・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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熱血指導とはなんだろう

2013年01月14日 | つぶやきの壺焼

高校生の自殺事件で、メディアにはいろいろな言葉が飛び交っている。
「熱血指導」「体罰指導」「過剰指導」、指導と呼んでおけば、多少罪が軽くなる、ある程度は認めてよさそう、そんな気持ちが読み取れる。

暴力はだめと言いながら、心のうちでは喝采を贈っている。
世間も、学校当局も、被害者以外の生徒の親も、みなそう思っている。
犠牲があらわになると、責任はみな学校にあるといっせいに騒ぎ立てる。
それがよいとは誰も思っていないのに、みながそうするから、そうする。
ときにはそこにまた違う熱血も現れ、陣頭に立つ。

学校の部活の場は、それぞれ道場だと思う。
町にある道場とは異なり、学校にあるからには、優れた道場主がいなければならない。
大会で勝ち続けるだけの結果が得られるだけでは、その道場が優れているとは言えない。
卒業してからどういう人間になったかで、道場の価値が決まる。
勝つことだけは一人前という人間が、どういう社会を構成していくか、歴史をたどるまでもなく、地球上には事例がいくつも転がっている。

「熱血指導」はよい。よいどころか、熱血を持たなければ指導はできない。
しかし「体罰指導」「過剰指導」は指導ではない。
体罰と言うが、罰にはそれを与える理由がなければならない。
罰の理由は罪しかない。
試合に勝てない、そんなことは罪でもなんでもないのに、周りは負けたことだけを責める。
おかげで生徒の獲得数が減っていくから、それが罪だと言うのではまったくの筋違いである。
そんな言葉は、指導という言葉とつなげて使ってはならないのである。

過剰指導、それはすでに指導の域からはみ出した行為である。
それが悲劇のもとと言うのは、やり過ぎという言い方で指導力のなさを暴力で補う方法しか知らない、顧問という名の似非道場主をかばう言葉でしかない。

学校側もどこかで勘違いしていたという説もあるが、勘違いなら許されるという問題ではない。

人間同士、かばわなければならない相手には順序がある。
それは弱いほうから、そんなあたりまえのことを忘れた振りをして、まったく逆さに、強いほうがかばわれている。
ここでも、みながそうしているから、そうされている。

参考記事はこんな見出しだったが、早々と書き換えられていた。
【過剰指導の悲劇 大阪・高2自殺(上)】体罰指導「プロではない」 
「絶対王制」ゆがんだ熱血
⇒【桜宮高2自殺】体罰か指導か…議論虚しく、戻らぬ命



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