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すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

心理学系の本を読むときの作法。

2015-04-10 20:34:18 | My メソッド
「ブレない人は成功する」
「他人の目を気にしない人は好かれる」
「自分中心の人はうまくいく」

こんな風に、「◯◯な人は◯◯」「◯◯するだけで絶対うまく行く」というタイトルのついた本をよく見かけます。

心理学系や自己啓発系の本に多いですよね。

紋切り型の、白と黒をはっきりさせた視点、言い回しが、迷いがちな心には、頼もしく、心地よい。困難な事態の突破口を開く特効薬になることもあります。

求心力を失ったチームに、「俺について来い!」タイプのオレ様リーダーがやってきて、チームの活力が吹き返す時の感じに似ているかもしれません。

私も、気持ちの揺れが小さくない人間なので、下がり気味の時や、ドン底から上向きになりそうな時に、こういうタイプの本を読みたくなります。そして、その都度、助けられたりもしました。

ただ、こうした本は、すぐに効果が無くなることもあるんですよね。熱してすぐ冷める、みたいな。恋愛もそうですが、即効性のあるもの、極端なものは得てしてそういう結果を背負うものかもしれません。

こうした本を読んで実践しようという時には、ある種の作法みたいなものが必要かな、と思います。

本の中に登場する、自分がこれまで選ばなかったやり方、知らなかった生き方は、新鮮で刺激的。実践してすぐに効果があると、当たり前ですが「ハマり」ます。

それで、例えば、周りの人を、ハマった本の内容に合わせて、あの人はブレない人だ、とか、あの人は周囲に嫌われるのが怖くない芯の強い人だ、とか、あの人は他人のことばかり気にしてる他者中心の人だ、なんてカテゴライズしてしまうことも少なくありません。

それで、多くの場合、ある地点に行くんですよ。私が、まさにそうなんですけどね。

この通りの人って本当にいる?


本に沿って自分が勝手にカテゴライズした人たちが、最初は本の通りの人として、自分が思い込んだ人物像として生きているように見えたのに、実際にはそうでない部分が見えてくる。

深く付き合えば、人にはいろんな面があることがわかるし、その都度、「あれ?」という疑問符が増えてきます。

仕事面ではブレないのに、家族の問題にはブレまくり。

嫌われても平気なタフな人だと思っていたのに、慎重な面があったりクヨクヨすることも。

被害妄想の強い人だと思っていたのに、ママ友付き合いは意外に無難にこなしている。

と、こんな感じ。

結果、本の効果を享受できなくなって、ハマった状態から、「ああいう類の本はやっぱりね」と十把一からげにして断罪するようにも。

ここまできたら仕切り直しが必要になります。

本に書かれている「ブレない人」の条件をすべて満たす人はいない。

他人を気にしない人というのも、程度の問題。

◯◯な人なんていない。◯◯の傾向の強い人がいるだけ。

◯◯するだけではうまく行く、というのは「当面は」という前提なのかもしれない。

この考え方を自分に根付かせるためにはやっぱり「じっくり」取り組むことが大切。

「絶対」とか「うまくいく」「こんな人は」といった断定調は差し引いて捉えよう。


こんな風にハマっていた本から距離が取れると、その本を客観的に評価できて、自分に合った取り入れ方ができるようになります。

「即効性」と「断定調」の2つは、心理学系や自己啓発系の本の専売特許です。

最初は、この魅力的な2つのパワーを十分に浴びて、効果が薄れたら、この2つは忘れて自分に必要な本質だけ抽出する。

これがこの手の本を読む時の作法かな、って思います。




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どっちを選んでも。

2015-03-25 13:45:33 | My メソッド
日々、暮らしの中で、仕事や子育てのなかで強いられる、AにするかBにするかの選択。

家を買うか買わないか、子どもの進学先を私立にするか公立にするか、といった比較的大きな選択から、ママ友ランチのお誘いに乗るか断るか、仕事の小さなトラブルを上司に報告するかしないか、の小さな選択まで。

最近、思い知った。

どっちにしたらいいかわからない、どっちもいいしどっちもよくない、という場合の選択は、結局どっちを選んでも同じ結果になる。

大切なのは、その選択肢の内容ではなくて、選んだモノに向ける自分の意識

選択の時の迷いの意識を、選んだ後もそのまま引きずると、どっちを選んでもいい結果には結びつかない。迷った分量だけ失敗と不満が増える。

迷いを引きずると、捨てた選択肢が「あっちにすれば良かった」と言わせるために常に足を引っ張ろうとするから。

決めるまでは迷ってもいい。散々迷ったらいい。

でも、決めたら、もう迷うのはおしまいだ。

「こっちに決めた!」
「こっちでうまくいく!」

そうやって自分に号令を出す。そうやって選んだモノに全幅の信頼を寄せたら、物事は不思議とうまくいく。どっちを選んでもうまくいくことが多い。途中でうまくいかなくなった時にもう一回選び直す勇気すらもらえる。

だから、最近は力を入れて選ぶのをやめた。

要所は、選ぶ時じゃなくて、選んだ後だとわかったから。

四の五の言わず、自分が選んだもの、選ぶまでもなくたまたま自分のところに来たものを、ただ大切にしてたらそれでいいってことなんだよなー。



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自分だって「正しい」わけではない。

2015-03-15 10:30:35 | My メソッド
少し量を増やした相談援助の仕事と、今年から引き受けている幼稚園PTA役員でてんやわんやの毎日です。

大変ではあるものの、自分が、そこにエネルギーを注げば注ぐほど、色んなアイデアが浮かびます。

仕事の場合には、利用者の気持ちを最優先する援助のあり方。PTAでは、お母さんたちの負担の少なくする方法。

自分にとっては、もう、「最高のアイデア」って感じで、すぐにでも運用したくなります。

ところが、そのアイデアがすんなり受け入れられることはめったにありません。

前例がない。
責任の所在があいまいになる。
事務手続きが大変。
反対意見を抑えるのが面倒。


変化を嫌い現状を維持しようとする人たちの意見に一蹴されます。

こうしたやりとりが続くと、私の中に無力感や怒りすら沸くのですが、ふと立ち止まって考えてみて、あることに気づきました。

私は、自分の意見が「正しい」と思っているんだな、ということです。自分の意見が正しくて、それに反対する人の意見は「間違っている」と考えているから、無力感や怒りを感じるんだな。

正しい意見に反対する人たちに、「だからダメなんだ」なんて、言いたい気持ちになるんだってことです。


私の意見は、正しいわけではない。

この視点が欠けていました。たとえ、斬新で、寛容で、ニーズを満たして、時代に合わせた意見だとしても、それは「正しい」というわけではありません。少なくとも、反対する人にしたら、ちっとも正しくない。

私の意見は、私が好きな意見であり、私が「これイイ!」と思う意見なのです。賛同する人がたとえ多くても、それは多くの人が好きな意見ということでしかありません。

自分の意見が正しいわけではなく、私が好きな意見だと再定義すると、相手の意見を「間違った」意見として受け取らなくなります。

間違っているものは正したくなりますが、自分の「好き」の反対側にある意見の扱い方には、それなりの配慮が生まれます。

自分の意見を言う時も、「正しい」ではなく、あくまで「好き」な意見でしかないのですから謙虚に提案できるし、反故にされても一々落ち込まずにすみます。

力んで何かを訴えたり、敢行しようとしているとき、そこには自分の「正しさ」へのこだわりがあるのかもしれません。

べき思考は変えるべき

という言葉の矛盾に似ているかもしれませんね。

正しさ、なんて、どこにもないんですよね。好きか、嫌いか。それしかないんだな。改めて、そう感じる毎日です。



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「愚痴を言う」を考察する。

2015-03-07 07:16:50 | My メソッド
みなさんは、愚痴っぽい方ですか?それともめったに愚痴を言わないタイプですか?

私は、タイプでいうとその中間かな、という感じです。

ものの本によると、「愚痴はとにかく吐き出した方がいい」というアドバイスがある一方で、「愚痴は言わない方がいい。そういう波動を持つ人ばかりが集まってくるから」という真逆のアドバイスもよく見かけます。

個人的には、どっちも正解、って考えています。つまり時と場合、自分の状態によって、愚痴を言った方がいい時と、愚痴を言うのはやめておいた方がいい時の両方があるということです。

自分が今現在どっちの状態にあるかということがわかれば、「愚痴を言う」ということと上手く付き合えるようになる気がしています。

最近私は、意図的にこの「愚痴を言う」ことの使い分けをしています。

私の方法を書いてみますね。

ある出来事に遭遇して、「嫌われた」「馬鹿にされた」「私はダメなやつなんだ」と負の思考をすると、「腹が立つ」「悲しい」「許せない」という激しい負の感情が自動的に自分の中で吹き荒れます。

出来事→思考→感情の流れは、ほとんと意識できないくらいの速さです、


たとえば、

いつも仲良くしていた仲間の女子会に自分だけ誘われなかった。(出来事)
→嫌われたんだ。仲間外れだ。ひどい。(思考)
→苦しい、悲しい、不安、怒り(感情)


姑に「赤ちゃんから保育園に預けるなんてかわいそうよ」と言われた。(出来事)
→やっぱり仕事をやめるべき?私はひどい母親?(思考)

→苦しい、怒り、惨め、不安(感情)

こうした場面になんとも思わない人は、そもそも苦しい思考をしない人なので、激しい感情にさらされることもありません。けれど多くの人は、大なり小なりマイナスな思考が起きて、気持ちが動くもので、中にはものすごく激しいマイナス感情を抱え込んでしまう人もいます。

こういう状態の時には、愚痴を言ってもいい、あるいは言った方がいい時です。

必要なことは、たまった感情を吐き出すこと、それのみですから、負の感情を出すこと、つまり愚痴ることを最大限スムーズに行える相手を選ぶことです。

間違っても、「あなたも悪いんじゃない?」とか「もう、それくらいにしといたら」とか「気のせいだよ」というなだめ方をしてくるような相手に愚痴るのは得策ではありません。

愚痴るほどに、傷つく体験をする人はおそらく、相手を間違えています。リスクを最小限にするために「意見は言わないで、ただ聞いてくれる?」と前置きして愚痴るのもおすすめです。

体調不良で胃にあるものを吐き戻す時に、背中をなでながら「吐いていいよ。大丈夫だよ」と優しくて囁いてくれる人がいると温かい気持ちになって吐きやすくなるものですが、そんな感じを味わわせてくれる人が理想です。

感情をある程度吐き出して、すっきりしたら、その時点で大切なことがあります。

その出来事に、理性的な決着をつけておくことです。ニュートラルな自分が一番落ち着く、気に入った思考を決めておくんです。楽天的な人や小さな事に振り回されないな、という人を選んで、「こんな場面ではどう考えるか」と意見を聞くのも早道かもしれません。たとえば、

「友達が誰を誘うかは、友達の自由。つまり、私も、誰を誘ってもいいし、誰を誘わなくてもいいんだ」


「どうして誘ってくれなかったか聞いてみよう。もしはぐらかされたら、そんな人たちとは、少しずつ、距離を置くことにしよう」


「嫌味の好きな義母の言うことは半分に聞いてたらいいや。なんなら反論してもいい」

「仕事をすることで、子育ても充実する例を私はたくさん知っている。子育てだけしてて辛い思いをしてるお母さんもいる。私は私にとっての最良を選択している。大丈夫」



古い思考はしつこいし、新しい思考は自分にすぐに根付きませんが、ようは訓練です。筋トレ、脳トレと一緒。いや、じっさい脳トレなんですよね。

まずは、使い慣れた苦しい「思考→感情」の自動装置を意識的に外していく努力です。感情に落ちる前に、その思考の暴走を止める努力です。

私が最近使っているのは、こんな方法。

「あのことをまた考えようとしてるな」という感じが萌してきたら、まずは「来てる、来てる」と反射的に自覚して思考をブロックして、「あの時は、こう言われて、こんな風に苦しかったんだな(今の感情ではないので過去形です)」ということをはっきりと認めます。

そして、出来事と思考と感情の全てを、頭上にイメージしたベルトコンベヤーの棚に乗せて左から右手に流していく様を頭の中に描きます。川の葉っぱや、滝の時をイメージする時もあります。

ここで大事なのは、苦しい思考にアクセスしようとする自分も、そこから生じる過去と現在の感情も、責めたり、励ましたりしません。ただ、淡々と、観察して流す。私の脳はこういう働きをするんだなー、と他者目線を濃くします。

これが結構効果あって、最近は、めったに感情まで届かなくなりました。感情まで届かないと、苦しい思考をする脳の回路が薄れていくので、自分を苦しめた出来事や思考にも自動的に近寄るということが減ってきています。「ついつい考えちゃう」というのが少なくなるんです。

苦しい思考をしそうになったとりあえず散歩する、買い物に行く、という体を動かすやり方や、忙しくして思考を強制終了するのもありだと思います。

ちなみに、古い思考にアクセスしようとする動きが何かのきっかけで強くなったり頻回になった時にも、もう一度新しく思考し直したりはしません。愚痴を吐き出した時に手に入れた思考をもってきて、「もう、答えは出てますよ」とばかりに対抗してみます。こうした時は、あんまりこねくり回さないほうがいいのです。

こうして「観察・流す」と「新しい思考で対抗」を臨機応変に使うと、古い思考は徐々に勢いを失っていき、不思議と頭の中が鎮まります。新しい思考の馴染みやすい環境が頭の中で整います。


そして、愚痴の話にやっと戻っていきますが、こんな風に自分が体験した出来事について思考を止める作業を意識的に行っている段階では、誰かに愚痴を言って盛り上がることは逆効果になります。

それは、古い、苦しい思考にわざわざ自分からアクセスする行為で、その思考回路が再び強化されて感情も動いてしまうからです。他人に話す行為は刺激が強い分、頭の中の自動思考よりもやっかいです。それが繰り返されると、一時的なすっきり感を求めて、愚痴中毒に陥るかもしれません。

こうした時の愚痴は、みっともないからでもなく、波動が下がるからでもなく、余計な雑音を再び自分の中で響かせないために避けるべきです。依存症の一種だと思うと分かりやすいです。

「この件の愚痴は十分言ったから、もう言わない」「しばらくは愚痴を言いたくなる環境には出向かない」。腹の底でそう決めると、案外そうなります。そっちの方が結果的に自分を守ることになることを心は知っているからです。




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逃げてよし。

2015-02-25 10:01:27 | My メソッド
逃げないっていうのは、

いじめや
不当な暴力や
自分を毒する環境

から逃げないってことじゃない。

逃げないっていうのは、
生きることから逃げないってこと。

より良い人生
幸せに生きること

その工夫、
そのための努力から逃げないことなんだ。

自分をズタズタにする関係
自分を踏みつけにする行為
自分の身体に、
自分の心に致命傷を負わせる環境

そこから逃げることは
生きることから逃げないってこと。
幸せに生きることから逃げないってことだ。


だから、逃げてよし。

そんなところからは、
全速力で逃げてよし。
後先考えずに、逃げてよし。



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「気持ち良さ」をモットーに。

2015-02-23 11:59:49 | My メソッド
あれから、ひたすら、脳のことばかり考えています。

「脳を観察する私」という視点が気に入ってしまいました。あらゆること、自分の心に起きる現象を、脳が起こしている、脳で起きている、と考えてみると、ずいぶんと気持ちが落ち着きます。楽です。

これまでも、自分を客観的にみる癖はついていました。

腹を立てる自分、
イライラする自分、
その言葉に傷つく自分、

といった感じで、「私」と「自分」を切り離す作業。

でも、「自分」というワードは、「私」ととても距離感が近いので、「自分」=「私」の公式が自動的に発動して、客観的という実感は薄かったかもしれません。「腹を立てている」、「イライラしている」、「傷ついている」という出来事を俯瞰する力は弱かった気がします。何度も何度も飲み込まれましたから。

でも、そこに脳を登場させると、「私」と私の中で起きている「現象」にしっかりとした距離ができます。

私の中で起きている現象は、私の脳の癖が起こしている。しかも、その癖は生まれつきの性質と、これまでの人生で私の思考や感情が刻んだ台本によって形成されているということ。

もちろん、その癖は、良い癖でもなければ悪い癖でもない。ただ、そういう癖ということ。

腹を立てるのも、イライラするのも、その言葉に傷つくのも、脳の癖。

心、生き方、性格、っていう目に見えないもので私を表現するよりも、脳という物体を関与させることで、私という現象がよりわかりやすくなる気がします。

距離ができたところで、その脳の癖が、私(身体や魂とか)を苦しめるのなら、その癖を少しずつ、変えていこうという気持ちになれます。



ここで、少し違う角度からお話をします。

やりたいことやる、やりたくないことをやらない。

そんなミッションを掲げて生きていくことを楽しもうとしましたが、実は、わからなくなってしまうことがありました。


やりたいことってどこまでをいうの?

過度なネットサーフィン、夜中の暴飲暴食、二度寝、も、やりたいことと言えばやりたいことなんだけど。

やりたくないことってどこまでをいうの?

毎日の掃除、弁当づくり、きちんとした姿勢、もやりたくないことといえばやりたくないことだけど。


でも、ここにあげたやりたいことをやりたいままに、やりたくないことをやりたくないままにやっていたら、何かが、うん、私の中の全体が「苦しい」「すっきりしない」と言いだした。あるいは、言いだすことがわかっているのです。

それで気付いたのが、多分、やりたいこと、やりたくないこと、には、2種類あるってことです。

一つは、脳の反射・反応としてのやりたいこと、やりたくないこと。

もうひとつは、私全体(この中には脳も入る)のやりたいこと、やりたくないこと。

そして、私が探しているやりたいこと、やりたくないことは間違いなく後者。

さらに、その二つを見分けるのは、「気持ち良さ」なのかな、という着想が自分の中に生まれました。この「気持ち良さ」を感じている時というのは、まさに脳と私全体の双方が一致してる感じがします。


「掃除は面倒だ」と脳が言っていても、やってみると「気持ちいい」と私全体が言っている。ならば、掃除が面倒と言っている脳を説得するのが、脳を含め私全体が「やりたいことをやる、やりたくないことをやらない」ための最善の道ということになります。

大切なのは、説得であって、強制はNGでしょうね。「ねばならない」という発想をすると、ほとんどの脳は抵抗して、新しい反射を生んでしまうからです。脳の性格や台本によって、優しく促したり、サボることを認めたり、時に積極的に尻を叩いたりしながら、脳を説得するのがいいのかなって思っています。

最初からあれもこれもと欲張らずに、あくまで「脳くん、頑張って」「これやると気持ちいいよ~」という寛容なスタンスなんでしょうね。

もちろん出来なかったときには、間違っても「やっぱりできなかった」、「サボり脳め!」なんてののしったり、責めたりしたら逆効果。

出来なかったことはさらっと流し、出来たことを認めていく、というのも脳に気持ちよく働いてもらうためには必要なことです。

脳の観察、しばらくマイブームになりそうです。

ちなみに、軽いタブレット依存は、脳との駆け引きによりかなり改善。私の脳、頑張りました(*^^*)



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そっけない人。

2015-02-10 14:14:24 | My メソッド
そっけない人が苦手です。苦手以上の恐怖に近い感情です。

ママ友、仕事関係の上司や同僚、ご近所さん、かかっている病院のドクターや看護師さん。そっけない人と接触する機会があると、なんとなく憂鬱になって、一刻も早く離れたくなります。

例えば、病院を選ぶ基準はどちらかというと先生の腕よりも、先生の印象で決めることが多いです。

ちなみに私は、多分そっけなくない人です。愛想のいい方の部類の人間だと思います。そう断言するのは、夫が決して誉め言葉ではなく、そう指摘するからというのと、もう一つは、私という人間が、

そっけない → ❌
愛想がいい → ⭕️

という価値観で生きているということを、私自身が自覚しているからです。

だから、自分が「愛想がいい」を意識的、あるいは無意識的に実践して、それをひっくり返す人にはアレルギーを覚えるということだと思うのです。

でも、

そっけない、は必ずしも❌でない。
そっけない人は、必ずしも悪い人ではない。

というのは当たり前で、それが経験としてようやく実感するようになりました。そっけない人を、そっけないという理由で避けたり、反応したりしない人も大勢いるからです。

彼ら、彼女たちは、愛想がいいには⭕️をつけていても、そっけないに❌もつけていない人たちだったりするのです。だから、そっけない人が苦手でもなければ、怖くもない、そっけなくされても傷つかないのです。

自分に対してそっけない人と親しくなる必要はないのですが、せめて怖いという感情は緩めたい。そんな私が、このところ実践しているのは、

そっけない人には、自分もそっけなく。

振り返れば、私はそっけない人にも、そっけなくしない人間でした。そっけない人にも、愛想よく接して、同じようにしてもらえないことに勝手に傷ついていた節があるのです。

では、自分もそっけなくしてみると、どうなるか。

相手はほとんど変わりません。変わるのは私です。「そっけなくされたのに、愛想よくする自分」が消えた分だけ、私は傷つかなくなるし、相手の言っていることを恐怖心や嫌悪感というフィルターを通さないで落ち着いて聞くことができます。

持病の悪化で大きな病院にかかっていて、ちょうどそんな体験をしたところです。担当になったドクターがまさにこのそっけないタイプで、最初は診察室に入るが苦痛で仕方なかったのですが、私もそっけなく対応してみると、怖さがすーっと抜けました。不思議なことに、普段より説明の時間を余分にとってくれるようにもなりました。

そっけない、がデフォルトの人にとっては、愛想がいい、が⭕️ではないので、そこを評価しませんし、無駄に愛想がいい人には強い違和感を感じて、もっとそっけなくしたくなるものなのかな、とも思ったりします。

ちなみに、私、夫に対しては真逆で、ひたすらそっけなく、愛想がないです。外面がいい、日本人&A型人間の典型みたいなものですね。だから、外で愛想のいい私に対する夫の目は限りなく冷たいんです。

私の愛想の良さは私の本質ではなく、ただのペルソナってことなんですね。
photo by pakutaso.com


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閉じています。

2015-01-29 12:54:12 | My メソッド
このところ少々辛気くさい記事がつづいています。私の気分がそのまま文章に現れてる自覚は十分にあるわけで。

この気分、何とかならないものかと考えていたところ、数日前に、はたと気づいたことがあります。私の、この低空飛行の気分は、「○○だから」という明確な理由があるのではなさそうだということです。

家族のこととか、人づきあいとか、持病のこととか、日々確かに面倒なことはありますが、それが原因かと言われるとしっくりこない。そうした面倒なことを全く気にしないでいられる時期もあるのですから。むしろ、そっちの方が断然多いのです。

では、これはどういう状態なんだろう。子どもを持つまでは、確かにこんなこと何度かありました。

私は、春が近づいて来ると、エネルギーが減りやすいという生体リズムを持っているようなのです。いつからか、そんな自分のリズムを自覚するようになりました。思えば気分が不調になるのは決まって春先。

新しい門出、晴れがましい季節。この春を帯びた生暖かい風は、不快なザワザワ感を私の心にもたらし、エネルギーを奪っていったものでした。

出産してからは子育てホルモンみたいなのが分泌されて、私のこのリズムを平坦にしてくれていたのかもしれません。

昔、参加した「うつ」の勉強会で精神科のドクターが抑うつ状態をダムに見立ててわかりやすく説明してくれました。

ダムの水が人間のエネルギー。ダムに沈む色んな岩が日常生活の面倒なこと。水がいっぱいの時には、多くの岩は見えないけれど、ダムが少ないと普段は見えない小さな石までも見えてしまって、面倒だらけ、問題ばかりになる。

そういう状態の時は、岩や石ころを何とかしようとしてはいけない。また水が満ちてくるのをゆっくり待ちましょう。焦らなければ、水は必ず増えてきます。人の心はそんな風にできています。


病院でうつという診断名をもらうことになるような人は、岩や小さな石ころを取り除こうと必死になって、ダムが干上がってしまった状態とも言えます。

私のダムは、まだ干上がるようなレベルではありません。このブログも書けていますし、日常生活のタスクを100とすると、少なくとも50くらいはできています。

ただ、残り50の、普段はなんともないことが、億劫で仕方ありません。この億劫感というのは、健康な時の面倒臭いという感じとは質が違って、それをやるには普段の三倍くらいはエネルギーを使うイメージです。

メールを書く、友だちとランチをする、幼稚園にいく、運動をする、ライティングの仕事をする。

億劫な50にあたるこれらをしようとすると、体が「いやだ」と硬直します。強行するとどんな状態に行くかの予想はできるので、できるだけ罪悪感をもたないで「いやだ」を叶えています。

ただしこの罪悪感がなかなか強敵ではあります。

先週、誘われたランチがありますが「その日は仕事が入ってるから」と断りました。「悪いな」と少しばかり思ったせいか、理由を細かく書いたり、次こそは!を力説した感じの返信になりました。

すると、なんと私の都合に合わせるとの再返信がきてしまい、それでまた、断わる理由に苦労するということになりました。

こういうときは、サラッと書くことが肝心ですね。断わることや、嘘の理由に罪悪感が強くなると、どうしても言い訳がましくなる。それが相手にひっかかりを残してしまい、すんなりOKとは言わせない事態を招いてしまうのかもしれません。

こんな自分の状態を心底「仕方ない」と開き直れたら、罪悪感も落ち着きます。罪悪感をうまくやりすごすことは、エネルギーがまた自分に満ちてくるまでの時間を短くしてくれますから、ゆったりそんな境地を目指します。

また、あえて、誰かにわかってもらおうとすることもしません。わかってもらおうとするには莫大なエネルギーを使うので、気を使わない関係以外には自分をできるだけ閉じておくのがいいみたいです。

できることは坦々とやって、できないことはできるだけやらない。この仕分けがうまくできれば、また、ダムの水が満ちてくることは知っているので、ひたすら待ってみようと思います。


ところで、このブログについてですが、一方的に書くのは億劫ではないのですが、いただいたコメントにレスをする自信が今の所ありません。ほかの人間関係と同じく、しばらくの間、閉じさせてもらいます。いつもコメントを残してくださる方、ゴメンなさい。

代わりにと言ってはなんですが、気紛れでブログランキングに参加してみたので、記事に共感いただけた場合にはクリックしていただけると励みになります。

今日は、お知らせみたいになってしまいました。これからも、よろしくお願いします。








流れに乗ったと思えばいいね。

2015-01-26 09:12:59 | My メソッド
できなくでもいいやって思っていたことができなくても大して傷つかない。

でも、こうありたいという自分がそうあれないとき、これはやめたいと思っていることをがやめられなかった時には、深く傷つく。

こうありたいのは、毅然とした態度。
やめたいのは、卑屈さと媚び。

その二つができないときに、自分は自分を守れなかったんだ、自分の大事にしたいものが大事にできなかったんだと感じて落ち込む。

たとえば、

人から嫌なことをされても嫌と言えないとき。
体調か悪くても作り笑いをするとき。
弱い立場の人を助けてあげられないとき。
素直に「助けてください」って言えないとき。


毅然とできない私に、媚びて卑屈になる私に、一番厳しい視線を送るのが私。

あの人ならこんな無様なことはしないだろうと、さらに追い打ちを掛けるのも私。


本当に大切なことは、なりたい自分になれない自分、できないことをやめられない自分を責めないことなんだよね。そうやって自分を台無しにしないことだよね。

責めるくらいなら、最初からなりたい自分なんて設定しない方がいい。媚びる自分も卑屈な自分も、全部自分だねって力を抜いた方がいい。

媚びてうなづいた私も、流れに乗った、流れに身を任せただけなんだ、と大らかに構えていたほうがずっといいんだね。

そのたまたま乗った流れの中で、一個一個また自分にとって最良の選択をしていけばいいんだから。時々、作り笑いしたり、負けたり、情けないな、なんて自分を優しく茶化しながら。

自分が自分につらく当たらない限り、自分が自分を見捨てない限り、私はダメになったりしないんだから。

自分を待ってやろうじゃないか。

2015-01-22 10:32:55 | My メソッド
心が、少し荒れている。

雨のせい。
息子の愚痴のせい。
夫の仕事が忙しいせい。
病院通いで日常が覆われるせい。
図星の楔を打ち込む他人の悪意のせい。

本当は
私の弱さのせい。
私の怠惰のせい。
私の無能のせい。
全部私のせいなんだ。

いいや、それも違う。

私のせいと私か笑えないせいだ。
私のせいと私が開き直れないせいだ。
私が私の弱さと怠惰と無能に優しくできないせいなんだ。


ここが勝負どころ。

私の気持ちが整うまで
私は私を待ってやろうじゃないか。

私の見える世界が変わるまで
私は私を待ってやろうじゃないか。

とことん、とことん
待ってやろうじゃないか。