「リア王」については、いろいろ首をかしげたくなるような批評ないし批判がある。
代表的なものを4つ挙げてみる。
① 第1幕第1場のリア王の怒りは「動機を欠いている」(p208、212)
この批判は実に間抜けと言うほかない。
理不尽な(動機が理解出来ない)怒りであるからこそ、ケント伯爵は危機感を抱いたのである。
ちなみに、刑事事件においては、精神障がいのある被告人の責任能力を測る重要な判断基準として、「行為の了解可能性」というものがある。
② グロスターと2人の息子(エドガー&エドマンド)という「副筋」は「余計な夾雑部である」(p212)
これも的外れな批判であり、福田氏は的確に反論している(p213~)。
だが、福田氏の説明もやや錯雑としており、私見では、「対位法的手法」(対位法を知ろう!歴史から実践まで)という説明がしっくりくると思う。
つまり、シェイクスピアは、「定旋律」(=リア王と3人の娘)と「対旋律」(=グロスターと2人の息子)という2つのメロディライン(=ストーリー)によって戯曲を構成したのである。
ちなみに、この手法は、「終わりよければすべてよし」などでも採用されている。
③ リア王と道化との対話は「悪ふざけ」に過ぎない(p216)
これも不可解な批判である。
古代ローマの時代から、宮廷道化師は王侯貴族の邸内に召しかかえられていた。
実は、伝統的に、「王」と「道化」は対を成すものと考えられていたのである(この点は中村保男氏が的確に指摘している(p229~))。
「リゴレット」が分かりやすい例である。
もっとも、「リア王」における道化は、後述するとおり、別の重要な意義を併せ持っていると思われる。
④ 「劇的に重要なのは嵐そのものではなく、嵐がリアに及ぼす影響なのである」(p229)
これも首をかしげたくなる批評である。
シェイクスピアが「嵐」を単なる自然現象として表現したのでないことは当然だが、それを「リアに影響を及ぼすもの」、つまりリアの「外側にあるもの」と理解するのは、おそらくシェイクスピアの意図を汲みつくしていないだろう。
この点、良いヒントとなるのは「テンペスト」である。
シェイクスピアは、「嵐」はプロスペローの「無意識」が起こすものであること、つまりプロスペローの「内側にあるもの」の反映(あるいはそのののズバリ)であることを示唆している(もちろん、その当時「無意識」という概念が存在していたわけではないけれど)。
というのは、魔法の力で「嵐」を惹き起こし、あるいは女神ジューノーやセーレーズ、はたまた怪獣ハーピーに変身する妖精エアリエルこそは、プロスペローの「無意識」と解することが出来るからである。
それにしても、
「エアリエル」=「プロスペローの『無意識』」
というのは天才的な解釈である。
そして、プロスペローは、「無意識肥大症」とでも言うべき病を発症しているのである。
これをヒントにすれば、リア王を取り巻く「荒野」も、リア王に吹き付ける「嵐」も、リア王自身の「内側にあるもの」(=自我)の反映(あるいはそのものズバリ)と捉えるのが正しいことが分かる。
錯乱状態に陥ったリア王は、外的なものを全て「自我」と認識してしまう、いわば「自我肥大症」という病に冒されている。
このことは、例えば、次のリア王のセリフからも読み取ることが出来る。
(裸同然のエドガーを見て)
「貴様も娘共に何も彼もくれてしまったのか?そのなれの果てがこの様か?」(p109)
「そうか、娘共がこのような目に遭わせたのか?おい、お前は己れには何も残していなかったのか?皆くれてしまったのか?」(p110)
リア王の目には、エドガーが自分の似姿、つまり「娘たちに虐待される父」に見えたのである。
これに対して、リア王をさんざん批判したり馬鹿にしたりする「道化」は、リア王の中に僅かに残った「健全な自我」を代表していると解するのが正しいと思う。
ところで、①~④のような批評を行ったのは、いったいどこの誰だろうか?
実は、トルストイ(①~③)とハーレイ・グランヴィル=バーカー(④)である。
文豪も、大批評家も、実際には誤読をしてしまうことの例というべきだろうか?