古代ギリシャ人の「時間観」と言えば、ここはやはりプラトンの著作を追っていくのがよいだろう。
但し、彼の「時間観」はどうやら一定ではなく、変遷しているように見える。
(ディオティマがソクラテスに対し)「死から逃れられない生き物はすべて、このようなしかたで存続していく。神のように、あらゆる点で永遠に同一性を保つというやりかたではなく、老いて消え去りながら、自分に似た別の新しいものをあとに残していくというやりかたでな」
「ソクラテスよ、このようなやりかたで、死から逃れられない生き物は不死にあずかる。肉体であれなんであれ、すべての点でな。これに対して、不死なるものには、それとは別のやりかたがあるのだ。」(p142)
ディオティマは、「生き物」は「自分に似た別の新しいものをあとに残していく」ことで「存続」(これも矛盾くさい表現だが)つまり「時間」の克服を図っていることを指摘する。
言うまでもなく、これが婚姻システムの目的ということになるだろう。
ここで、「永遠に同一性を保つ」やり方が否定されているところからすると、「時間」は回帰しないのだろう。
すると、この思考は、「円環的時間観」ではなく、「直線的時間観」(進歩史観)を前提しているように思われる。
「私たちはこの問題を、次のような仕方で考えてみよう。人間が死を迎えると、その魂は冥府で存在するのか、それともしないのかを問うのだ。
さて、私たちが記憶する、古くからの言葉がある。曰く、『ここから彼の地に到ってそこにあり、再びこの地に来たりて、死んだ者たちから生まれる』。そして、もしこの通りなら、つまり、生きた者が死んだ者から生まれるのなら、私たちの魂は彼の地で存在する、ということ以外であり得ようか。」(p66。命と壺(6))
さて、私たちが記憶する、古くからの言葉がある。曰く、『ここから彼の地に到ってそこにあり、再びこの地に来たりて、死んだ者たちから生まれる』。そして、もしこの通りなら、つまり、生きた者が死んだ者から生まれるのなら、私たちの魂は彼の地で存在する、ということ以外であり得ようか。」(p66。命と壺(6))
「いや、神と<生>の形相そのもの、そしてもしほかに不死なるものがあるとすればそれも、けっして滅びることはないと、全ての者から同意が得られると思う。」(p221)
「他方で、敬虔な生き方をしたという点で特に優れていたと判定された人々は、まさに牢獄から解放されて自由の身となるように、大地の中のこの場所から解き放たれ、上方の正常な住処へと到って、大地の上方に住まいを定めるのである。この人々の中でも、知を愛し求める哲学によって十分に自らを浄め終えた者が、それ以後、肉体から完全に離れて生きるのであり、この地よりもずっと美しい住処に到るのだが、その土地のことをつまびらかに示すのは容易ではなく、今は十分な時間もない。」(p244~245)
ソクラテスは、(肉体が)生きていたときと同じ魂が、(肉体の)死後は「冥府」(通常は「地中」であり、英雄アキレウスも例外ではない。特別な日(8))又は「上方の正常な住処」(仮に「天界」と名付けておく)で暮らし続けると述べる。
つまり、魂が向かう先は「地中」と「天界」の二つがあり、「地中」に行くグループは再び肉体に宿って現世にリターン(輪廻)するが、「天界」に行くグループはそうでなく、そこで永生(解脱?)するらしい。
何と、「知を愛し求める哲学によって十分に自らを浄め終えた者」=哲学者の魂は、(肉体の)死後、「天界」で永生するのである。
これは、(輪廻説には限定されない)「個別的霊魂不滅説」であり、他の箇所と併せ読むと、
「浄められた個別の魂は、「天界」において「「神」と<生>の形相そのもの」を実現(ないしそれと合一化)する」
という理解のように思える。
しかも、「「神」と<生>の形相の実現(ないしそれとの合一化)」という完成=終点を措定している点が極めて重要である。
こうして見てくると、②も①と同様に、「直線的時間観」(進歩史観)を前提していると理解するのが自然な気がする。
・・・ところが、プラトンは、最後期に至って、①②の思考から大きな展開(というか変節?)を遂げたようである。