今日は12月19日、 12日のうちの月次祭は、風邪の症状がひどく休んだが、その後体調も良くなり、無事に部内の月次祭も終えた。
17日頃より急にまた寒くなったが、長野県では雨によって土砂災害が起きたとの事。
また、中国では原因不明の病気が流行り、さらには新種のコロナが流行り出したとの情報が出てきている。
世界中が完成予防の体制を取りつつあるとの事だが、日本では政治家の不祥事が暴露されてそれどころではない。
政治家たちが自分の保身に走っているように思える。
これらは様々なネットの情報を見ていると分かる事だが、ネットを見ずにテレビだけを見ていると、このような事は分からないだろう。
先日CBCの情報番組が主催した講演会の様子が、ユーチューブで少し紹介されて、ワクチンに対して懐疑的な学者と推進派の学者との思考の違いを目にした。
まずは新型コロナ事態を人為的に作られたものと確信する学者は、ワクチンについても懐疑的であった。
ワクチン推進派は、ワクチンありきで物事を考えて、 政治や製薬会社を疑う事も無いようであった。
ワクチンの後遺症で苦しむ方々の情報を集めて、公開しているのがCBCテレビであるが、他のテレビ局ではそうした試みはされていない。
私の周囲に、3回目のワクチン接種をして、全く動けなくなった人がある。
幸にも、その人はその後何も無かったように動けるようになったので良かったが、その事から、「もうワクチンは接種しない」と言われていた。
身近にそうした人があると、不都合が良く分かり、予防接種の意味が根本から曲げられて行われていると思える。
後者の学者の詳細は知らないが、前者の学者は本人が投稿したユーチューブを見ると、研究発表などで相当不当な圧力をかけられて、あくどい裏の事情を知っていた。
人間社会は、信頼関係で成り立ち、物事が発展していくが、その信頼関係を損なう事態である。
信頼関係を失くしてはならないから、「不都合な事実は隠蔽する」という事は、ここまで事柄が大きく、多くの人々に被害が出ている事を見る時、悪を推進する片棒を担いているようなものともいえよう。
「陰謀論」という言葉や、「ファクトチェック」という言葉で、真実を発信する人々の声を封殺する状況も良く分かった。
また、「不都合ウソな事を真実の事実」のようにするために、「ウソを誠のように配信する人々がいる」事も分かった。
こうした事が分かって来て、真実を求めれば求めるほど、分からなくなるのである。
現在の私は、
自分で見た事、体験した事、自分で検証した事、自分で論立てて研究した事。
これらが真実であり、それ以外は保留・真実を見極めるための材料とする事が一番だと思うようになった。
「知らぬが仏」という言葉があるが、知らないがためにのんきに生活が出来たりするのだが、知ってしまってはそうはいかない。
「あの偉い先生が言った事だから」として、自分で検証せずに話をすると、その先生が間違っていれば、間違ったことを伝えて、人の命も危うくさせる事になる。
「鵜呑みがどれだけ怖い世の中になってきているか!」とも思うのである。
今月のうちの月次祭は、風邪の症状が酷くて月次祭の祭典・おつとめには出なかった。
先に述べたように、どんな菌やウィルスがいるか分からず、来て下さっている信者さんには癌の方もあり、うつすリスクを少しでも減らそうと、部屋に籠っていたのである。
症状はインフルエンザや新型コロナと同様で大変息苦しかったが、高熱が出ないためにこうした対処をした。
常備してあるイベルメクチンを2錠飲み、様子を見たところ、飲んだ次の日には痰が出て胸の苦しいのが楽になるのが確認できた。
また、熱も36.9分までしか上がらなかったのである。
これを3日ほど繰り返した。
私は人ごみに入るとのどが痛む。だから、常にのど飴や龍角散を持参して、その都度飲んでいる。
まったくこうした事には無縁で、インフルエンザにも新型コロナにもかかった事がないという人もある。
そうした人に、イベルメクチンの話や、のどが痛む話をしても理解してもらえないのである。
ネット上では、私と同じように喉が痛む人々が多く書き込みをしている。
ワクチンを打った人々がそばに来ると苦しくなるという話しもある。
私はそれと同じなのである。
ワクチン接種をして、後遺症に悩んでいた人におさづけを取り次ぎ、すぐさま体調が良くなったという経験もあり、その前後でその方と接した時の、喉の痛みが違う事からもそのように思っている。
ワクチン接種をして、いらぬ物質が出てきている人といわれているが、体調の変化を考えると正しくと思う。
そして差を私の身体は検知しているようなのである。
だから、正直人ごみには入りたくはない。
このワクチン接種が始まった頃、まだまだ半信半疑であったが、「どうか良い人が助かりますように、その人々の苦しみは私が頂きますから」と願ってある。ので、
用事があれば行かない訳にはいかない。それこそ親神様に凭れて。。である。
更には、親神様に凭れてと思って行動する中に、イベルメクチンという薬に出合い、ウィルスに感染しても、重大な症状にならずに、自己免疫で対応できることを知る事が出来たのである。
私はこれまでも、世界の事情を見ながら、見分ける事、自分で学ぶ事の必要性を書いて来た。
そして、元の理など教理を学びながら、また発信しながら今日まで来た。
そうした中に、最近静かだったスピリチュアル界隈が、突然に「人々が大量に死亡する大異変が起きる」などの情報がまた出だした。
そして「これまの3次元の人間から5次元、9次元の人間へと精神を高めよ。」と言い出している。
以前書いていた、トランプの米軍主導での世界改革の決着はほぼついて、後は戦後の対策、落としどころを見出して民衆をどのように導くかという段階に入っていると思っている。
人間という者は、目の前に不都合な事が起きなければ考えないものである。
そしてその考え方は、それぞれの心、経験によって異なり、原因究明も異なってくるのである。
一番初めにCBCテレビでの討論会の研究者を見れば良く分かるだろう。
その考え方によって、先への対応が変わってくるのである。
これまで同様に、医者や製薬会社のいうがままに歩むか。
それとも、これまでを振り返り、自ら考えて必要な薬や新しい知識を得ようとして歩むか。
という事である。
そしてさらに、親神様の陽気ぐらしへのお導きの中で、今どのような段階にあるのだろうか?
と思えるようにもなって来た。
実は、私が「かしもの・かりもの」を得心した時には、何も怖いものもない心になっていた。
今から25年ほど前、愛知で「愛・地球博」が行われた時である。
「心ひとつが我がの物であるから、心さえしっかりとしていれば」と思い。
自分の体の事は二の次で、走り回っていた。
そうすると、同じ天理教をしていても、「かしもの・かりもの」を得心していない人々が多くいる事を感じるようになって来たのである。
その時は、それだけであったが、それ以後求められるままに様々なおたすけや、教会事情に接しながら、その都度、おぢばへ通い、本を探して親神様の教えを求めてきた。
そして今、復元33号の「稿本 教祖様御伝」の書き換えを進めて、相談する人を与えてもらえるようになった。
今の書き換えの部分は、教祖が貧のどん底を歩まれた教祖伝ではほとんど触れられない25年の道中の部分である。
それを思うと、「教祖が自ら歩まれた道を私たちも歩むはずである」と思えるようになった。
さらには、模様替えの事を踏まえると、親神様は、人の心の成人度合いにそって、道をつけておられるのだと思えるようになったのである。
そしてまた、「これだけスピリチュアルが人気なのに、おぢばは人気が出ないのだろう。おぢばで不思議がたくさん見せて頂けるのに。。」と人気が出ない事が不思議に思えて来た。
けれども、よくよく考えると、親神様が止めておられる可能性が高いとも思えた。
それは
この親神様の教えは、心建て替えの道であり、「これまで10のものならば9つまで教えて来た、既存の教えとは異なり、一人立ちする教え」であり、誠真実・親(夫婦と道具)の教えなのである。
本来ならば、9つまでの事を経験し、得心したもの・またいんねんある者が寄せられるべきところであろう。
教祖が最後のご苦労を下されて、現身を隠されるまでの一年間。
床に伏せられて、扉を閉めて親神様は働かれたと聞くところを思う時、親神様の働き失くしては何もならんと思うと共に、不思議だけを求める人間に合わせたお働きをその時にされたのだと思うに至っているのである。
明治20年の現身を隠されて後は、日本国中に不思議が現れたのである。
その結果が今の神殿・神苑の姿であろう。
その次、本来の心の立て替えにまだ行っていない。その方法を見出していない。
そして、教祖の親心を体現できるまで行っていない。そんな気がするのである。
この教えの元は、両親(両神)ありきの教えである。
この両神は、「いざなぎ・いざなみ」ではなく、「くにとこたち・おもたり」の男神・女神である。
そこへ「くにさづち」ほか7神の道具を寄せて、神としてこの世界の秩序(理)を定めて、陽気ぐらしが出来る人間を作り上げて来たのである。
それがまだまだ途中なのである。親の神の代わりが出来る人間の親になれらねばならないのに、文明が発達したと言いながら、子供はほったらかしで自分の好きな事だけをする親ばかりの世の中である。
愛を説きながら、本当の伴侶とは異なる愛人を作り、愛によって争いごとを起している親もいるのである。
今の、世界のスピリチュアル界隈は、まだこうした親の意識まで行かず、それぞれ個人の心に留まっているように思える。
宇宙を述べる人々の話を聞くと、地球上での事柄が宇宙へと広がっただけの事で、次は宇宙の平和という話しへとなって行く事だろう。
何のために、国や地域で言葉が違っていたのかとずっと疑問に思っていたが、国や地域での安易な情報交換や交流を阻害するために、わざわざ言語を違えて来ていた。と思えるようになった
それなのに、力あるものが他の地域を侵略して行き、せっかくの楽園までもつぶして、今日まで来た。
ところが、この侵略という行為によって、人間は学び、神に願い、新しい文化や思想を発芽して今日まで来たように思える。
さらには、侵略の方法も、武力から、情報を使った精神支配へとも変化しての今日である。
そして精神の苦痛を感じて、男女の区別さえ苦痛に感じる者が現れてきているのが今の状況でもあろう。
すべては、これまでに行ってきた、心通りの相殺の生まれ変わりであり、その生まれ変わりを自覚して、自らで心を変えて未来を変えて行く歩みをせねばいつまでたっても変らないのである。
先に「愛を説きながら、本当の伴侶とは異なる愛人を作り、愛によって争いごとを起している親もいる」と書いたが、その場の争いごとで解決がつけばよいが、悔やみながらも命を落としたらならば、その見返りは必ず次の生きざまに現れる。
自分勝手の愛、それともすべてを含んで見守る愛。
そうした見分けが出来る心にならねばならないだろう。
そして、これを白紙で生まれ変わった子供たちに教え伝えて、切り替えねばならないのだと思うのである。
「急いて急かぬ道」である。
この言葉を旨に歩んでの今日。
今月の月次祭を別室に籠っていたところ、祭文を妻が奏上してくれて、準備片付けは子どもたちがそれぞれの役割に応じてやってくれて、通常通りに終える事が出来たのである。
昨日、信者さん宅に寄ったところ、私の体調を気遣ってくれると共に、「長男が準備をしている姿を見て嬉しかった」と喜んでくれていた。
この時にこんな身上になるのは何か意味があるだろうと思ってはいたが、この言葉を聞いて「なるほど」と得心した。
久々に思うがままに。。。。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます