すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

「私」を満たしながら。

2016-04-14 20:07:18 | ひとりごと
最近の自分の読書傾向のせいなのですが、こんなメッセージをよく目にします。


「私」なんていない。
「自我」を捨てる。
「マインド」が悪い。
「思考」が悪い。

「気づき意識」を育てる。
「魂」の声を聞く。
「真我」「ハイヤーセルフ」につながる。
「ハート」「仏心」で生きる。
すべての存在は「無我」。



全部、ぜーんぶ、ある一つの真実を伝えるメッセージだとは思うのですが、これだけだと、大切なことを受け取り損ねてしまうかも、と感じるんですよね。


それは、こういうこと。


私、自我、思考、つまり、私の介在によって起きる現象、「私」の世界が安定していないと、

もっと噛み砕いて言えば、「私は私」「私は私でいい」「私は価値がある」「私は善良だ」という、程よい自己肯定感と、「この世は比較的安全なところだ」「他人は概ね信頼できる」という、自分を取り巻く環境への基本的な信頼感が低いと、

「私」と自我と思考を超えた世界とつながることは難しいのではないでしょうか。


「私」が満たされていない人、自我が安定していない人、思考が極端にマイナスにふれる人が、いきなりそっちの世界を覗こうとすると、ものすごくバランスを欠いてしまう、ということが起こり得る気がするのです。

例えば、自我の弱い人に、自我を捨てなさいなどというメッセージは、さらに自己犠牲的な意識を課すかも知れません。そうなると、満たされていない自我が暴れだすか潜在意識に抑圧されるはずです。

自分を観察する、見つめる、というあり方も、ある程度安定した自我がいないと、観察ではなくてジャッジに傾きます。そして、その違いもわからなくて、途方に暮れることになるかもしれません。


🔹🔹🔹


子どもを見ていると、わかりやすい。彼らは、自我を全身にまとった存在です。その自我を満たしてやることなしに、彼らの心の成長はありません。

「私」なんてないのよ、などと子どもに教えても仕方がないと思うのです。まずは、自我のめざめを促し、「私」という土台を丈夫なものにしてやることの方が、うんと大切な気がします。

そして、満たすというのは、なんでもかんでも「私」の思い通りにする、ということではなくて、「私」の言い分を無視しない、「私」の声に丁寧に耳を傾けるということです。もちろん、必要であれば、その都度満たしながら。


結局は、大人も同じでね。

例えば、「私」を粗末にされてきた人、「私」を自分で粗末にしてきた人は、まずは「私」をはっきりと浮き上がらせることなんですよね。


「私」のために意見を言う
「私」の居心地のよい環境を選ぶ
「私」の好き嫌いを認める
時には、
「私」のために、怒る、泣く、戦う



自分に割り当てられた「私」をしっかり生きることをしないで、「空」だハイヤーセルフだと言っても、どこか虚しい。捨てたつもりになった自我の逆襲に合うだけなのかな、と。

つまり、「私」を蔑ろにしても、「私」は決して消えてなんてくれないし、逆に消そうとすればするほど、より力を得るのです。

「私はいない」という体験は、「私」が鮮明になって初めて、立ち現れる可能性を持つものなのかもしれません。


自我が安定している人も、悟りの領域に足を踏み入れている人も、人間というあり方を生きる限りは、「私」という土台を帳消しにはできません。自我から発せられる欲求がなくなるわけでもないでしょう。

どんな道も「私」を満たしながら進むもの、どんなあり方も「私」を満たしながら深めるもの。 そんな風に思うのです。












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