監督は洋次郎、一誠、俊介、佐藤昭大と2年生を召集、タムや田坂の3年生は蚊帳の外であった。であるから、3年生からのトップ昇格はないだろうと思っていた。ところがどういう理由かわからないが3年生からも1人上げようという機運が出てきて、3年生選手の進路の意向や小野監督がドリブラーがあまり好きではないことも影響があったのかもしれない、田坂や西山ではなく候補はFW2人にしぼられた。強化部は迷ったみたいで決定は遅れたようだ。結果は将来性を重視してタムに決まり、サンフレジュニアユースから初めての昇格となった。

 さて、4月14日のゲームに移ることにする。小野監督といえば1トップ2シャドウの元祖みたいな存在で最初は4-5-1が基本であったが03年の途中からは3バックや2トップ、試合中に変化することもしばしばあった。このゲームもスタートは3-6-1、高木和正が入った65分以降は4-5-1と変化した。どちらも前は1トップ2シャドウ、両方書いてみよう。3バック時のサイドは前回同様ボランチと同列に書いてみた。


スタート

FW 27中山元気

MF 8カズ、7コウジ

MF 17服部、6サンパイオ、16ハンジェ、14佐藤一樹

DF 28吉田恵、2リカルド、19井川

GK 1下田

(SUB) GK21タクト、DF22大久保裕樹、MF15高木、FW9眞中、32タム


65分(佐藤一樹→高木和正)以降

FW 32タム

MF 15高木、7コウジ

MF 8カズ

MF 6サンパイオ、16ハンジェ

DF 17服部、28吉田恵、2リカルド、19井川

GK 1下田


名古屋の方もメンバー表順に書いておく。

GK1楢崎、DF2秋田、3パナディッチ、5古賀、MF17海本、25吉村、11大野、13滝澤、7中村、FW10ウェズレイ、9マルケス

(SUB) GK22川島、DF6中谷、MF21岡山、31山口、FW28渡邊


 前半はポゼションでは互角以上に戦っていたが相手の2トップと後ろから出てくる中村には迫力があって、攻撃の怖さという点では名古屋が断然上だった。ユースファンからするとシャドウに双子を並べて鏡に映したように攻める趣向?は楽しい。しかし、カズがシャドウというのはタイプではないし攻撃のタレント不足は否めない。これは今のメンバーと比べて言ってるのではなくて、当時のノートにそう書いているのだから間違いないと思う。なお、FWにはチアゴ、大木、盛田がいたけれどケガで離脱していた。ゲームは前半44分、マルケスに決められて、雰囲気としてはかなり重い失点だった。

 そして、後半頭から元気に代わってタム、出るならもっと短い時間かなと思っていて正直言って45分は荷が重いと思った。ところが49分、後半からトップ下にまわったカズが左サイドを持ち上がって縦にパス。これは記事にもあるようにコウジへのパスだったようだが途中でタムがインターセプトするように中に走って左足シュートが決まった。J初出場、しかもファーストシュートで楢崎からゴール。これは本当にびっくりしたし嬉しかった。Jrユース時代のコーチはメインで大泣きだったと聞いた。

 しかしそのあとは、パナディッチにしっかり抑えられて競り合いを繰り返すうちに30分でばててしまった。後半途中からは防戦一方だったが結果は1-1のドロー、負けなくてラッキーと当時のノートにある。

 その後のタムは小野さんの戦術に苦戦して、次第に動けなくなっていく。結局タムのJ1での得点はこの1点だけだった。そのあと愛媛、岐阜、鳥取を経てパラグアイに渡り、パラグアイの最初のシーズンを終えたあとのユースOBフットサルでは本当にキレのある動きを見せていてもう一度Jでやれるのではないかと思っていた。それだけに次の年のケガは残念で、吉田や文化センターで復帰を目指したけれど、そのあと引退を決断しだそうだ。

 あのゴールはまぐれだったという人もいる。しかし、小野監督のようなきっちりデザインされたサッカーであっても、別の味方へのパスかっさらってゴールするような反乱分子?が1人ぐらいいた方が面白いという証拠ではないかと思うのだけれど、どうだろうか。