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・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

歩道

2011年02月19日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

車道を整えれば歩道の狭くなるところもできる。

鉢合わせになればどちらかが立ち止まって、相手の通り終わるまで待つ。

そこで挨拶が交わされる。

道の狭いのは、笑顔を交わす機会をつくってくれる。

そう急ぐことはないのだ。


つなぎめ

2011年02月18日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
ものは、つなぎめがしっかりしていればなかなか壊れない。
全外の形が大きなものほど、つなぎめは難しい。



駅のホームの改造工事が片付いた。
なるほど、だいじなつなぎめには、ずいぶん上等の材料を使い綿密に組み上げた苦心の跡が見られる。
最近あちこちに地震や噴火が多いが、少々のことではずっこけないようにできているのだろう。

四分割

2011年02月17日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

 

道を歩いていると、街のどこかに四分割が見つかる。

実際は2軒、ことによると1軒かもしれないこの家が4軒にも見える。

別々のものは一つにはまとまって見えにくいが、まとまったものは分割されているように見誤りやすい。

元来別々のものを、まとめたときの数の都合だけで一つだといってしまうと、どこかに無理が出る。

入り口が一つなら上下はまとめやすいが、左右のまとめは難しいのが世の常である。

 


充電

2011年02月16日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
かみそりの充電にはタイマーを使っている。
相当の旧型でゼンマイ巻上げ式のアナログ・タイマーである。
見てすぐわかるから使い方を覚えなくてよい。差し込んでつないで回す。それだけである。
いろいろな設定を一つの画面でかわるがわる行うのが、いま様のデジタル方式らしいが、進んでいるような顔をしながらわかりにくい点で遅れている。
考えながら使わなければならないような、あるいは使い方に練習の要るような道具は、進んだ道具とはいえない。

充電が終わった。さて回してみようかとかみそりを取り上げると、ありゃりゃ、かみそりのスイッチをONにしたまま充電していた。
完全放電してから充電という手順にけじめがついていなかったのだ。
安いかみそりには、スイッチが入っていると充電できないインターロック・システムはない。

ちかごろ情報はときどき垂れ流されるが、これは電気の垂れ流しだった。

かたち

2011年02月15日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
習いごとはかたちから入れとよく言われる。

かたちには、自分がそうなるかたちと、自分の外側をそうさせるかたちがある。

自分がそうなるには、修練、カナ書きにすればトレーニングを積み重ねなければならない。かたちがわかっているだけでは思いどおりにできないのだ。

自分の外側をそうさせることには、またふたとおりあって、相手が生き物の場合とそうでない場合とに分かれる。
相手が生き物以外にはかたちを造っていくことになる。建築物などはかたちの違いが誰の目にもはっきりわかるので、造るほうも観るほうも、良い悪い、好みに合う合わないを言いやすい。

建築物は、およそ正面や側面からはよく見える。
上から見下ろす機会は少ない。


また新しい建築が始まっている。
隣の家との距離がほとんどなく、軒が競り合うのでは思うほどである。
ずっと見渡すと、こじんまりした家のわりに屋根のかたちの複雑なのが多い。

屋根屋の話によると、家を建てるとき、屋根のかたちは単純にしたほうが良いという。
複雑なかたちはしゃれた風に見えても、雨漏りの原因になりやすいそうで、確かにそのとおりだろう。
モノはつなぎ目が肝心で、故障は大体つなぎ目で起こるから、屋根もつなぎ目少ないほうが良いという説はもっともである。
中央に1本水平の棟があって、両側に対称に流れる形の屋根、これがいちばん故障が少ない。
建築を業とする人ならみなそういう単純な理屈はわかっているはずなのに、なぜこんなに苦心して切込みを入れたり段をつけたりするのだろうか。

バレンタインデー

2011年02月14日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)


漁港近くのバス停、もうまもなく日が暮れる。

大きな鉢に咲いているパンジーのまばらな様子も、夕暮れどきの景色には合っている。
昼間見ればずいぶん貧弱な、と思うかもしれないが。

パンジーの名のもとは、学者先生たちを大いに悩ませたらしい、あの「パンセ(仏: pensee 考え) 」からといわれる。
聖バレンタインが愛の言葉を鳩に託して送るときに使ったのが、後にパンジーと名づけられたこのスミレの葉だったという伝説がある。

今日はバレンタインデー、中国では街にクリスマスソングが流れ、花火の煙で目の前が見えなくなるところもあると聞いた。

世はさまざまである。


夕暮れ

2011年02月13日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

 

冬の港の夕暮れ、飼い主は背を丸め、飼い犬は短い足を踏ん張る。

飼い主は何がしかの悩みを忘れたいと時を過ごし、飼い犬は退屈だけがいまの悩み。


ずっと座り続けている飼い主は、この町ではストレンジャー。

ご主人の立ち上がるのを待っている飼い犬のすることはストレッチしかない。

 


モンスター:3

2011年02月11日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

鳥の形には自然の巧みさが集約されている。

駅の階段の手すりに、鳥か。

自然にできた鳥とはまったく無関係のものが、鳥に見えることがある。

人間が作ったもので、実用にならないけれども実在するものを、赤瀬川源平は「トマソン」と呼んだ。

この鳥は、作られずにできてしまったもの、こういうのは、なんと呼んだら面白いだろうか。


私の中

2011年02月10日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

「私の中では」という言い回しを、私は好かない。

私という一個の人間の、そのまた中に、誰を連れてこようというのか。

そんなものをむりやりねじ込めば、肝心の  「私」 も崩れていくではないか。


「私は」といちいち言うのも時によってくどいが、これは文章にはどんな場合にも主語が必要であるという、作文上の迷信に侵された人たちが、何かを言い出すときについ口走る単語である。

それでさえも、「私の中では」とことさらに主語をぼかした気取りげな言葉よりは、ずっとましだ。


潮気

2011年02月08日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
国語の辞書で「しおけ」を引くと、塩気、鹹気、潮気の三つの熟語が並んでいる。
塩気と鹹気は、塩からい味、塩の分量、塩分を意味し、潮気は、潮の気配、海上や海辺の塩分を含んだしめり気とされている。
万葉のころには「塩気立つ荒磯にはあれど」などと詠われていたらしい。

電気工学の講義で、「碍子はチョウキ、ジンアイのフチャクによって絶縁性能が低下する」と先生が話されたことがある。
ジンアイのフチャクはすぐ見当がついたが、チョウキとは何だろう。教科書を見ると「潮気、塵埃の付着」と書いてあった。

後に電力供給の仕事をするに及んで、台風のさなかに変電所の窓から、送電線鉄塔の上のほうにボワァーンと火柱の立つのを見たとき、これがチョウキの影響なのかと授業の手ごたえを感じた。
こういう現象は、いまでは「塩害」と呼ばれている。その言葉をはじめて聞いたとき「潮害」と言ったほうが正しいのではないかとも思ったが、「鳥害」との区別の要もあってのことかと納得した。

塩害は、電気絶縁だけでなく、金属構造物の敵にもなる。
海岸近くの構造物はすぐ錆びてくる。


塩分に強い塗料も塗装法も、その気になって探せばあると思うのだが、相変わらず昔流の塗装が行われているようである。
錆びなくなるとペンキ屋さんの仕事が減るからだろうか。

仕事というと、質の問題より先に失業を考えるように世の中がなってしまっているから、錆びは繰り返し出てくるだろう。

防御

2011年02月07日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

駅の構内にコンクリートのU字溝があるらしく、蓋だけが見える。

大きなものではないが、信号線だろうか、だいじなケーブルが入っている様子である。

傍らに「ケーブル有り」と書いた標識板がところどこにろ立っている。


1.だいじなものがあるから気をつけよ、と誰にもわかるようにしておく。

2.だいじなものはそこにあることがわからないようにしておく。


防御方法には二通りあるが、うっかり者に効くのは1の方法、いたずら者に効くのは2の方法ということになる。

1は平和感覚、2は騒擾感覚。

やはり1番がよい。1番の向いている世の中であってほしい。


難病

2011年02月05日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)

駅の通路に「ふらつき注意!」というポスターがある。

ホームから落ちる人が増えているので、効果はともかく貼っておこうというわけか。


駅のホームの端が、場合によって危険なことは誰でも知っている。

落ちるのは自殺か泥酔のどちらかだろう。

自殺願望には、ここにしようかという誘引効果が働くかもしれない。

泥酔すればこんなポスターのことは忘れてしまう。


落ちそうな人はまだいた。心の病に罹っている人だ。

自分の行動がわからなくなるほど病んでいる人は、落ちる危険を感じない。

そういう人は、ひとの背中を押せばえらいことになるとも思わない。


ホームに柵を設けなければならないというのは、人の病よりも世の中全体の病、これは半世紀かかって罹病した超難病である。