Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

譲渡担保を巡るエトセトラ(6)

2021年11月14日 06時30分00秒 | Weblog
オットー・フォン・ギールケ 歴史法学論文集 第2巻 12.人間的諸団体の本質(一九〇二年)
 「・・・別の思想世界から由来しているのは、キリストの神秘的な肉体としての教会という神学的ー法学的観念です。それは、使徒パウロが、その中で、キリストにおいて一つとなった人間性を、神の精神によって支配された唯一の肉体として示すところの、すなわち、<《すべての構成部分が互いを必要とし合い、そして、そのようにして、構成部分が苦しむとすべての構成部分がともに苦しみ、そして、構成部分が立派に保たれるとすべての構成部分がともに喜ぶというように》、そのあらゆるものがその場所で特別の方法で全体に奉仕し、そして、その最も僅かなものが全体のための価値を有するところの>多くの構成部分をもつ一つの肉体として示すところの、深遠な聖書の諸言葉にさかのぼります。しかし、この比喩が、外的な教会有機体[教会組織]に向けて解釈され、そして、〈その比喩をすでに使徒が、晩餐において設立されたキリストの血と肉のゲマインシャフトをもってその中へおいたところの〉結合に従って、教会によって支配される秘儀(Mysterium)をとおしての主と構成員たちの関連の排他的な媒介の意味において、解釈されたことによって、コルプス・ミスティークム(Corpus mysticum 秘儀の団体)が<それによって教会とその諸部分の地上的な権利主体性もまた、地上を超えた由来をもつ設立された統一体として現れたところの>一つの法律的刻印を受け取りました。」(p144)

 こちらは、「集合物」ではなく、「社会的な諸ケルパー(団体)」に関する「有機体説」の説明である。
 とはいえ、これこそが「集合物」の原イメージと言ってもよく、そのことは、我妻先生の「憶測」も示す通りである。
 ギールケは、(個別)教会の権利主体性(法人格)が、「キリストの神秘的な肉体としての教会」という観念に由来することを指摘している。
 そして、この「キリストの神秘的な肉体」という考え方が、教会以外の社会的な諸ケルパー(団体)にも類推されたというわけである。
 ちなみに、ドイツ語のケルパーには「団体」と「肉体」両方の意味がある。
 なお、ここでは人的集団(社団)が念頭に置かれているが、これが財団にも当てはまることは、例えば、教会が運営する救貧院などをみれば分かるだろう。
 つまり、おおざっぱに言うと、法人の原初形態の一つは、救貧院のような公益財団法人だったとみることが可能なのである。
 以上を踏まえて、我妻先生が言うところの「法律関係の主体たる地位を取得し、やがて、私的な性格を止揚する傾向を示す」に至った「客観的意義における企業」をイメージしてみると、結局のところ、公益を目的とする、例えば救貧院と似通ったものになるのではないかとも考えられるのである。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 譲渡担保を巡るエトセトラ(5) | トップ | 譲渡担保を巡るエトセトラ(7) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事