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すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

罪悪感の少ない人が世の中を変える。

2016-02-13 07:54:02 | My メソッド
罪悪感の少ない人が世の中を変える、としみじみ思う。

罪悪感の少ない人といえば、あの人。

かつての職場で一緒に働いた同僚。仔猫みたいな愛くるしい容貌で、よく笑う人だった。冗談も毒舌も上司の悪口も、舌をペロっと出しながら、言いたい放題。悔しいけれど、全然嫌味じゃないのだ。

彼女が入社してしばらくして、突然始業時間が30分遅くなった。

家庭の事情で、彼女は始業時間に出社が間に合わないために、上司にかけあった。一人だけ特別扱いはできないから、と会社の始業時間も変わったのだ。

別に、彼女が物凄く優秀だったわけではないし、押しが強いわけでもないし、その会社が柔軟な社風だったわけでもないし、上司が物分りのいい風でもなかった。

「いっそのこと、みなさんも30分遅くしたらどうでしょ」

ケラケラ笑いながら、彼女は上司に言ったのだ。なんとなく、まあそれもいいか、という感じて彼女の意見が採用された。

その時は、表現を知らなかったけれど、彼女みたいな人を、罪悪感のない人というのだと、今ならわかる。

🔹🔹🔹

罪悪感がない人は、思ったことをそのまんま平気で口に出す。自分の希望を悪びれずに告げる。他の人にはタブーな事もシレッとさりげなく触れる。

で、その希望通りに事が運ばれていく。

なぜかって、それは、みんなが言えないこと、言わないことの中に、実は大切な事が詰まっているからだ。

逆に、実はどっちでもいいことだったりするから、声をあげたもの勝ちのところがあったりもする。

罪悪感のない人は、自分のためにそれをやり、結果として、周りの人にも恩恵をもたらす。

もちろん、うまくいかないこともあるけれど、それはそれでスルーする。

一度上手くいかないからって、気にしない。自分を引っ込めたりしない。反省はしても後悔は滅多にしない。また、何かあれば、自分の思ったことを口に出していく。

そして、どうしても自分と折り合えない環境ならば、さっさと去っていく。

その屈託のなさ、正義のヒーロー、ヒロインぶらないところが、なぜか不思議と周りを惹きつける。安心させる。

こんな例を、彼女に限らず、何人もの罪悪感のない人がやってのけるのを見てきた。

何人もの、と言っても、たくさんはいない。罪悪感がなくて、しかも嫌われない人というのは、希少価値だからね。

まあ、それでも嫌う人は嫌うだろうけど。でも、そんなことにもいちいちめげないのが、彼女らの専売特許だ。

🔹🔹🔹

私は、罪悪感をたくさん抱えてきたタイプの人間だ。

だから、彼女らのような真似はとても出来なかった。自分のために無邪気に動くことも苦手だった。こんな人には、とてもなれない、と思っていた。

あれから随分時間が経ち、相変わらず罪悪感はある。でも、その分量は格段に減った。世の中を変えるほどに変貌はできていないと思うけれど、少なくとも自分のために行動することはできるようになった。

その、経験から言えば、罪悪感って減らせるよ、って思っている。

純正の彼女らのようにはなれなくても、トレーニングすれば、減らせる。体験を重ねれば、減らせる。本当にそうなのだ。やるか、やらないか、だけなのだ。

🔸🔸🔸

どうすれば罪悪感を減らせるか、という部分については、また次回以降にぼちぼち。おいおい。






希望を叶えるプチテクニック。

2016-02-10 22:18:40 | My メソッド
今日は、ちょっぴり息抜き的なお話しを♡


休みの日の夕方になると、私、無性に眠くなります。幼稚園児の子どもと二人でいても、ガマンできなくなることしばしば。それで、子どもに声をかけます。

「お母さん、すごい眠いよぉ。30分くらい寝ていいかなぁ」

でも、子どもって言うんです。

「ダメー。ゼッタイダメー」

って。

それで、無理やり居眠り強行作戦に出ると、即座に揺り起こされます。ホント、辛いです。

ところが、私めげません。

ある時、子どもにかける言葉を変えたんです。

そしたら、なんと、子どもの返答も、

よくすると、

「うん、わかったー!」


悪くても

「えー、できるかなー。もぉ、しかたないなぁ」


に変化!

たったこれだけ、言葉を変えただけで、眠い時にはほぼ100%眠りにありつけるようになりました。

子どもにかけた言葉の内容は、












「今から30分、お母さん寝るからさ、
5時に必ず起こしてね。
ゴハン作んなきゃならないから、絶対だよ。よろしくー」






違い、わかります???

後者は、寝ることに対して子どもに許可を取っていないんですよ。寝ることは、すでに既成事実にしてしまっている。

さらに、子どもに起こすことを依頼しているので、彼の意識は、そこにがっちりフォーカスされます。私の寝る、寝ない、は、彼のタッチするところじゃないわけです。

あざとい母です…ね。

有難いことに、きちんと時間通りに起こしてくれます。しかも、起こされてもすぐに起きないと、しっかり叱られます(笑)。あと、もちろん依頼を遂行してもらったので、「ありがとうっ!助かったぁ」は欠かしません。

🔸🔸🔸

もしかしたら、やりたいことを目一杯やって、さらに周囲からも厚いサポートを受けている人っていうのは、常にこんな意識で、こんな風な言葉を周囲に掛けているのかもしれませんねー。もちろん、無意識にでしょうけど。


◯◯してもいい?

じゃなくて、

◯◯するから、△△してもらっていい?


ピンときた方、ハードルの低い相手、ハードルの低い内容から、ぜひぜひ試してみてください!




うまくできない自分。

2016-02-09 10:43:42 | My メソッド
マインドフルネスも、あまたの心理療法も、自己啓発も、おそらくそうなんですけどね、

ハマればハマるほど、
一生懸命になればなるほど、
真面目に取り組もうとすればするほど、

やがて、うまくできない自分というのが、浮き彫りになります。

最初に物凄くうまくやれた場合なんかは、特にその反動も大きかったりする。

自分を変えよう、
自分を大切にしよう、
自分の意思に耳を傾けよう、って、

言葉で言うのは簡単ですが、この実践は、大きな勇気と根性が試されること。こうした世界を知らなかった人からすると、ある意味、清水の舞台から飛び降りるようなものですもん。

たとえ結果的に自分に良いことでも、大きな勇気を出すってことは、それはそれは大量のエネルギーを消費します。端的にいうと、物凄く疲れるんです。

つまり、それを小休止なくやり続けるなんて事は、ほぼ不可能。

たとえば、このブログでも書いた「人の機嫌を取りに行かない」も、うまくできない時があります。今日は、他人にどう思われてるかが気になって気になって仕方ないぞ、って時がある。で、ついつい人の機嫌を取ってしまう(笑)。

もちろん、それで全然オーケー、オーケー。

「苦手な人の機嫌取り。私ってば、小市民でおっちゃめ~」

気分が楽になる思考で援護射撃です♡

こんな時、

「やっぱり私は私を大事にできないんだー」

と、自分をいじめるたくなる気持ち、よおくわかるんですが、これが実は1番よくない。

できない自分を責めること=究極の自己否定です。これも、物凄くエネルギーを消費します。減ってしまったエネルギーを、さらに無駄遣いして枯渇させます。

🔸🔸🔸

だから、できない時は小休止タイムと割り切ります。エネルギーを蓄える時。エネルギーがこれ以上減らないように温存する時。こっちも、勇気を奮う時と同じく、かけがえのない時間ですよ。

ちなみに、かつて、勇気を奮って獲得した成功体験、自信、は帳消しにはなりません。ちゃんと確かな実感として心の無意識のところに貯金されています。心配ご無用です。できない自分を責めなければ、エネルギーが戻ってきた時にちゃんと蘇ってくれます。

次なる勇気は、そこで使えばいい。前よりも、もっとラクーにできるようになっていますから、エネルギーも減りにくくなります。

この小休止タイム、ネガティヴな自分を受け入れると、本当に生きることが楽になります。

そのためにも、普段から自分を俯瞰する癖をつけるといいと思います。

自分を見つめる大きな自分を強く意識できるようになると、落ち込んだ自分にも優しく「よしよし」ができるようになりますよ。







欲求の扱い方。

2016-02-05 10:53:08 | My メソッド
前回、気分について書きましたが、補足です。

気分の中にある、欲求。

自分の欲求に気づきにくい人は、自分の欲求に気づいてシンプルに叶えていくという習慣がまずはとても大切です。

ただ、ある程度までいくと壁がやってきます。

食べたいまま食べて
見たいまま見て、
買いたいまま買って、
寝たいまま寝る。

やりすぎた時に、かえって気分が悪くなっている、体調が悪化しているという矛盾。アルコールなんかの嗜癖行為も、まさにこれが激しい形で現れたものです。

私の場合、胃が弱いせいもあって、「食べたい」に無意識に従っていると、後にひどい目にあいます。(昨日も、ラーメンに具を入れ過ぎて、全部食べて、丸一日苦しみました💦)。

ほかには、興味のあるニュース、たとえば川崎の中1殺害事件の裁判員裁判の詳細記事を気の向くまま見てたら、とてつもなく落ち込みました。

食べたい、見たい、を無意識に続けていたら、自分をかえって苛めてしまったのです。

仏教のお坊さんが禁欲的な事を説いたりするのは、まさに、こういうことが起きるからなんです。

人間は弱い面もある、という前提に立って、あまねく教えに汎用性を持たせるために、何事においても腹八分目的な事を説くわけです。

でも、自分の気分・感覚に敏感になっていくと、自分でその分岐点がわかるものなんです。

🔸🔸🔸

私のラーメンでいうと、明らかに自分の中で満腹サインが来てました。でも、それを軽くふり払ってしまいました。

「残すのもったいないしな」とか、「野菜だから大丈夫」とか、「まだ、もうちょっと食べれそう」とか、そんな気分や感覚以外の声(脳の暴走)に従ってしまったのですよ!

アルコールも、ネットサーフィンも、寝すぎもね、身体の小さな声、気分・感覚の声に丁寧に耳を傾ければ、「これ以上はなし!」になるはずなんですよね。

それは禁欲的になれとか、欲求を持ってはいけない、我満しろ、ということでは全然ないのです。

欲求を、正しく充しましょう、ということです。

今を感じる感覚がまだ掴めないうちは、これをやり続けたら、どんな気分になっているだろう、という未来予測の判断で物事を選択するのがコツです。

その判断にすら従えないときは、なんらかの代償行為、単なる依存行為ですから、すでに自分だけでは手に負えない状態かもしれませんね。

欲求は、自分の全部が調和のとれる形で充したときに、初めて「気持ちよさ」を与えてくれます。その加減を知っていくことが、自分を本当に大切にすることにつながるんですね。






気分が現実を作る。

2016-02-04 10:44:46 | My メソッド
思考が現実を作る。
これ、正しいんだけど、実感として弱い。

気分が現実を作る。


私には、こっちの方がしっくりきます。

気分と感情は似たような意味ですが、気分は感情よりももっと広範囲なもののように捉えています。

感情は、思考(ジャッジ)から作られますが、気分は思考だけじゃなくて、天候、体調、欲求、感覚から影響を受けるもの。

語感としては、感情よりも軽い印象で、より繊細なイメージがあります。

この気分がね、私はとてもとても大事なんだと最近常々思うのです。この気分に気づいて手当をしてあげること。その繰り返しが日常に小さな変化をもたらして、自己肯定感を高め、現実を変えていくのです。

🔸🔸🔸

例えば、朝起きた時、出勤の時、気持ちが動いた時に、
自分に問いかけてみます。

わたし、今、何を感じてるかな?


その「感じ」が小さくても、一所懸命にキャッチします。

体の「感じ」ならば、肩が重い、関節が痛い、喉が詰まった感じ。

気持ちとして生じている「感じ」ならば、緊張してる、気が重い、面倒くさい、悲しい。

欲求として現れている「感じ」ならば、行きたくない、食べたい、伝えたい、聞いてもらいたい、逃げたい、泣きたい。

多分1番わかりやすいのは「欲求」。しっかりと認めて、できる限り叶えてあげれば、気分は確実に変わります。

「体」と「気持ち」にあらわれたものは、これはどっから来てるかな、と考えてみます。睡眠不足なのか、お天気なのか、大事なプレゼンがあるからなのか、嫌な上司がいるからなのか、保育園の送りで子どもに泣かれたからなのか。

体だけの問題ならば、それに気づいてあげるだけでホッと落ち着く場合もありますし、具体的な対処法(休む、寝る)が取れたら解決します。

1番やっかいなのが気持ちの場合ですが、それがどこから来てるのかがわかっただけで楽になることもあります。

ただし、これは、思考が絡んでいる場合が多く、気づいただけでは気分は変わらないのが普通です。

そこで、自分にイヤな気分を味あわせている思考(失敗したらどうしよう、など)に対して自分の中でホッとできる言葉(プレゼンを例に取ると、「あれだけ準備したのだから大丈夫」「プレゼンで緊張するのは当たり前」「足りない点は先輩にフォローしてもらおう」等)を対抗させます。それがうまくやれると、気分は確実に変わります。

普段からマイナス思考に偏りがちな人は、自分の思考の癖を把握して、どんな言葉を自分にかければ自分がホッとできるか、場面場面に応じた言葉をストックしておくのがコツです。

もちろん、自己完結ではなく、自分をホッとさせてくれる言葉をかけてくれる人に助けを求めるのも効果的です。

🔸🔸🔸

こうした気分(特にマイナス)に気づかないでいると、何やら訳のわからない不快さがたまり、その塊にずっと自分が支配されるようになります。結果、大きな失敗や、病気に結びつくことになったりします。

最初は、おおざっぱにしか捉えられなかった気分も、常に「何を感じてる?」を癖にしていくと、より繊細なところまで感じていくことでき、より確実な対処ができるようになります。

たとえば

朝、夫を見送った時イヤな気分(気分の気づき)

「最近、お弁当作ってくれないよね」(気分の原因:夫の発言)

この発言の何がイヤなんだろう。(気づきを深める。)

寝坊や手抜き家事を責められたように感じたんだ。(本当の原因の特定)

「また、君のお弁当が食べたいんだよね」て言われたら悪い気分にはならない。(さらなる気づき)

夫に、朝の言い方をされて責められたと感じた。
違う言い方をして欲しいと伝えてみよう。(行動、気分への対処)

自分が自分に気づいてあげられること、それを元に行動を起こせるようになると、高い満足感を得ることができるようになりますし、結果が伴うことも増えてきます。

🔸🔸🔸

ところで私、一年位前から、マインドフルネスに興味を惹かれ、座ったり、歩いたりしながら、呼吸瞑想を毎日ゆるーく実践していますが、やりながら最近やっと気づきました。

マインドフルネスって、まさに、上で書いたことを、より効果的に実践するためのトレーニングなんだって。

悟りや慈悲心を育てるため、そんな抽象的な説明では、全然自分の本心が納得してなかったんですけどね。

自分の気分・感覚に気づくため、自分を知るため、ひいては自分を大切に扱うためのスキルなんだ、と腹に落ちたら、マインドフルネスというのは生き方そのものなんだな、とも思いました。

自分の小さな気分、繊細な感覚に気づくには、毎日の小さな実践が欠かせまん。

集中できる時間を作って、自分の中で起きていることに意識的になるための瞑想。私のマインドフルネス修行は、そんな目的を持っています。

他者、生きとし生きるものへの慈悲は、おそらく、それと同時に、あるいはその先にあるものなんでしょうね。


愛読書の中の一冊です。

人の機嫌を取りに行かない。

2016-02-02 18:18:26 | My メソッド
いつも、自分を、低くして、小さくして、控えめにふるまっている人がやった方がいいのは、

他人の機嫌を取りに行かない

ってこと。

🔸🔸🔸

相手の機嫌を取りに行く時に何を感じてるでしょう。それは、「卑屈さ」です。惨めで、自分を大切にしていない感情です。

職場の上司
かかりつけの医者
ママ集団のリーダー
子どもの担任
そして



自分にとって、自分より立場が上だと思い込んでいる人に対しては特にやった方がいい。

相手が機嫌悪そうにしていても、
高圧的な雰囲気を感じても、

自分からは、機嫌を取りに行かない。
あえて話しかけたりしない。

自分から挨拶した方が、
自分からにこやかに接した方が、
自分からきまずい空気を壊した方が、
楽なんです。

わかります。

むしろそれをしないでいると、
いてもたってもいられない、
恐怖すら感じる。

わかります。

でも、それって、自分を相手よりも下の立場に自ら置きにいってしまう、自尊感情の欠如なんです。そっちに安易な居心地の良さを求めてしまう悲しい性分なんです。

そんな自分を救ってあげなくちゃ。

機嫌を取りに行かない時の、その不安に、恐怖に、耐えてみてください。体中で感じ切るか、客観的に観察してみるか、どうにかして、その感情に耐えてみてください。

勇気がでない時は、相手の姿をイメージして、
「お前なんか、こわくないわー」
って少し乱暴に自分を鼓舞してもいいかもしれません。

恐怖は残る場合もありますが、自分を卑屈さから救い出した満足感は、それを上回ります。その瞬間に、自分の中で相手と自分が対等になります。

そして、相手は自分の事情で機嫌が悪いんだと納得できるかもしれません。高圧的なのもその人のスタイルで、自分がそこに合わせる必要がないということが理解できます。

その上で、つまり、相手と対等になって初めて、相手を思いやる言葉をかけることもできますし、社会の儀礼上、慇懃に振る舞うこともできます。もちろん、そうしなくても、何ら問題ありませんけどね。

最近、この方法で、怖い人、苦手な人が、ことごとく消えていきます。

自分の意識が変わると相手の意識も変わるのか、ただそう見えるようになっただけなのかは検証中ですが(笑)、相手の態度もかなりの確率で変わります。

いきなり恐怖の強い相手だと効果が実感できない場合もあるので、自分にとって、ハードルの低い人から挑戦するのがおすすめですよ。

最初は勇気が要りますが、まずは、やった後の自分の中の変化を実感してください♡

1番になりたい!

2016-01-25 12:53:26 | My メソッド
子どもって、1番大好きですよね。うちの息子も、1番が大大大好きです。

かけっこ、ゲームから、幼稚園の登園順位、お迎えの順番(最後の1番)、お着替えまで、ホント何でも1番が好き。

これ、どうしてだろ、って考えてみたんです。別に子どもだから、ってわけじゃないんじゃないかって。

大人も本当は1番が好き。自分は1番になれないから、とか、1番になれなかったらダメージが大きい、とか、の自動思考が働いて、1番に意識が向かわなくなっている。向かわないように仕向けている。

でも、子どもに現れている欲求や願望って、人間の本質そのものです。人間の本質、本能、心理学的に言えば、心の無意識からの声です。

じゃあ、どうして人間は、1番になりたいのか。息子に聞いたら、

「1番になりたいから!理由はありませんっ」


ですって。笑

まあ、そんなんでしょうね。

でね、私はこんな風に感じました。

人の無意識は、極みを見たい、体験したいと切望しているんじゃないかなって。

金メダルの人から見える風景、東大の人が手にする快感、営業成績1位の人が醸し出すオーラ。極みを知った人にしかわからない、その「感じ」をね。見栄とか、他者評価とか、快楽とか、それよりも、ホントのホントはここじゃないかって。

ゼロの、マイナスの自分が、プラスの極みを知る、というのは、その間にある全てを知るということだから。その全てになれるということだから。

1番に真摯に向き合うと、銀メダルの価値もわかるし、学歴が全てじゃないと言えることもあるだろうし、2番も、3番も、それぞれの価値が腑に落ちる。

アイドルのNo. 1のSMAPが、「No. 1にならなくてもいい」と歌うから、説得力が生まれるんですよね。

でも、1番って、ずっと1番ではいられない。2番に必ず落ちる。誰かに1番を譲る時がくる。その落差、一つ落ちたというレベルではなくて、実感としてはゼロを通り越して、一気にマイナスまでいきます。

でも、人間の無意識は、そっちの極み、マイナスの極地も知りたいんですね、きっと。両方を知って始めてバランスが取れるし、より広い世界を知ることになるから。

ここを拒絶して1番に固執すると、ホントの転落が待っているのだと思います。転落してる人は、マイナスに必死で抗っている人です。

もちろんマイナスの極みから始まる人生もあると思います。どん底を知っている人は、高みを知っても道を踏み外すことが少ないのは、もうマイナスを知っているから経験する必要がないんですね。

🔸🔸🔸

息子がかけっこで1番を取れずに悔しそうにしていた時、甥っ子が第一志望の高校に合格できなった時、「2番でもすごいんだよ~」と慰めで言った私ですが、多分彼らの心に響いてなかったろうな。

彼らは、1番を知りたかったのだから。1番を味わう自分を体験したかったのだから。2番じゃ、ダメなんだから。

でも、その不全感を捨てなければ、また違うステージがやってくる。必ず1番を体験させてくれるステージがある。何度も何度も自分の1番を追い求めればいいと思うのです。

ある分野で、「1番になりたい!」と自分の心が叫ぶなら、それは、そのポテンシャルが自分の中にあるのでしょう。

私も、自分の中に眠っている「1番になりたい!」という声をちゃんと受け取りたいです。自分が、そうなると、息子にも甥っ子にもまっすぐ言えそうな気がします。

1番をめざせ!

1番行きたいところに行きなさい!



ってね。

苦手な人たちが教えてくれること。

2015-12-03 10:15:06 | My メソッド
マインドフルネスを意識するようになってから、苦手な人が次々に目の前に現れるようになった。

過去の痛み、過去の傷があぶりだされるみたいで、少々しんどい。

でも、私がこれまで無意識的に見ようとしなかった古い感情、痛みや傷と一体化して表現されないでいた感情にやっと光があたり、何かを訴えているんだと思った。

私が苦手な人は、

不機嫌
無愛想
相手によって態度を変える
自己主張が強い
気が強い
意地悪
負の感情が顔に出る


といった性質を抱える人たち。

さらにいうと、
私は、その人たちの性質が自分にだけ向けられている気がして、その責任を私が取らなくては、と無意識に感じる。

だから、その苦手な人たちの所作を気持ちの上で素通りできない。気になって仕方がない。時には恐怖で縮み上がる。

だから、笑顔を向けたり、丁寧に接したり、つまりご機嫌をとるような行動に出たりする。

相手はもちろん全く変わらない。むしろ、私自身報われない自分の努力に嫌気がさし、卑屈になった分だけ、相手の態度が悪化したように感じる。

これが、この人たちが、この人たちの性質が、わたしのシャドウなんだろうということに、ある時気付いた。

苦手な人が抱える性質は、私が自分の人生の中で切り捨ててきた、否定してきた、忌み嫌ってきた性質だ。

私の中にそれがあることを許さない(と、自分で思い込んだ、あるいは誰かに思いこまされた)さまざま出来事が、私の人生に起きたということなのだろう。結果、その性質は、他者から、世の中から決して受け入れられないモノなんだと、勝手に学んでしまったのだろう。

そして、私は、

いつも機嫌よく
誰にも平等に接して
あまり自己主張せず
優しく親切で
基本ニコニコ


といった性質だけを
自分に許してきたのかもしれない。


でも、誤算があった。

私が苦手な人は、どうやら、他の人にとっては必ずしも苦手な人ではなく、友だちだってたくさんいる、ということ。

つまり、私が嫌ってきたそれらの性質は、決して他者から受け入れられないものではなく、たまたま受け入れられない人もいる、という程度のものだったんだ。

これに気づいてから、なんだか全身の力が抜け、毎日のように涙を流した。

不機嫌な自分、負けん気の強い自分、時に意地悪だってしてきた自分も、私だ。私なんだ。そんな私に居場所を作ってあげて、「お帰りなさい」と言ってあげて、ホッとして出た涙、仲直りの涙なんだろう。

そして、苦手な人に悪態をつかれた時には、嫌味を言い返し、自分から決して挨拶してこない人にわざわざこちらから挨拶するのもやめてみた。心の中で「フンっ」って悪態をつく自分も受け入れた。こんなことは、これまでの私には考えられないことだった。

大人の対応、笑顔、感じよく、を是としてきた自分が、いかに窮屈だったか。いかに自分をいじめてきたのか。大人の対応、笑顔、感じ良さで、そうできない人を無意識のうちにいかに否定してきたのか。

それに気づくと、いかに自分が自分を知らないで来たかに気づかされる。

さらにいうと、私がシャドウを切り捨てたつもりですましていたかげで、私のそのシャドウを一身に浴びてきた人が1人いる。夫だ。

私は彼には、不機嫌で意地悪で感情的だった。つまり、私のシャドウが私を崩壊させるまでに至らなかったのは、そのシャドウのボディブローを受け続けてくれた夫の存在が大きいのだ。


苦手な人は、今でも、やっぱり苦手だ。すぐに平気とはならない。まだ怖さも少しある。できたら顔を合わせたくない。

でも、自分から媚びるようなことはやめたから、惨めさはない。これが、私にとっては一番大事なことだったりする。その代わりに、苦手に人に対して「あなたは、そのまんまでいいよ。仲良くはなれないけどね」という気持ちを大切にすることにした。

苦手な人って、私の中に窒息寸前の私の一部がいることを教えてくれる人。その私の一部を解放するきっかけを与えてくれる恩人なのかもしれないよね。

だから、ありがとう、
感謝なんだよね。



PTA役員から学んだチーム仕事の秘訣。

2015-08-04 11:47:49 | My メソッド
息子が年長さんになって引き受けた幼稚園のPTA役員。

去年の秋に立候補して、4月に実際の仕事が始まり、こんな世界かあるのか、と驚きの連続だった。

マンモス園かつ、母親に課せられる負担が大きく、昭和的要素が広く幅をきかせている園風というのもある。色々な前例やしきたり、伝統に「ちょっと、ヘンじゃない?!」となることも日常茶飯事。

本来は、報酬が発生しないボランティア。報酬によって他者を縛ったり責任を突き付けたりできない特殊さ。その一方で当然引き継がれる無言の義務の数々、今までやってきたことをやらないとお母さんたちからも園からも何を言われるかわからないという怖さもあったり。

こんなことを感じたり、こんなことを経験したりした。

いや、なめてたなぁ。たかが、PTA役員、って。

実際は、奥が深かった。報酬のある仕事の方が、責任関係や指示系統が明確で楽な面もあるのかも、とも思った。そして、母という自我を背負う人たちのパワーは、良い意味でも、逆の意味でも凄まじかった。

でも、やったモン勝ちとはこういうことを言うんだ。渦中に飛び込む醍醐味。こわごわ引き受けた役員なのに、蓋を開けたらもう楽しくて、楽しくて仕方なくなっていた。もちろん、嫌な気分もプレッシャーもたくさん味わったけどね。

何と言っても、役員チームのメンバーに恵まれた。みんな素晴らしくて、個性的で、カッコよかった。

特に10歳も下の若い会長の、500人のお母さんたちを束ねたり園と上手に交渉する人間性(包容力と前向きさとおおらかさ)には恐れ入った。

普通の人ならトラブルとして処理してしまう出来事を、次につなげるチャンス、チャレンジに変えてしまうミラクルパワーを秘めた人だった。

大人しそうで、柔らかく、控えめな印象で、仕事の経験も数年しかないという彼女が、逞しいリーダーに化けていく、その成長の過程を見るのも楽しかったな。

何の因果か、夫の転勤で私はこの夏に途中離脱。どの職場を去るときよりも寂しかった。

振り返ったら、社会に出てから就いたどんな仕事よりも、「チームでする仕事」という点では一番得るものの多かったかもしれない。

1人でする仕事に就くことの多かった私が、チーム仕事の魅力を知り、それをうまくやる秘訣も学んだ。

◯ルールは少ない方がいい。

◯仕事を振るときは、自由裁量の範囲をできるだけ広く。

◯自分の得意分野を頑張る。苦手はお願いする。

◯自分の正しさと、誰かの正しさは同じじゃない。つまり正解はひとつじゃない。

◯メンバー同志、褒めあうことと、感謝の言葉を忘れずに。

◯完璧を目指さない。

◯活動の大切にしたいこと(ミッション)の共有化。わからなくなったり、迷ったらその原点に戻る。

◯失敗やクレームにいちいち過剰反応しない。

◯リーダーは、しっかりしすぎない方がいい。

◯休むこと、代わりにやってもらうことは、誰かに活躍の場を与えることでもある。

名付けて、チーム仕事の秘訣10箇条!

いつかまた、この10箇条を携えて、報酬のある仕事でもボランティアでも、チーム仕事をやりたい。絶対にやりたいぞ。





期待しないとイライラしない。

2015-07-20 16:45:53 | My メソッド
この街とも、この住まいともあとわずかでお別れ。

息子は、すでに慣れ親しんだ幼稚園の最終日を迎えて夏休みに突入。

ベランダでは、園で育ててきた朝顔が、綺麗な花を咲かせてくれています。


色んなものに名残惜しさを感じる今日この頃ですが、一番名残惜しいのは、息子との、この母子生活かも知れません。

一足早く転居した夫を見送り、ドタバタの中で始まった2人の生活。家事も育児も多くを夫に担ってもらっていたグウタラ母が、お父さん子の息子と2人きりでうまくやれるのかと、最初は不安で仕方なかったものです。

それが、蓋を開けたら、意外や意外。もう、毎日毎日楽しくて楽しくて。

ゴミ出し、園バスの見送り、朝食作り、金魚のエサやり、休日の遊び相手等々、夫の不在で増えた負荷は数知れず。

でも、その負荷も、日課になっていけば大した負荷でもなく、息子も率先して手伝ってくれるという嬉しいメリットも。遊び場を開拓するのも結構楽しいし、単身赴任家庭のお友達と休日に夕食会を開いたりするのも、これまた新鮮でした。

物理的な負荷は増えたのに、なんだかラクチン。イライラをほとんど感じないんです。夫に聞かせたら、ガックリされそうですが、でも事実なんですよね。

一体、私の中に何が起きたのか…。

イライラの正体は、自分の掛けた期待通りに物事が進まなかったり、人が動いてくれなかったりすること、つまり、期待と現実との齟齬から起きます。

その期待をね、私の場合は、夫にかなり掛けてました。無意識ですけど。

やってくれて当たり前。やってくれないとイライラする。思うようなやり方でやってくれなくてもさらにイライラする。

その、期待を掛ける相手がいないんです。だから、自分の中で期待するという感情が発動しないし、期待を裏切られた時の激しい消耗もない。そのエネルギーを、自分でやるためのエネルギーに振り分けられる。イライラ、というムダな精神活動がほぼなくなるんです。

私が、私の能力で生き生きと暮らせる負荷が、この今の暮らしの負荷なのかもしれません。夫がいた時はラクしすぎていたのかもしれないなぁ。

もちろん、我が家は赤ちゃんがいたり子どもの数が多い家庭ではないし、経済面はすべて夫か担ってくれているし、と、元々の負荷は必ずしも大きくない家庭だからこそのバランスともいえます。

兎にも角にも、イライラしないってこと、これ以上の幸せはありません。心が穏やかで、色んなことに寛容でいられます。その証拠に、母子生活になって、息子を怒鳴ったこともほとんどありませんもの。

新天地での夫はかなりの激務で、今のこの母子生活と大して変わらなさそうです。でもね、夫がいるとなると、また、期待→イライラが発動するのかなって、今は、それが一番怖かったりします。

再び3人生活が始まる前に、イライラは、自分の期待から発生するんだ、という事実を肝に銘じておかなくっちゃ。