1月5日、1964年のこの日に、ローマ教皇パウロ六世とコンスタンディヌーポリ全地総主教アシナゴラス一世が会談し、東西教会が分裂以来千年ぶりに和解したと伝えられています。
千年もいがみ合いが続けば、みな和解などありえないと思い込むでしょう。しかし、「ない」こともあるのでした。
今の世界は、乱調主義社会の人々が、知的未開社会をかきまわしている、スクランブル状態にあるようです。
知の喪失は、人々がそれを疎んじるようになることから起こります。知識人がバカにすり寄ってバカにされるようになり、それを自ら愉しむようになれば、知は溶けて流れていきます。
自業自得ではなく、共業共失の状態です。
それこそが力の顕れであると言われている「継続」にしても、その状態を保っているものは、低俗性をどこかに温存保菌しています。継続には低俗の安楽さが必要だからです。
どうでもよいことの勝った負けた、なぜかそこには熱中が見られます。
そして負けた後は、行き逢うはずのないチャラのきっかけ探しをずっと続けるのです。
新興国や開発途上国と呼ばれる国の人たちは、繰り返し負けるように仕組まれた社会で、すぐにチャラのきっかけ探しに走り、競争に駆り立てられます。
先進国を自認する国は、負けを嫌い、とかく勝ちたがります。負けのない闘いを続けるために、手ごろな新興国や開発途上国を競争相手に選んでいれば、力はマイナス側にしか働きませんから、世界はズルズルと後退していきます。
人間はなぜいつまでもバカなのか、それは負けてはならないという一心で、競争相手の選び方を間違えることが多いからでしょう。
神?の出現の、つぎびと達の解釈が
宗教になるのでは?
interpertation 粋な振る舞い合い?
解釈のむずかしい、しかし心地悪くない戸惑いを覚えます。
解釈が宗教に、それもあると思います。
解釈以前に信じていることのようにも思います。