力を持った人が「こうだ」と言うと、取り巻いた人がすぐに皆「そうだ」と言う。
これを合意の形成された状態と聞いたら、目の色の違う人はバカではないかと思うだろう。
「和をもって尊しとなす」のことわざどおり、日本人は和を好み異を嫌ってきた。
だいじなことには合意が肝要、合意さえ成立すればそれでよし、あらかじめ決めておいた路線にまとめあげれば会議は成功、この様式が最も洗練された形と思うように習慣づけられている。
なぜなのか、それがいちばんよいという雰囲気作りがべったりできているからである。
何か言い出せば「そうむきになるなよ」と、即座に抑制警告が発信される。
話に合わないことがあるのが普通の状態だと、思ってはならないことになっている。
話が合うというのは、合わないことを話し合うから話が合ってくるのだが、不思議なことに、合わないことが出きらないうちに、ほとんど話が合ってしまう。
話を合わすのに巧みな人が集まったとき、そこで相談されたことには、どこか抜けていることが多い。
意見を一致させることを目的にしていれば、意見の出かたは当然減っていく。
ひとこと話が出ていれば、練り上げたり拡げたりで、全体が明るくなるはずの智恵が、一瞬のハイライトに終わり、すぐに消えて忘れ去られる。
そうだねと言いあう仲よし友達だけでは情報は入って来ず、湧いた智恵も、いつまで経ってもまとまらずじまいに終わる。
同じようなことが繰り返し繰り返し偽論にのぼるのも、まとまりきれずに話が合ったところですませているからだろう。
日本のメディアが、尻尾をちょろちょろ見せながら本質の報道をしたがらないのは、安心第一、合意共感で歓ばれることが、良質の報道とされているからだろう。
合意とは、度重なるごとに効き目の薄くなるクスリのようなものらしい。
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