・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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不自由を便利に使う方法

2013年05月20日 | つぶやきの壺焼

人間は自由を謳歌したいなどと言いながら、内心では不自由を求めたがる。
政治家が、不自由の典型である“法”を作ることを最も重要な仕事と思うことにしているのを見てもわかる。
何かといえばこれも不自由の典型である“基準”を決めたがることも同様である。

法や基準には「定義」が必要になる。
定義はまた、法や基準の中で不自由さを上積みしていく。

定義には、「XXとはYYである」という一般形式がある。
定義によく似たものごとの言い表し方に「分類」という方法がある。
「PPはQQに属する」という形なのだが、これが定義と混同されやすい。
属することを説明しておくと、定義を宣言したかのように受け取ってもらえることがある。

Aという物象あるいは概念の集団と、Bという物象あるいは概念の集団があるとする。
Aの中にaという性質を持ったものがある場合に、「aという性質を持ったものはAである」と言っておく。
同様に、「bという性質を持ったものはBである」と言っておくと、それによってAとBそれぞれが定義されたかのように受け取られやすくなる。
そこで、aという性質はbという性質とは別次元のものだからAとBとの間でなんらかの関係を探り出すということは意味がないという、論議収束の理由が出来上がってしまう。

厳密な定義は不自由さを招くが、擬似定義は論議回避という自由の手助けをしてくれる。

政治外交問題でも、こういういう手法で棚上げにされていることがだいぶあるように思うのだがどうだろうか。

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