最近は同人活動ばかりの報告&告知がほとんどだったので、
久しぶりに、自分なりの意見を書いていきたいな、と思います。
自分としては、小学5年生のときの「いじめ」の経験が、すべての価値観と生き方を変えたので、
やはり、「いじめ」について、自分なりの意見をもっと述べたいと。
それで、これから、何回かに分けて、「いじめ」についてのお話をしたいと思います。
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私は、小学5年生のときに一番仲の良かった友達を筆頭にいじめを受け、
クラスの大半の女子にいじめを受けました。
しかし、いじめに気がついた実母のおかげで、なんとか、生き地獄から脱出でき、
中学からは勉強とアメリカドラマに没頭し、今に至ります。
これだけ聞くと、
「いじめで痛みを知ったからこそ、優しい人になれた」とか
「いじめがあったからこそ、勉強を頑張ることができて、難関有名大学に入れたから結果オーライ」
と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
でも私はいじめがなくても、元々、優しい性格だったし、勉強だって、たぶん中学に入ってからは伸びたと思います。
私の場合、パニックになるから問題が解けなかっただけだし、小学生のころ、成績不振だったのはいじめの後からです。
たしかに、いじめの経験があるからこそ、「ER」や「MAJOR CRIMES」「LAW&ORDER」などのアメリカドラマにハマったとは思いますが、
そうでなくても、好きになっていた作品だと思います。だって、このドラマ、いじめがテーマじゃないもん。
むしろ、「いじめ」により、失ったものの方が大きい。
その1つは「いまだに女性、とくに女子の集団が怖い」こと、
もう1つは「自分の好きなものを言えない」ことです。
一番の親友が、悪意ある噂に騙されて、が発端でおきた、小5のいじめ。
そのため、
「今、仲良くしてくれても、いつかは徒党を組んで私を追い出すかもしれない人たち」
と友人たちを思ってしまう私。
「友人」は「迫害者予備軍」、そう思ってしまう・・。
同じ生活空間に生きている間は、常に一定の距離を置く私。
例えば、高校では同じクラスにいる間は、仲良くしていても、その人が、悪意ある人にあやつられて、
いつ、私を攻撃するかわからない、攻撃されても私には逃げ場がない、という恐怖感に常にさらされる、という状態。
大学でも、仕事場でも一緒。
しかし、その心配はまったく必要なかった。みーんな、ずっと仲良くしてくれる。
本当にありがたい人々!
でも、高校、大学を卒業してしまえば、当時の友人は怖くなくなるんです。
「その人と会っているのは、私とその友人本人しか知らない。近くに悪意ある人間はいないのだ。」と。
そして、やっと、その友人に自分をさらけ出せるのです。好きなものを言えるのです。
「マンガを読んでいても、それで私を「馬鹿」「子供」「人間のくず」「親不孝者」とは愚弄しないよね?」
「私が裏であなたの悪口を言っている、という嘘をあなたは信じないよね?」
「私の頭の構造について、アナタは批判したりしないよね?」
「あなたは、私の、育児を放棄している父親の方を擁護して、私を本気で愛してくれている母親を非難したりしないよね?」
「父親を愛さない私を異常者扱いしないよね?」
「左利きだから一緒にいると迷惑、と言って、グループから追い出さないよね?」
「私の作成したものを自分の功績として出し、アナタの失態を私の責任として先生に言わないよね?」
「私の持ち物を愚弄しないよね?盗んだりしないよね?」
「私のネーミングセンスを子バカにしないよね?」
「私の何気ない言葉や動きに、上げ足とって、それで私は人間のクズ、性格悪いって言って、
私の築き上げたものをかすめとっていかないよね?」
そう思うようになり、
卒業後、やっと、自分の本音が友人たちに言えるんです。
そして、心の底から、その友人たちを愛せるようになるんです。
ありがたいことに、高校・大学のときの友人関係は続いていて、
中には、在学中には特に仲の良くなかった子とも2人きりであったり、
相談を受けたり、と、幸せです。
でも、今はママ友づくりがとてつもなく怖い・・。
小学校のころと同じ感触が感じらて、とても怖い。
でも、1歩を踏み出さないと、とがんばり中です。
もし、小学生のいじめがなければ、ママ友づくりも
大変だけど、充実したものになるのに、
と思ったりします。
「敵になるかもしれない」とおびえながらも、笑顔でい続けるのは、かなり疲れる・・・。
でも、過去のことを言っても・・と、いろんな頭がグルグル。
だから、私は「いじめ」が「良い経験」であるとは絶対に思えないのです。
※こちらはあくまで私個人の意見です。
他の意見をぶつけられても、私にはどうすることもできませんので、
ご了承して頂けると助かります。