goo blog サービス終了のお知らせ 

Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

譲渡担保を巡るエトセトラ(12)

2021年11月20日 06時30分51秒 | Weblog
 私が弁護士になって最初に受任した事件の中に、不動産譲渡担保の案件があった。
 とはいえ、依頼者は「譲渡担保ではない」という主張を行っており、私は前任者から証拠調べ直前の段階で引き継いだので、その主張を維持するほかなかった。
 事案の概要は、以下のとおりである(分かりやすくするためアレンジしてある。)。
 私は、Yの訴訟代理人という立場であった。

・東京郊外の原野を、個人で土木業を営むXが取得。Xは、宅地造成費用として住宅販売業者:Aから750万円を借り入れ、所有権登記がAに移転。借用書には「譲渡担保」と記載されていた。
・XはAから追加融資250万円を受けたものの、それでも造成費用が足りないためさらに無心するが、Aはこれを断る。
・Xは、別の住宅販売業者:Yを連れてAを訪れ、返済を約する。
・売買を原因として所有権移転登記がAからYに移転した翌日、YはXに1500万円を融資し、「XY両者協力して本件土地を宅地に造成し、売却に向けて尽力する・・・」等という内容の「覚書」を締結。
・その後、YはXに500万円を融資(これにより融資残高は2000万円)。ところが、Xは資金繰りに窮したのか、工事を中止する(重機は本件土地上に置いたまま)。
・Yは、Xの甥(肩書は、個人事業主であるXの従業員)に依頼して、本件土地の造成を完了させる。
・Xから期限までに返済はなく、資金難に陥ったYは、本件土地を別の住宅販売業者に5000万円で売却し、所有権移転登記完了。
・X、Yを被告として、譲渡担保の清算金3000万円の支払を求める訴訟を提起。
・Y、Xを被告として、貸金2000万円の返還を求める反訴を提起。


 裁判官も事実認定に悩んだらしく、弁論を終結したものの、判決言渡し期日は2回延期された(1回目は弁論を再開して双方が書面・証拠を提出)。
 判決は、「譲渡担保」と認定し、控訴審でもこれは覆らなかった。
 

譲渡担保を巡るエトセトラ(11)

2021年11月19日 06時30分52秒 | Weblog
現代日本法へのカタバシス【新版】
 「委任の観点からするならば、Xは何故自分でMNの間を媒介せず、Aのようなものを挟むのか、という問題が立つ。MやNに信用を与えてリスクを取らなければならない立場であるのに、まさにこれを回避したいのであろう。Aの(自分以外の)債権者に損失を押し付けて自分は逃げ切ることができる。ただしもちろん包括的な譲渡担保を自分だけが取っている限りにおいてである。
 ・・・Aは縛られ信用されない分、投げやりになる。包括的な譲渡担保で縛れば縛るほどAには裏切りの動機が発生する。現にYに寝返った。
」(p195)

 こういう取引社会にいると、「ジャイアン/恐竜だらけの街」で暮らしているような錯覚に陥りそうである。
 そういえば、二十年ほど前、ある大商社に勤めている友人に業界事情を聞いたら、こんな説明があった。

 「商社というのは、実は『金貸し』なんだ。例えば、東南アジアのインフラ開発プロジェクトに金を貸し、その際、LIBOR+10%なんていう高い金利を取って稼ぐんだ。信用調査なんて簡単だよ。エクセルでキャッシュフローが回るかどうか計算するだけさ。

 「まさにジャイアンだな」と思っていたところ、しばらくしてこの商社は経営危機に陥った。
 バブル時代の一部の金融機関と同じことをしていたのだから、無理もない話である。
 さて、動産の譲渡担保を見れば、「ジャイアン」や「恐竜」が跋扈する取引社会の惨憺たる状況が明らかになるわけだが、いまだに不動産の譲渡担保もあって、こちらはやや違った様相を呈している。

譲渡担保を巡るエトセトラ(10)

2021年11月18日 06時30分40秒 | Weblog
 そんなにAを信用出来ないというのであれば、Xは初めからAに鋼材を売らなければよいのではないかと思える。
 だが、Xはそうしなかった。
 もちろん、そうしなかったのには訳がある。
 ここは、Xが商社であり、Aが卸売業者であること、つまり、両者とも(集合物である)「在庫」(ギールケの「キリストの神秘的な肉体」の一種?)を命とする業態であることがポイントである。
 そもそも在庫の経済的機能とは何だろうか?

市場の秩序学(塩沢由典)
在庫の基本的機能は連結するふたつのものを時間的に切り離すこと(decoupling)である。・・・もし在庫の保有が不可能であり、販売と産出、仕入れと投入との切り離しが不可能であるとすれば、・・・無駄のない生産を組織するには遠い未来の需要を正確に知らなければならないが、そのようなことはもちろんできない。
在庫に比べると貨幣はより手の込んだ仕組みであるが、その基本的機能はやはり切り離しにある。・・・貨幣はそこに一般的等価物という観念を持ち込むことにより、個人における売りと買いの分離を可能にしたのである。・・・貨幣の保持は決定の留保であるから、それは反面では消費や投入への緊急性の欠如を示している。・・・このとき他方に緊急性に直面している個人あるいは法人がいるとすれば、貨幣の貸借が起こりうる。これが信用である。」(p285~288)

 「在庫」は、「貨幣」と同じく、インプットとアウトプットとをdecoupling(時間的に切り離すこと)することによって、需要者に信用を与えることを本質的な機能としている。
 商社や卸売業者は、例えばメーカーにとっては「在庫」のアウトソーシングであり、これによって自らは在庫を抱えなくて済む(つまり資金負担がなくて済む)というメリットがある。
 ある意味では、我妻先生の所謂「客観的意義における企業」(ここでは在庫)が「法律関係の主体たる地位」(法人格)を獲得したものが、商社又は卸売業者なのである。
 だが、「在庫」を保有する側は、当然のことながら、それに伴うリスク(その最たるものが与信リスク)を引き受けることとなる。
 それゆえ、商社や卸売業者は、売先の信用調査を慎重に行うわけである。
 ところが、XはAに鋼材を売っておきながら、「お前の物は俺の物」と主張しているわけであり、そこに「ジャイアン」の論理はあるとしても、およそ信頼や「愛」はない。
 Xは、前述した与信リスクを(系列企業である)Aに押し付けることを図り、そのための手段として譲渡担保を用いたというのが真相ということになる。

譲渡担保を巡るエトセトラ(9)

2021年11月17日 06時30分08秒 | Weblog
[笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う (紙版)(p44~46)
T:なんでここまでしなければならないのですか?
S19:他の債権者を警戒しているのです。
・・・
S6:すべて自分の支配下におく、そして唾をつける。そうでなければ不安である、ということでしょうか?カラオケで年配のおじさんがマイクをずっと独占し「骨まで愛して」という歌を歌っているのを見たことがありますけど。
・・・
S16:あー、そうすると、限りなくある種の恋愛に似てますねえ。事案のポイントの一つが見えてきます。Xがそう考えているとすると、Aの行動は大問題です。XはAに惚れていてAを独占したい。ところがAはなぜか同じ鋼材をXではなくYから仕入れた。
・・・
S18:要するにつかみたいのですね。いわば、抱きしめたい。ぐっと抱きしめる。そうでないと不安でたまらない。
S12:だとすると筋のよい恋愛ではないかあ。探偵を雇ってつねに浮気を監視しているとか。
T:じゃあ、筋のよい恋愛ならば?
S8:相手を本当に信頼していますから、そんなことはしません。
T:すばらしい!そうすると、愛してはいるが信頼していない?
S8:いえ、愛していません。
T:愛していれば?恋愛のメタファーから出て言えば?
S8:代金が支払われるであろうと確信している。
・・・


 こういう授業が実際にロースクールで行われているのだろうか?
 上に引用したやり取りは、「ストーカー型配偶者/交際相手」との離婚訴訟などの分析としても通用しそうである。
 つまり、Xは、Aを信頼しようとせず、Aの占有を排除してAが大切にしている対象物を上から押さえ、それによって対象物を支配する、あるあは、そのことによってAをも支配しようとするわけである。
 なので、譲渡担保権は、「ストーカー担保権」と呼ぶのがふさわしいと思われる。
 ただし、譲渡担保権者には、ストーカー型配偶者/交際相手」におけるような「愛」が欠けている!
 
 

譲渡担保を巡るエトセトラ(8)

2021年11月16日 06時30分09秒 | Weblog
 「特定性」の要件に寄り道したのは、そもそも「集合物」に担保権、ましてや譲渡担保権を設定することがおかしいという問題点を指摘するためであった。
 さて、本題に戻るとして、譲渡担保の違法性はどこにあるかだが、まず譲渡担保が狙いとするものを見極める必要がある。
 差し当たりは、「私的実行」、つまり、裁判所による執行手続を排除して、権利を実現してしまおうという狙いが挙げられる。 
 だが、それ以上に、譲渡担保は、もっと根本的なところで、法の基礎を覆すことを狙っていると思われる。
 その狙いは、端的に言えば、「占有原則」の脱法である。
 「占有原則」については、木庭先生の以下の説明が分かりやすい(但し、表現は私が若干アレンジしている。)。

 「占有とは、『主体と対象物との間の、排他的に密接な関係』を意味します。この主体は独立の個人であり、対象物との間に『帰属』という観念はありません。この『占有』を侵害してはならないというのが占有原則です。占有は、所有権とは違い、いったん失えば他者に移ってしまい、取り戻すことは出来ません。取り戻したい場合には裁判に訴えるしかないことになります。」(「憲法9条の適用問題 ー 改憲論に備えて」2021年11月10日第二東京弁護士会)

譲渡担保を巡るエトセトラ(7)

2021年11月15日 06時30分45秒 | Weblog
 「キリストの神秘的な肉体」をむさぼり食らう恐竜(三井物産と(旧)日商岩井)の姿を見たら、ギールケ先生は卒倒するかもしれない。
 ・・・さて、「特定性」の論点に戻ると、これを法学部生に問うのはちょっと酷だったという気がする。
 この問題について実務家に問えば、ほぼ100%、「それは、執行できるかどうかですね」という回答が返ってくるはずである。
 つまり、「特定性」の定義は、「執行可能性」というテクニカルな観点から逆算してなされるというのがおそらく実態なのである。
 これは、執行法において、一定の時点で、倉庫ないしヤードへの鋼材の搬入とそこからの搬出を止める手段が存在するかどうかという問題に帰着する。
 つまり、動産の所在する場所が、「(執行官の手で)封鎖可能な空間」と言えるかが決め手ということになる。
 これについては、「動産執行の申立について」が分かりやすい。
 執行官が、「差押物件封印票」により封印し、「差押物件標目票」を作成して管理できるのであれば、「特定性」の要件はクリアーしたと言える。
 なお、集合物の「特定性」を考える際には、預金債権の執行を考えるとよいと思う。
 預金も、時々刻々と変動するものであるが、差押命令が第三債務者(金融機関)に送達されると、第三債務者は速やかに口座をロックするので、対象債権が特定出来る。
 逆に言うと、こういう「ロック」が出来ない場合には、「特定性」を欠くということになるだろう。

譲渡担保を巡るエトセトラ(6)

2021年11月14日 06時30分00秒 | Weblog
オットー・フォン・ギールケ 歴史法学論文集 第2巻 12.人間的諸団体の本質(一九〇二年)
 「・・・別の思想世界から由来しているのは、キリストの神秘的な肉体としての教会という神学的ー法学的観念です。それは、使徒パウロが、その中で、キリストにおいて一つとなった人間性を、神の精神によって支配された唯一の肉体として示すところの、すなわち、<《すべての構成部分が互いを必要とし合い、そして、そのようにして、構成部分が苦しむとすべての構成部分がともに苦しみ、そして、構成部分が立派に保たれるとすべての構成部分がともに喜ぶというように》、そのあらゆるものがその場所で特別の方法で全体に奉仕し、そして、その最も僅かなものが全体のための価値を有するところの>多くの構成部分をもつ一つの肉体として示すところの、深遠な聖書の諸言葉にさかのぼります。しかし、この比喩が、外的な教会有機体[教会組織]に向けて解釈され、そして、〈その比喩をすでに使徒が、晩餐において設立されたキリストの血と肉のゲマインシャフトをもってその中へおいたところの〉結合に従って、教会によって支配される秘儀(Mysterium)をとおしての主と構成員たちの関連の排他的な媒介の意味において、解釈されたことによって、コルプス・ミスティークム(Corpus mysticum 秘儀の団体)が<それによって教会とその諸部分の地上的な権利主体性もまた、地上を超えた由来をもつ設立された統一体として現れたところの>一つの法律的刻印を受け取りました。」(p144)

 こちらは、「集合物」ではなく、「社会的な諸ケルパー(団体)」に関する「有機体説」の説明である。
 とはいえ、これこそが「集合物」の原イメージと言ってもよく、そのことは、我妻先生の「憶測」も示す通りである。
 ギールケは、(個別)教会の権利主体性(法人格)が、「キリストの神秘的な肉体としての教会」という観念に由来することを指摘している。
 そして、この「キリストの神秘的な肉体」という考え方が、教会以外の社会的な諸ケルパー(団体)にも類推されたというわけである。
 ちなみに、ドイツ語のケルパーには「団体」と「肉体」両方の意味がある。
 なお、ここでは人的集団(社団)が念頭に置かれているが、これが財団にも当てはまることは、例えば、教会が運営する救貧院などをみれば分かるだろう。
 つまり、おおざっぱに言うと、法人の原初形態の一つは、救貧院のような公益財団法人だったとみることが可能なのである。
 以上を踏まえて、我妻先生が言うところの「法律関係の主体たる地位を取得し、やがて、私的な性格を止揚する傾向を示す」に至った「客観的意義における企業」をイメージしてみると、結局のところ、公益を目的とする、例えば救貧院と似通ったものになるのではないかとも考えられるのである。

 

譲渡担保を巡るエトセトラ(5)

2021年11月13日 06時30分22秒 | Weblog
近代法における債権の優越的地位
 「「資本主義の発達に伴う私法の変遷」は、三部から成る。第一部は所有権論、第二部は債権論、第三部は企業論である。」
 「第三部の企業論では、まず、金銭債権によって合理化された企業が、人的要素をすて客観的な組織として法律関係の客体たる地位を取得することを明らかにすべきである。然る後に、かくして次第に集中され巨大な組織となるに及び、企業は、漸次、法律関係の主体たる地位を取得し、やがて、私的な性格を止揚する傾向を示すことを吟味しなければならない。そして、おそらく、直接間接に会社制度の発展に関する研究を中核として、経済的民主主義の法律的特色を明らかにすべきであろう。しかし、その他にも、私的資本と労働者団体との経営権を巡る深刻な争や、国際資本と民族資本との絶え間なき摩擦、国家権力と企業組織との種々の結合等々、資本主義最近の進展を企業を中心に検討しなければならないことになるであろう。
」(p6~7)

 正に「予言の書」であるが、我妻先生の研究の最終地点は、企業(要するに(営利)法人)論だったのである。
 そこにおいては、「客観的意義における企業」が「客体」(例えば、担保権の目的物)とされるのはあくまで初期の段階であり、発展段階では「主体」(企業=(営利)法人)となることが想定されている。
 つまり、我妻先生によれば、「「集合物譲渡担保」なんて、まだ幼稚な段階だよ」ということのようである。
 さて、上に引用した滋味掬すべき文章は、さきほど「予言」と言ったにもかかわらず、ある意味では「過去への遡行」という風にも説明出来そうである。
 これについては、ギールケの団体法論が参考になる。

譲渡担保を巡るエトセトラ(4)

2021年11月12日 06時30分42秒 | Weblog
民法講義III 新訂 担保物権法
 「・・・内容の変動する集合物は、設定者の売却を目的とする在庫商品のように、それを構成する個々の物が、企業の経営に従って、分離して処分されたり仕入れて加えられたりしながら、しかもなお全体として一個独立の存在が認められるものである。もっとも、独立の存在を認められるためには、純粋に客観的な事情だけに依存せず、例えばある倉庫の東側の棚にある商品全部というように、人為的な表示ないし標識を加えることによって独立存在を認められるものでもよいであろう。但し、この場合にも、外部的・場所的な独立存在を必要とし、単に数量で指示されるだけ(例えば在庫商品の二分の一)では足りない。」(p663~664)

 殆ど最判の判示事項(三)を先取りしているかのような記述だが、この考え方は、「集合動産の譲渡担保に関するエルトマンの提案」と題する法学協会雑誌48巻4号(昭和5年)掲載の論文で既に紹介されていたようだ。
 ここでやや「異臭」を感じるのは、「集合物」の概念について、オットー・フォン・ギールケによる定義が借用されているところである。
 原典を確認しているわけではないけれど、この定義は、「人」(自然人)に関するギールケの(社団)法人理論と似通った思考に基づくものと思われる。
 つまり、「構成する個々の人が、・・・変動しながら、しかもなお全体として一個独立の存在が認められるもの」と言い換えれば、殆ど(社団)法人の定義となってしまう。
 これと関連するのだが、我妻先生は面白いことをおっしゃっている。

 「・・・私がこの問題を研究したのは、これらの制度の内容を明らかにするためではない。「企業」は、たとい「客観的意義における企業」であっても、「社会のあらゆる階層の生活関係が依存」するものであるから、企業そのものは「担保権の客体たる地位から、漸次に、法律関係の主体たる地位を取得するに違いない」。そして、「資本主義の発達と私法の変遷」というテーマの「第二部の債権論から第三部の企業論への転換の契機をそこに見出すことができると憶測し」たからであった。」(p661~662)

譲渡担保を巡るエトセトラ(3)

2021年11月11日 06時30分47秒 | Weblog
 最高裁判決は最判昭和62年11月10日で見ることが出来る。
 事案は、鉄鋼の中間卸業者(A)に対し、売掛債権を被担保債権とする根譲渡担保権の設定を受けていた大手商社(X)と、Aに鋼材を販売した大手商社(Y)との間で起きた、第三者異議の訴えである。
 事案の概要や背景事情については、(第10回)実務家の判例形成への心意気(白石大)が面白い。
 ちなみに、木庭顕先生は、この事件を「大商社肉食恐竜食べるか食べられるか事件」と名付けているが([笑うケースメソッド]現代日本民法の基礎を問う (紙版)・p41)、後に述べるように、「スートーカー担保事件」とでも呼ぶのがふさわしいようである。
 さて、事案の概要を見て真っ先に浮かぶ疑問は、「Aの倉庫ないしヤード内において出入りする同一種類の鋼材」なるものが、譲渡担保権の目的物として特定していると言えるかということだが、この論点については、この判決を見る前に亡くなっていた我妻榮先生が、とっくの昔に分析していた。