そろそろまとめということで、日本の婚姻システムに話を戻すと、少なくとも17世紀から戦前に至るまで、これが宗教である「イエ」制度と不可分一体であり、その根幹をなすものであったことは間違いない。
くどいようだが、「イエ」とは、
「父方/母方いずれかのゲノム又は屋号(苗字)などの事業/集団の表章を共有し、日本の土着宗教(柳田國男が言うところの「祖霊信仰」)の原理に基いて、その構成員(死者を含む)のために事業及び祭祀を一体的かつ継続的に営む集団 」
のことである(カイシャ人類学(8))。
付言すると、プラトンの晩年の著作にちりばめられたフレーズとの類似性からも分かるとおり、この思考の基盤に部族社会の原理があることは明らかである。
ここで、「父」のシニフィエ(西欧(フォルム)、中国(気))に相当するものを考えると、消去法で行けば「家業」しかないようだ。
また、その表章である「苗字・屋号」は、シニフィアンということになるだろう。
そうすると、ある種の人たち(政治家その他の「世襲」大好き集団)が、このシニフィアンに異常なまでの執着を示す理由が分かる。
シニフィエとしての「家業」は、いつ倒産するか分からない、いかにも頼りないものだからであり、何とか「苗字・屋号」だけでも存続させたいという気持ちが出て来ても不思議ではないからである。
だが、「苗字・屋号」がシニフィアンだとすれば、その存続に固執することは、「愛」の断念を意味することになるだろう。
なぜなら、トリスタンとイゾルデが真っ先に行ったように、「愛」を実現するためには、シニフィアンが消失することが必要だからである。
結論として、日本の旧来の婚姻システムは、およそワーグナー的な「愛」とは異なるものだった、ということになりそうである。
もっとも、以上は一般庶民についての話であって、天皇家については、別の考慮が必要である。
天皇家は、言うまでもなく、わが国において「苗字・屋号」を持たない唯一の「イエ」(この表現も矛盾くさいが)である。
ここで直ちに気づくのは、太母神=女王が「イゾルデ」という名を代々継承していたというケルト文化との類似性である。
ここでは、太陽神アマテラスを「太母神イゾルデ」、天皇を「英雄(ヘロス)」に置き換えて考えると分かりやすい。
折口信夫ふうに言うと、わが国では、「アマテラスに由来する「魂」が、代々の「天子様の身体」という容れ物において存続する」のである。
しかも、折口説によれば、わが国において「「魂」は一つ」ということなので、そのシニフィアン(但し、この場合は苗字だけでなく名前を含めて)は不要ということになるだろう。
だが、アマテラスから継承されたとされる祭祀は、太母神イゾルデの「「愛」の魔術」ではなく、「「稲作」の技術」である。
これだと、酒は作れるものの、媚薬を作るのは無理だろう。
女王卑弥呼が政権を樹立していれば違ったのかもしれないが、日本ではヤマト王権が政権を握ったのである。
なので、キリスト教文化圏と同じく、やはりわが国でも「愛」は失われていた!
・・・いや、絶望するのはまだ早い。
まだ希望は残っている。
私は、「東京・春・音楽祭」の公式プログラムにそのヒントを見つけた。
近年の日本において、「トリスタンとイゾルデ」とほぼ同じセリフが、紅白歌合戦で放送されていたのである。
「あたしの最後はあなたがいい(いい)
あなたとこのままおサラバするより
死ぬのがいいわ
死ぬのがいいわ」
藤井風は、現代の日本に降臨したトリスタンなのかもしれない。
もしそうだとすると、足りないのはイゾルデということになる。
結論:「日本のイゾルデよ、降臨せよ!」