元、私が教えた学生のAさんが震災5日目に家族を連れて母国へ帰国しました。
日本語学校、大学、日本での就職と順調にキャリアを積んで来たのですが、
母国の家族の強い要望に応えて、帰国することに決めたのです。
最後にわざわざ電話をかけて、挨拶をしてくれました。
「元気でね。どんなところでも今まで築いたキャリアを活かせるはずだから.。」
と話し、メールアドレスを交換しました。
どうやら、彼は母国の日系企業に就職ができたようです。
よかった!
母国に帰ってもAさんが知日派であることに変わりはありません。
彼のその気持ちが彼の子どもにも引き継がれることは確かだと、信じています。
草の根の絆はけっこう強いはず。
私も2人の息子のうち、ひとりが中国と係わってくれたらいいな~、と思っていましたが
何だかんだの末、交換留学で長男が中国に長期留学中。
彼が中国留学を決めたとき、心底、嬉しかったです。
1980年代、北京で大変お世話になった恩師、王先生は
「◎◎さん(←私のこと)、これからの交流は民間でのレベルが大切です。
あなたは草の根になってください。」
と、私の手を握り、真剣に願っていました。
当時、すでに80歳近く。
王先生は第二次世界大戦後、中国で日本人が収容されている捕虜収容所の
所長でした。
もともと教育者でしたらから、日本人の捕虜に対しても人道的な扱いをして、
戦後、捕虜たちから『先生』と慕われ続けた人です。
でも、王先生の子どもは日中戦争中、栄養失調で亡くなったと聞きました。
5人の子どものうち、ひとりしか育たなかったそうです。
王先生は文革中、捕虜収容所での日本人の処遇で批判され、
それは大変な苦労をされたということでした。
私は日本語学校でたくさんの中国人を教えました。
ちょっとだけ、王先生との約束を果たせたような気がします。
たくさんの『知日派』を作ることが、私のひとつの使命のようなものだと思っています。