この”媒介”として援用された「超自我」だが、その内容に関するフロイト先生の説明には変遷が見られる。
当初は、
「エディプス・コンプレックス克服の過程で「禁止者」としての同性の親が、自我の中に取り入れられ、「超自我」が成立する」
と説明されていた。
つまり、自我に取り入れられた「父」(又は「母」)が超自我の正体とされていた。
これが「続精神分析入門」になると、次のように変わる。
フロイト 著:小此木 啓吾
「『続精神分析入門』では、「子どもの超自我は、本来両親を規範としてではなく、むしろ両親の超自我を規範として組み立てられる」、「それは伝統の担い手になる」と語り、「人類は決して現在にばかり生きてはいない。超自我のイデオロギーの中に過去が、種族および民族の伝統が生き続け、この伝統は現在の影響や新しい変化にはただ、徐々にしか譲歩しない」と語っている。」(p68)
「『続精神分析入門』では、「子どもの超自我は、本来両親を規範としてではなく、むしろ両親の超自我を規範として組み立てられる」、「それは伝統の担い手になる」と語り、「人類は決して現在にばかり生きてはいない。超自我のイデオロギーの中に過去が、種族および民族の伝統が生き続け、この伝統は現在の影響や新しい変化にはただ、徐々にしか譲歩しない」と語っている。」(p68)
「父」(又は「母」)が、いつの間にか「両親の超自我」ないし「種族および民族の伝統」(のヴィークル)に変遷している。
しかも、この時点では、「超自我」はエスの「代理人」たるにとどまらず、もはやエスの内部に入り込んでしまっていたようである(前掲「モーセと一神教」p245)。
そして、エスには、「種族および民族の伝統」がビルトインされているらしい。
ところが、他方において、フロイト先生は、このようにも述べる。
(エスは)「混沌、沸き立つ興奮に充ちた釜、エスのなかへ沈められてしまった諸印象は潜在的には不死」
「エスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません、すなわち時の経過というものは承認されません。〔中略〕そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。」(前掲p238~239)
エスには「種族および民族の伝統」がビルトインされているかのように見えるものの、歴史時間とは無関係でそれを超越している、つまり「超(非)歴史的なもの」だというのである。
これは、一見すると矛盾のように思える。
フロイト先生は、「自然」(エス)VS.「歴史」(伝承)の対立において、前者を優位に置く思考から外れることは一切ない。
だが、そのためには、上述した矛盾を解決する必要がありそうだ。
それでは、いったいどうやって解決したのだろうか?