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Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

プロスペローとリア王、あるいは無意識肥大症と自我肥大症

2024年03月11日 06時30分00秒 | Weblog
 
 「リア王」については、いろいろ首をかしげたくなるような批評ないし批判がある。
 代表的なものを4つ挙げてみる。
① 第1幕第1場のリア王の怒りは「動機を欠いている」(p208、212)
 この批判は実に間抜けと言うほかない。
 リア王が常軌を逸した「動機なき怒り」を呈したのは、認知症による「易怒性」によるものと解するのがいちばん自然だろう。
 理不尽な(動機が理解出来ない)怒りであるからこそ、ケント伯爵は危機感を抱いたのである。
 ちなみに、刑事事件においては、精神障がいのある被告人の責任能力を測る重要な判断基準として、「行為の了解可能性」というものがある。
② グロスターと2人の息子(エドガー&エドマンド)という「副筋」は「余計な夾雑部である」(p212)
 これも的外れな批判であり、福田氏は的確に反論している(p213~)。
 だが、福田氏の説明もやや錯雑としており、私見では、「対位法的手法」(対位法を知ろう!歴史から実践まで)という説明がしっくりくると思う。
 つまり、シェイクスピアは、「定旋律」(=リア王と3人の娘)と「対旋律」(=グロスターと2人の息子)という2つのメロディライン(=ストーリー)によって戯曲を構成したのである。
 ちなみに、この手法は、「終わりよければすべてよし」などでも採用されている。
③ リア王と道化との対話は「悪ふざけ」に過ぎない(p216)
 これも不可解な批判である。
 古代ローマの時代から、宮廷道化師は王侯貴族の邸内に召しかかえられていた。
 実は、伝統的に、「王」と「道化」は対を成すものと考えられていたのである(この点は中村保男氏が的確に指摘している(p229~))。
 「リゴレット」が分かりやすい例である。
 もっとも、「リア王」における道化は、後述するとおり、別の重要な意義を併せ持っていると思われる。
④ 「劇的に重要なのは嵐そのものではなく、嵐がリアに及ぼす影響なのである」(p229)
 これも首をかしげたくなる批評である。
 シェイクスピアが「嵐」を単なる自然現象として表現したのでないことは当然だが、それを「リアに影響を及ぼすもの」、つまりリアの「外側にあるもの」と理解するのは、おそらくシェイクスピアの意図を汲みつくしていないだろう。
 この点、良いヒントとなるのは「テンペスト」である。
 シェイクスピアは、「嵐」はプロスペローの「無意識」が起こすものであること、つまりプロスペローの「内側にあるもの」の反映(あるいはそのののズバリ)であることを示唆している(もちろん、その当時「無意識」という概念が存在していたわけではないけれど)。
 というのは、魔法の力で「嵐」を惹き起こし、あるいは女神ジューノーやセーレーズ、はたまた怪獣ハーピーに変身する妖精エアリエルこそは、プロスペローの「無意識」と解することが出来るからである。
 なので、「テンペスト」の翻案である映画「禁断の惑星」の中で、怪物(=嵐)は、モービアス博士が眠っている時だけ出現する(イドの怪物)。
  それにしても、
 「エアリエル」=「プロスペローの『無意識』」
というのは天才的な解釈である。
 そして、プロスペローは、「無意識肥大症」とでも言うべき病を発症しているのである。
 これをヒントにすれば、リア王を取り巻く「荒野」も、リア王に吹き付ける「嵐」も、リア王自身の「内側にあるもの」(=自我)の反映(あるいはそのものズバリ)と捉えるのが正しいことが分かる。
 錯乱状態に陥ったリア王は、外的なものを全て「自我」と認識してしまう、いわば「自我肥大症」という病に冒されている。
 このことは、例えば、次のリア王のセリフからも読み取ることが出来る。

(裸同然のエドガーを見て)
 「貴様も娘共に何も彼もくれてしまったのか?そのなれの果てがこの様か?」(p109)
 「そうか、娘共がこのような目に遭わせたのか?おい、お前は己れには何も残していなかったのか?皆くれてしまったのか?」(p110)

 リア王の目には、エドガーが自分の似姿、つまり「娘たちに虐待される父」に見えたのである。
 これに対して、リア王をさんざん批判したり馬鹿にしたりする「道化」は、リア王の中に僅かに残った「健全な自我」を代表していると解するのが正しいと思う。
 ところで、①~④のような批評を行ったのは、いったいどこの誰だろうか?
 実は、トルストイ(①~③)とハーレイ・グランヴィル=バーカー(④)である。
 文豪も、大批評家も、実際には誤読をしてしまうことの例というべきだろうか?