小学生のころの文具に画板というのがあった。ガバン、あまり心地よい響きの言葉ではない。
「図画」という絵を描くだけの課目が独立してあって、「書き方」という筆文字を書く課目、「手工」という手作業で何かを作る課目と分かれていた。
そのころは鑑賞による教育というものはほとんどなく、創作することや丁寧に物を作ることに重きを置かれていた。
図画の授業のある日にはA3ぐらいの大きさだったか、ななめ対角に紐のついた板を持ち歩いていた。
学校でもらったのか、家から持って行っていったのか思い出せない画用紙を、行き帰りにどういう具合に画板に止めてあったのか、それも思い出せない。
画用紙を画板に置いて絵を描いたことだけは間違いなく覚えている。描いた絵も2枚ぐらいは覚えている。
描いた絵の記憶の芯にあるのは、うまく描けたとか、思うように描けなかったとか、そういうことではなく、描いた題材とは関係のないできごとである。
散歩道に、ろう石で描いた道幅いっぱいの絵があった。
ろう石は、いまは何と呼ぶのだろうか。
そのかけらが一つあれば、自分の部屋も、お姉ちゃんの部屋も、扉、動物、花も、思いついたものがすぐそこに現れる。
車も人もめったに通らない農道は、子供らの夢を思いどおりに展開できる大きな画板になっているのだった。