・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

珍語X番勝負:15 継続業

2020年12月17日 | つぶやきの壺焼

継続は力なりと言われる。

継続させることを仕事にしている人もいる。
たとえば、弁護士の中にも。

死刑判決を当人が受け入れているのに、控訴を勧める弁護士がいる。
冤罪の要素が全くなければ、長期受刑は死刑よりつらいのではないかと思うのだが。

その弁護士の望みは、裁判を長く続けられることなのだろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:14 曲げ乱し

2020年12月16日 | つぶやきの壺焼

天橋立は、体を曲げると違った景色になる名所、昔から人々は曲げて見ることを好んだらしい。

新聞記事の見出しにも、曲げて見させることがはやっている。
それが、橋立のように曲げて見てごらんではなく、曲げに気づかれないように曲げておいて、逆の意味に読ませるという手の込みようなのでたちが良くない。
こうなると、もう見出しではなく乱しの性格を帯びてくる。

たとえば、武漢病感染と宣告された人の数が増えているのは、GoToトラベルが主要因だと読みとれそうなこんな見出しがある。

『後手の末、ようやく「引き締め」 GoToトラベル全国停止』

GoToトラベルを引き締めたところで、罹病者が減るかどうかはわからない。

なぜなら、病原を背負いながら、ビジネスならばOKとされ、外国からスルスルと出入りしている人のことは全く報じられてないというではないか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:13 真贋宗

2020年12月15日 | つぶやきの壺焼

ものごとの真贋には、よく確かめておかなければならないことと、どちらでもよいことがある。

不思議なことに、よく確かめておかなければならないことは、得てして「まあいいではないか」で済まされ、どちらでもよいことの突っ込みには多くの人が夢中になるという現象が多い。

真贋追究に固執する心は、まるで宗教のように人々を動かす。
N町にも、真贋宗XX派と呼べそうな空気環境が出来上がっている。

真贋が確かめられると、結果からどういうことが得られるのか、そんなことは、そこの空気に浸っているとどうでもよいことらしい。

人を引き付けるこの魔力は何なのだろうか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:11 毅然体

2020年12月13日 | つぶやきの壺焼

「毅然とした態度で臨む」どうすると問われたときによく聞かれる応答表現。

相手に見せる態度は、そう見えなければ用をなさない。
へらへらニヤニヤ笑いながらの毅然とした態度などありえない。
笑みをもらしながら毅然とした態度を見せるには、何度も修羅場を踏んだ経験と滲み出る度量の裏付けが必要なのだ。

ゼニ勘定の場でのやりとりがうまくできるからといって、それがそのまま外交の場に効き目を表すことはまずない。

本心から毅然としているかどうか、それは体全体に現れるもので、口先だけでどうにかなるものではない。
あとから、あのほほえみはこういうつもりでしたなどと説明したところで、何の効き目もない。
外交は、撮りなおしの効く映画劇ではなく、また明日はないのだ。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:10 遺法

2020年12月12日 | つぶやきの壺焼

法治国家と呼ばれる国では、人間のすることに法律で制限を加え、あまり出鱈目なことができないようになっていて、安心と不自由が同居している。

いにしえに制定されたままの、カビの生えそうな遺物のような法律もある。

それらを遺法と呼んでみる。
読み違えそうだが、法に違う違法とは異なる。

遺法は存続のおかげでいろいろなものをものを生み出し、いろいろなことが行われる。
遺法には違いないのに、手を着けにくい大物になると、X法調査会などという大看板のもとで開店休業状態の会議もずるずると存続している。

このずるずる状態をそう思わせない魔力、遺法にはそんな力もあるのだ。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:9 情貧

2020年12月11日 | つぶやきの壺焼

情報弱者の略で情弱という呼び名がある。

情報弱者にもいろいろある。
いくつか並べると、それは情報弱者とは言わないと理屈をこねる人も出てきそうだが、そんなことは気にせずに置く。

まず、情報の種類別から見ることにする。

・政治情報:生活に関わりがあっても、個人の工夫や努力ではどうにもならないことも含まれる。

・生活情報:国民の生活に一切無関係なことは政治とは考えないことにしておく。

こうしてみると、情報に強いか弱いかは、政治情報に関してということになりそうだ。


為政者が国民を操るには、生活情報の比重を高くして、政治情報へのかかわりを減らしておけばよい。

政治情報へのかかわりが減れば、情報弱者の要素が強まるということだ。

情報の受け入れ度が弱くなれば、政治、とくに国際政治、つまり外交、防衛への関心が弱まる。
そうなれば、国の領土が侵されても、侵略の意図を持った者たちがある街に住み着いて、徐々に勢力と定着力を増していっても、少し離れたところでは、とりあえず収入が増え、穏やかに暮らしていければ何も不自由はないから、関心は寄せなくなる。

こんなふうにして、情報に弱いどころか貧しい情報しか得られない人々、情報貧者、情貧が増えていく。
上品にいきましょうなどと気取っている場合ではない。

政治は国内の面倒が減ってやれやれだが、それが継続されれば、いつしか隣の国の属国扱いにされないとは限らない。
そんな国民に、商売繁盛家内安全には、永遠の保証はないのだ。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:8 SM

2020年12月10日 | つぶやきの壺焼

とにかく付きまとう、その目的は、嫌がっている相手との付きまとい関係を楽しむだけのこと。

似た行動がある。
同じ質問を言葉だけを変えて繰り返す、アホな野党議員やオトボケ記者が、その仕事は自分一人のもののような顔をして、しばしば見せる愚態。

回転の止まってしまっている頭も心も、ストーク・マインドでヒタヒタ。
これ、SMの新型か。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:7 搔集習慣

2020年12月09日 | つぶやきの壺焼

人が熊手を持った古い絵画は、なぜか美しい。

身の回りをいつもきれいに、役立つものを集めるのに労を厭わない。
昔の人のそういう心が、画面から伝わってくるからだろうか。

人には、何かを搔き集める習慣のようなものができている。
とにかく集めることから考え始める。
どこかに不都合があれば、かかわるものを集めてみることで考えがまとまっていくという、思考習癖を第一のカギにしているようである。

高齢者の医療費負担を10%からいきなり2倍に上げようという話も、搔集習慣の現れではないか。
1割負担を2割に、まことに単純でわかりやすい数字だが、1の次は2と、数列はそれしか思い浮かばないのか。
10%から20%負担へ、増加率100%という見方をした報道はどこにも見当たらない。
苦しい生活費の中から、その1割をねん出している人達には、2倍の負担を喜んで迎え入れる気持ちはほとんどゼロだろう。

所得がいくら以上の人が対象というのも、大づかみのご都合計算から逆に割り出しただけの数字ではないか。、

こういう数値を考え出す人たちには、その愚策の結果がどうなるかは、おそらく念頭にないのだろう。
チラと頭をよぎるのは、年寄りは早く死ねばよいということぐらいではないのか。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:6 矛先観

2020年12月08日 | つぶやきの壺焼

戦いが行われているとき、攻撃側の矛先がどこに向かっているか、それが戦いの本質を見極めるうえでだいじなことである。

戦いの仕掛けが、ただのうっぷん晴らしなのか、大きな邪悪との戦いなのか、表層だけを見て戦いを眺める眼には、その真意が映りこまない。
まだやってるのか、往生際が悪いなあぐらいの観察しかできないからだ。

局部の勝敗を見て、既存の法を転ばしながら裁定結果を予想するだけでは、揺れる矛先のピカピカ光る部分しか見ることができない。

現実認識が歴史の必然などと、流れに乗っているだけでは、行きつく先で待ち構えている悪魔の姿を見破ることはできないのだ。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:5 学術呆

2020年12月07日 | つぶやきの壺焼

学術とは、学問と芸術のことであるなどと、いい加減なことを書いてある辞書がある。

学術という文字を団体名に入れて、怪しげな活動をしている団体もある。

学術とはなどという定義は要らない。
それは呼び名の一つではないか。
その学術を、生涯の仕事にしている人たちがいる。

その人たちは、大まかに言って二通りの類別ができる。
一方は、それぞれの適性に応じた研究を行って、その結果が優れていれば科学技術の発展に寄与できている賢者たちである。
もう一方は、研究と称して産み出したものを種々の事業に持ち込み、成果を売ることを目標にしている呆者たちである。

いわゆる学術に携わる人には、現代では後者のほうの割合がはるかに多いのではないかと思う。

学術呆が集まる場所は主に大学だが、そこでどんなことが行われているか、一例をあげておこう。

日本45大学、中国国防七大学と交流協定 先端技術流出の恐れ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:4 守護主義

2020年12月06日 | つぶやきの壺焼

主義は人間が自分の思いを変えない限り守り通すものだから、同じ思いを持った人々がそれを守り通すことが、優れたことであるかどうかを断ずることはできない。

人間同士の秩序、純良な風俗が、長く保たれるのであれば、その人たちが大切にしてきた主義が優れたものであると言えるだろう。

主義も長く続くうちに、それを守るための形が整ってくる。
しかし長い年月のうちには、その形だけは真似ていても、秩序は保たれず、純良な心など他の人類のものであるかのような、腐爛寸前の状態になることもある。

そういう状態の下では、立派な主義と讃えられて何百年も続いてきたという価値は、そこにはもう存在しない。
続けてきたのだから立派なのだという言い分は、主義の評価には値しないだろう。

一つの主義の、形さえ怪しくなった腐れ果ての見本のような事例が、次々に報じられている。
ジョージア州集計所の監視カメラ 選挙監視員を帰宅させ開票続行 スーツケースから大量の隠し票
ネバダ州で郵便投票をサンプル検査 3%が不正票と判明
元米軍情報官が証言「外国勢力による投票システムへの操作が意図的に許可された」

腐れ魚には、鯛の価値はすでにないのである。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:3 機律

2020年12月05日 | つぶやきの壺焼

「きりつ」という言葉には通常、規律、起立という漢字が、それぞれの意味をもって使われる。

ここでの「きりつ」は、律する根拠を「規」に置いて人間が判断を下す「規律」ではなく、機械が判断をする仕組みの働き方を「機律」としたものである。

人間が判断をすれば、判断結果にはその人間が責任を負うことになる。
人間が責任を負わない方法、それが判断を機械任せにする「機律」である。

機械をむやみに信仰する気質が、現代人には沁みついているから、機械の判断させれば、間違った結果にはならないだろうという、随分いい加減な便法がしばしば用いられる。

機械は、予定された設定内容に従って、瞬時に判断をし、次の操作を指示することができる。
躊躇はしない。
判断に問題があるとすれば、それは設定内容にあるのだが、元来判断を下す立場にあった人たちが、仕組み全体の大まかな動きの説明は受けても、設定内容の詳細について、綿密な査定をすることはおそらくない。
結果への責任の、人間のかかわりは、そこでどこかに飛んで行ってしまう。
機律は、とどのつまりはもっともらしい責任回避手段なのだ。

その事例を一つ上げて置こう。
「Twitterでは、Twitterルールに違反しているアカウントを凍結している」とされる。

ある社会の空気の流れを阻害したり渦を巻かせたりという行為は、空気流動状態の維持保存にとって大いに迷惑なことである。
Twitterの場にそういう行為が認められた場合、アカウントを凍結するという処置をとれば、その発信者はツイートができなくなる。
つまり言論が封殺されるのである。

ある組織団体にとって、運営の都合上流布されては迷惑なツイート内容が発見された場合には、このTwitterルールを利用して、そのツイートをかき消し、続く別のツイートも不可能にしてしまうことができる。

ルール違反の判断は、そのツイートに押し寄せた人々の意思とされる。
違反の事実をこしらえるには、押しつぶしの主意を持った大量のツイートを集中させればよい。
一人では発信元の特定が容易にできてしまうので、組織の関係者が分担をして、あるいは分担をしているように装って、ある時間帯のうちに集中攻撃をかければ、ルール違反状態はたちまち完成する。

どういう事柄でどんなことが行われたか、それは次の例をご覧あれ。

ツイッター、米数学学者のアカウントを凍結、アリゾナ州公聴会で「選挙結果認めぬ」と証言後

 

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:2 空気人

2020年12月04日 | つぶやきの壺焼

空気入れではない、空気人という人種のこと。

人間は空気の中でずっと暮らしている。
それなら、人間はみな空気人と呼べるのか。
そうではない。

空気人とは、自分を取り巻く空気を何よりもだいじにし、空気に従って、空気に依存して生きている人をそう呼んでみようかということである。

地球を取り巻く空気が、世界中どこでも清浄平穏であれば、その空気に依存して、最も安全安心に生きていくことができるだろう。
多くの人は、どんな空気であってもそれを受け入れ、それを頼りに生きようとする。

現実の空気は、そんな状態にはほど遠い。

物理的な汚れつまり大気汚染は、科学の力で変えられるから、手を尽くせば清浄に近くなる。

雰囲気になってしまった空気には、物理的に手を加える科学の力が及ばないから、汚れがひどくなると清浄にすることは難しい。
人間は、難しいことには手を付けたがらないから、その汚れは進む一方になる。

汚れた空気でも、いま自分を取り巻いている空気になびき、泳いで居続ける空気人がいる。
その人々には、居心地のよい場所が作られ、空気人たちが渦を巻いている。
日本では、永田町というところがその場所の代表のようである。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


珍語X番勝負:1

2020年12月03日 | つぶやきの壺焼

言葉を組み合わせると、ふだん意識していない概念が浮かび上がってくることがある。

珍語に類するのかもしれない、使われてない言葉。だからと言って、これは新語だ、流行ってほしいなどとは思っていない。

こういうことがありそうだが、一口に言うとどうなるか、その反対に、言葉を思いついたが、それで表せることがらにはどんなことがあるか、この双方向。

新吾十番勝負という川口松太郎の小説が半世紀ほど前にあった。
それをもじって珍語X番勝負、このブログでは31回ずつのシリーズで形が定着したので、Xは31なのだが、三十一番勝負では間延びがする。
十番勝負3回にすると、明日からちょうど勘定が合う。

では第一番は何か。
考えてはあるがここには書かない。

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村