・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

空論の正体は空気だった

2014年05月02日 | つぶやきの壺焼

KYという、言葉にはなっていない、口から出る意味を持った記号が、一時はやってすぐ消えました。
KYは、空気読めないとも、空気読むともとれる、どっちつかずの記号でした。
なんでもひと言にしてみようという遊び心が生み出した記号ですから、どっちつかずぐらいで、ちょうど寸法が合うのかもしれません。


人が人を信用するかどうかは、「定見」の有無にかかわります。
こんにゃくやかき揚げのうらおもてのように、最初に上を向いていたほうがおもてだというのでは、見識は定まりません。

定見は偏頗と隣りあわせで、わかりやすい反面嫌われやすいものです。
嫌われるのは、思い通りに変わってくれないからで、人々の多くは、それぞれ自分の、そのときの気分に合うように相手が変わってくれることを好みます。
KYが厭われ、その場の空気にすぐなじみ、その場の空気で動く人が増えれば、人が集まったときには、温存しておかなければならない空気がたちまちできあがります。


永田町の会議場にも、隼町の法廷にも空気があって、その空気にひたりながら人々は論議を交わします。
空気を保つ論議のみが尊重されたとき、そこでおこなわれるのは、ひとことで言うとなんでしょうか。
それは「空論」らしいです。

にほんブログ村



最新の画像もっと見る

コメントを投稿