すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

バランスの取り方。

2016-11-30 08:25:41 | My メソッド
たとえば、

愛想笑いばかりしてきた人が、ある日、愛想笑いをやめました。

愛想笑い、というお守りを捨てる恐怖を受けいれるための、大きな勇気を振り絞った。怖いけれど、このままはいやだ。怖いけれど、やってみよう。

ドキドキしながら、後ろめたさに呑み込まれそうになりながら、覚悟を決めてやってみた。

こわいよー、
あれ?でも平気だ
こわいよー、
あたしすごい、強い人みたい

恐怖と解放感が交互にやってきた。やがて、恐怖が鳴りを潜めて騒がなくなった。脳が慣れたのかもしれない。

愛想笑いをやめても、恐れていたこと、は起きなかった。

嫌われたり、注意されたり、避けられたり、は全然起きなかった。

逆に、「今日、なんかあった?」って心配されたり、いつもは無愛想な人が挨拶してきたり、不思議なことが起きた。仏頂面の人をみても、怖い人だなとか、感じ悪いなとか、あんまり思わなくなった。むしろ同志みたいな気分になった。


それから、全く愛想笑いをしない人になった。そういうあり方を決めた。

愛想笑いをしないと生きていけないと信じていた自分を一段超えた。怖いことを避けるために使い果たしてきたエネルギーを取り戻し、もう怖いものはない、もう大丈夫と思った。

愛想笑いをする人に、「愛想笑いなんてやめなよ。心配しなくても怖いことなんて起きないんだから」と触れて回りたい心境だった。


やがて、
自分の中に、何とも言えない違和感を感じるようになった。胸のあたりがキューっとした。あえて言葉にするなら、力み、焦り、窮屈さ。その違和感は、愛想笑いをしていた頃に感じていたものになんだか似ていた。

それが強くなるのに比例して、周りの反応が変わったように感じた。避けられたり、注意されたり、誘われなくなった。愛想笑いをしていた頃に、恐れていたことが現実になった。


愛想笑いをやめたから?
やっぱりそうなの?

でも、愛想笑いをやめたときの解放感は、忘れられない。自分の気持ちに正直になって得られた自尊心は消えない。愛想笑いをやめた自分の勇気を否定したくない。


じゃあ、なぜ?
なぜ、こんなことに?

愛想笑いをしない人というあり方を決めた瞬間、
愛想笑いは、忌むべき、醜い行為になった。お守りだった愛想笑いが、倒すべき敵になった。

愛想笑いを敵とみなしたり、それを自分の中から締め出して再び侵入させないようにするためには、果てしないエネルギーが必要になる。切り捨てたはずの愛想笑いに、逆に足元をすくわれる。

愛想笑いをしたら、以前のように軽く扱われるかも、負けを認めるような気もする、自分で決めたことを破るなんて絶対にダメなことだから。

今度は、愛想笑いをする事が、自分にとって一番怖い事になってしまっていた。

恐れの対象が、すり替わっていた。

どうしよう。
こうなったら、やるしかない。
今度は、愛想笑いを。今の自分が恐れている愛想笑いを徹底的に。愛想笑いをやめた自分の勇気に報いるためにも。


さあ、なにが起きるのか。


🔸🔸🔸🔸🔸

生きずらさを産む自分の中の偏りは、恐れという形で現れる。その恐れを直視して、勇気をもって反対側をやろうとする。反対側に少しずつ馴染んではまりこんだ時、今度はそれが自分のアイデンティティになる。そして、元の偏りを無意識に敵視する、排除する。

でも、これはとっても大切なプロセス。こういうことを何度かやって、恐怖に注いだエネルギーを取り戻したり、すり替えたりしながら、バランスを取る。一つひとつ、実感しながら、体験しながら勝手にバランスが取れていく。

全体として、怖いものを避けるために使っていたエネルギーの量は、限りなくゼロに近づく。

どっちでも、いいわ。
最後は、勝手にそうなる。


反対側のあり方に挑戦してしばらくしてうまく行かなくなったら、元のあり方にあえて戻ってみるのもあり。大丈夫、反対側のあり方を実感した私は、前の私とは違うから。

今、自分は何を恐れているんだろう。
この言動は、このあり方は何を避けるためのものだろう。

自分に問いかけると、見えてくるかもしれません。

面白いなと感じた人、心当たりのある人は、ぜひ体験してみてください。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿