すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

感じることを選ぶ。

2016-09-07 08:26:49 | My メソッド
人間、追い詰められる時には、必ず頭の中で、思考が、言葉が、暴走しているんですよね。

心にふときざした気がかりなことがきっかけとなって、リアル感たっぷりの妄想が次々と雪だるま式に展開していく。

例えば、
絶対にミスできない仕事のこととか、
私はあの人たちに嫌われてるんじゃないだろうか、とか、
風邪が長引いて咳が続いてるけどもしや重い病気?とか。

仕事で言えば、大きな失敗をして上司に怒られたり、言い訳をしようとしどろもどろになっているシーンとかが生々しく目に浮かんだりして。

そんな、
頭の中の暴走に合わせて生じてくるのが、
不安、怖れ、怒りの感情。

こわいこわいこわい。
苦しい苦しい苦しい。
辛い辛い辛い。

でも、そんな感情は感じたくないから、反射的に避けようとする。
それで、今度は、解決策という名の思考を投入して、暴走する思考を黙らせようとする。

ミスは誰でもするはずだ。
あの人たちも悪い人ではないのだし。
すぐに不安になるのが私の悪いところ。でも、大丈夫。
私を不快にさせる思考は間違っている。
そうそう、考えを変えよう。


これももちろん、効果がある時はあります。暴走した思考が中和されて、一時的に感情がおさまってくれたり。

でも、すんなりいかないことが多い。ほどなく思考がぶり返してきます。一つのテーマですり抜けても、また似たようなテーマに遭遇すると、同じような思考がはじまり、同じような感情が起こり、ほどなく頭も体も心も占領されるんです。

ああ、まただ。どうしていつもこうなんだ。どうして私はこうなんだ。

頭の中だけで決着をつけようとしても失敗に終わる事が多い上に、自分をさらに傷つけていきます。

普段から瞑想や思考観察が習慣になっていて、こうした時の対処法を持っている人でも、特定のテーマでは感情が強すぎて対処しきれないこともあります。




そんな時に残されている道は、ただ一つ。それはもう、

ただ、ただ、ただ、
感じること


感じることに徹することです。
頭を放置する。思考を放置する。 そのかわりに身体の異変に集中する。

締め付けられる胸、荒くなる呼吸、緊張する肩、腕、顔、 に静かに意識を合わせ、その感覚を感じます。その中にある不安、怖れ、怒りの感情を自ら感じにいく。

決して心地よい感覚ではないけれど、その感覚を感情を、消そう、解放しようなんてことはせず、コントロールという意図を捨てて、純粋にただただ感じにいくのです。

五分でも十分でも、感じたいだけ。

そうするとね、頭の中がスーッと静かになって、涙腺が緩んで涙が出て、うまくいくと感情の方がしゃべりだしますよ。


どんなにやったってミスする時はミスするんよー、ボケー

あの人の、無表情が怖いんだってば。こわいの、こわいの、こわいのー

好きで心配性やってるわけじゃないんだよー。心配なモンは心配だろうがー



言いたいだけ言わせてあげるんです。
なだめたり、取り引きしたりしないで、ただ感情にしゃべらせる。頭じゃなくて、感情にしゃべらせます。

多少きたない言葉も、私じゃなくて、感情が話してるんだから、と、どこかで自覚していると、余計なブレーキが入りません。

そしてある時、全身の力がふっと抜けるように、感情もエネルギーを失い、通り過ぎる。

じゃあ、目の前にある現実はどうなるの?仕事も人間関係も病気の可能性も消えてないじゃない?

感情が通り過ぎると、現実を見る視点が変わります。それだけで解決される問題もあるし、建設的な解決策が思いつくこともあります。解決しようという切迫した意識が薄れて、まあなんとかなるかな、とどっしり構えていられるようになるかもしれせん。

思考が感情を作る、とはよく言われることですが、その感情がまた新たな思考を作っていきます。

特にネガティヴと言われる感情は、その都度出口を作って流してあげないと、心の深いところに仕舞われていきます。その古い感情の集まりが、私たちの普段の思い癖や人生に影響を与えていきます。


感情は、ただ感じてもらうことを求めています。それ以上でもそれ以下でもありません。

ただ、ただ、ただ
感じること。

感じることを選びませんか。








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