Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

丸山先生の錯覚?

2022年08月11日 06時30分55秒 | Weblog
自己内対話 3冊のノートから 著者 丸山眞男
 「多数を以てしても圧服できない個人の尊厳という考え方ーーその根拠づけがキリスト教以外のどこに求められようか?」(p44)

 丸山先生の日記の中に唐突に出てくる一文で、大学時代にこれを発見した私は、思わず「アッ!」と声をあげてしまった。
 その時は、この指摘が正しいと思い込んだので、「やはり日本では『個人の尊厳』という思想は根付かないのだ」という悲観的な意見に一時染まったのである。
 確かに、”日本通”のG.B.サンソムも、日本では伝統的に respect for the individual という考え方が欠けていること、これに対して西欧(特にイングランドとオランダ)では、ピューリタニズムの思想を基盤として、 respect for the individual という考え方が強く現われてきたことを指摘した(”心地よい”私的権力)。
 だとすると、非キリスト教国・非キリスト教徒においては、「個人の尊厳」という考え方を基礎とする国家・社会を築くことは不可能だということになりそうである。
 果たして、この見解は正しいのだろうか?
 おそらく、社会人類学者からは、「正しくない」という回答が返ってくるだろう。

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 「自由とは、「贈与交換を典型とし、しかし言語行為や記号連関をも含む、échange(交換)によって媒介される相互依存(réciprocité)に由る支配従属関係」からの解放のことである。
 échangeと無縁に見える端的な暴力もこの関係の一形態である。
 réciprocitéは定義上集団を発生させ、また集団内と集団間で展開される。かつ、さまざまなリソース、とりわけテリトリーをめぐって発達する。大まかには不透明な利益交換とこれに付随する暴力組織の行動原理である。社会人類学によれば、およそ人間社会に普遍的に見られる事象である。この普遍的なメカニズムからの解放が自由の意味するところとなる。そうであるとすれば、自由は個人のものである。集団こそがréciprocitéの産物であると同時にヴィークルだからである。
」(p8~9)
 
 「réciprocité(レシプロシテ)からの解放」という発想は、キリスト教の誕生に先立って、紀元前8世紀にギリシャで生まれたものである。
 これは、「個人の尊厳」と同義と言ってよい。
 対して、「全人類のための贖罪」という考え方の基礎には、神をも巻き込みかねない、それこそ壮大なレシプロシテの発想が横たわっており、結局のところ、「個人の尊厳」とは相容れなくなるのではないか?
 ・・・こんな風に考えてくると、冒頭の丸山先生の日記は、錯覚であったように思えてくる。

 

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