車道を整えれば歩道の狭くなるところもできる。
鉢合わせになればどちらかが立ち止まって、相手の通り終わるまで待つ。
そこで挨拶が交わされる。
道の狭いのは、笑顔を交わす機会をつくってくれる。
そう急ぐことはないのだ。
車道を整えれば歩道の狭くなるところもできる。
鉢合わせになればどちらかが立ち止まって、相手の通り終わるまで待つ。
そこで挨拶が交わされる。
道の狭いのは、笑顔を交わす機会をつくってくれる。
そう急ぐことはないのだ。
道を歩いていると、街のどこかに四分割が見つかる。
実際は2軒、ことによると1軒かもしれないこの家が4軒にも見える。
別々のものは一つにはまとまって見えにくいが、まとまったものは分割されているように見誤りやすい。
元来別々のものを、まとめたときの数の都合だけで一つだといってしまうと、どこかに無理が出る。
入り口が一つなら上下はまとめやすいが、左右のまとめは難しいのが世の常である。
漁港近くのバス停、もうまもなく日が暮れる。
大きな鉢に咲いているパンジーのまばらな様子も、夕暮れどきの景色には合っている。
昼間見ればずいぶん貧弱な、と思うかもしれないが。
パンジーの名のもとは、学者先生たちを大いに悩ませたらしい、あの「パンセ(仏: pensee 考え) 」からといわれる。
聖バレンタインが愛の言葉を鳩に託して送るときに使ったのが、後にパンジーと名づけられたこのスミレの葉だったという伝説がある。
今日はバレンタインデー、中国では街にクリスマスソングが流れ、花火の煙で目の前が見えなくなるところもあると聞いた。
世はさまざまである。
冬の港の夕暮れ、飼い主は背を丸め、飼い犬は短い足を踏ん張る。
飼い主は何がしかの悩みを忘れたいと時を過ごし、飼い犬は退屈だけがいまの悩み。
ずっと座り続けている飼い主は、この町ではストレンジャー。
ご主人の立ち上がるのを待っている飼い犬のすることはストレッチしかない。
素人が塗ったような塗装面を見かけることがある。
びしっと塗られたところはなんとなく見過ごすが、塗料の垂れた跡などがあると、それが紋様に見え、むしろ野趣を感じて面白い。
「塗れたか」「はい」「うーむ」
出来上がったときの会話はこんなだったのではないか。
鳥の形には自然の巧みさが集約されている。
駅の階段の手すりに、鳥か。
自然にできた鳥とはまったく無関係のものが、鳥に見えることがある。
人間が作ったもので、実用にならないけれども実在するものを、赤瀬川源平は「トマソン」と呼んだ。
この鳥は、作られずにできてしまったもの、こういうのは、なんと呼んだら面白いだろうか。
「私の中では」という言い回しを、私は好かない。
私という一個の人間の、そのまた中に、誰を連れてこようというのか。
そんなものをむりやりねじ込めば、肝心の 「私」 も崩れていくではないか。
「私は」といちいち言うのも時によってくどいが、これは文章にはどんな場合にも主語が必要であるという、作文上の迷信に侵された人たちが、何かを言い出すときについ口走る単語である。
それでさえも、「私の中では」とことさらに主語をぼかした気取りげな言葉よりは、ずっとましだ。
朝はにぎやか、夕べは静か。
魚市場の日暮れどき、人もいなければモノもない。
なにもない空間。
犬の1匹ぐらいは、いそうなものだがと思ったが、よく考えれば、このあたりで犬のリードをはずそうものなら、すぐご注意をいただいてしまうのだった。
安全第一、情緒は第二か。
駅の構内にコンクリートのU字溝があるらしく、蓋だけが見える。
大きなものではないが、信号線だろうか、だいじなケーブルが入っている様子である。
傍らに「ケーブル有り」と書いた標識板がところどこにろ立っている。
1.だいじなものがあるから気をつけよ、と誰にもわかるようにしておく。
2.だいじなものはそこにあることがわからないようにしておく。
防御方法には二通りあるが、うっかり者に効くのは1の方法、いたずら者に効くのは2の方法ということになる。
1は平和感覚、2は騒擾感覚。
やはり1番がよい。1番の向いている世の中であってほしい。
冬は花が少ない。
冬の道で、通りすがりに花を見つけるとほっとする。
豪勢な鉢植えでなくてもよい。
ひょろひょろと伸びた茎の先に一輪、それでもよい。
見せてくださってありがとうと言いたくなる。
駅の通路に「ふらつき注意!」というポスターがある。
ホームから落ちる人が増えているので、効果はともかく貼っておこうというわけか。
駅のホームの端が、場合によって危険なことは誰でも知っている。
落ちるのは自殺か泥酔のどちらかだろう。
自殺願望には、ここにしようかという誘引効果が働くかもしれない。
泥酔すればこんなポスターのことは忘れてしまう。
落ちそうな人はまだいた。心の病に罹っている人だ。
自分の行動がわからなくなるほど病んでいる人は、落ちる危険を感じない。
そういう人は、ひとの背中を押せばえらいことになるとも思わない。
ホームに柵を設けなければならないというのは、人の病よりも世の中全体の病、これは半世紀かかって罹病した超難病である。