昨日の話を書いておく。
昨日は2人の方におさづけを取り次がせて頂く事となった。
ひとりは、2カ月ほど前に心臓が止まり、心臓マッサージで心臓は動いたものの、時間がたちすぎて酸素不足から脳死と判断されて、いつどうなるか分からない状況から、意識は戻らずとも不思議と少し反応が出はじめた方。
もう一人は、血液のガンと言われ、一年ほど前に、余命1カ月と診断された方で、抗がん剤を投与するも、こんなに辛いものならば死んでも良いと、自宅療養に代えて、治療を一切やめた方。
この方は、血液内科の医師で、自分がそうした患者さんを見て来た人で、一年前は肝臓などまでも腫れていたものが、今ではそうしたものも感じられず、リンパ節の腫れもずっと小さくなってきているとの事だった。
全く不思議である。
脳死の方の話を聞いてはいたが、所属の会長がおられるため遠回しに心配をして、お願いをしていたところ、今月のはじめに、そのご主人から、私におさづけに行ってもらいたいとの連絡が入って、出かけたのであった。
その時に、案内して下さった息子さんから詳しい話を聞き、不思議な働きを感じて、今回は2回目のおさづけに行かせてもらったのである。
親神様の不思議なお働きを知っている方で、色々とお世話になった方たちではあるが、このような形でおさづけを取り次がせてもらえるとは思っていなかった。
もう一つ書いておく。
これは突然出直された方の事である。
前日まで普通に過ごされていた方、教会の会長さんであるが、その方が翌日の朝には、寝床で出直されていたというのである。
この方と懇意にしていた会長さんが、あんな良い方が突然亡くなるなんて、もう親神様は何を考えているのか分からない。と気落ちして、嘆いておられた。
突然の出直については、私の直近では3人あった。
ひとりは、動脈瘤破裂で、庭いじりをしていた時に倒れられて、ちょうど娘さんがいて救急車で病院に運ばれたが、そのまま出直された方。
ひとりは、一人暮らしをしていて、前日に車で買い物に行ったのであろう、翌朝、隣の方がトランクの開いている車を見つけて、玄関で倒れているのを隣の方が見つけたという方。
ひとりは、二世帯住宅に子供さんと住んでいて、前日には老人会のゲートボールに元気に参加されていたのに、朝息子さんが見たら、居間でコタツに入って亡くなっていたという方。
この三人の方は、うちの教会の信者さんで、その家の事やその方々の考え方も詳しく知っており、このようになって来た経緯や親神様の思いもそれなりに理解できている。
この三軒については、亡くなった方に親神様の思いがとても掛かっていた方もあれば、親親の思いに反対して自分だけの思いを立てて来た方もあり、親神様がそれまでに幾度となく、心を切り替える節を与えられながらも、それに気づかずに通られた事を感じたのを覚えている。
また、突然の出直しによって、その家族の有り様、考え方も良く分かった。
これもそれぞれの家によって、またその家族一人ひとりによって違う事。
またそれを見た縁者もそれぞれによって受け取り方、考え方が様々である事も知った。
問題は、残された生きている人々、それぞれの心である。
生きているから、考えられるのである。
生きているから、その亡くなった方や身上の方だけではなく、周囲の人々の様子で、それぞれが様々な心を使い、様々な学びを得るのである。
先に書いた不思議にも命をつないでもらっている方の場合。
その身上の方を通して、家族の者達が様々な事を体験しているのである。
天理教の中であっても、教会の会長や奥さんとの関係など、様々な問題がある。
かしもの・かりものが真に治まり、いんねんを自覚して、理を立てて通る心が定まっている人ばかりではない。
理を知り、理を立てる事を学ぶ道中の人もある。
これは諭して諭せぬところでもある。
「いわんいえんの理を聞き分け」と言われる言葉がとても重い。
いんねんを自覚して、成ってくることから、次どのようにするかは、それぞれの心なのである。
自分の思いを切り替えて、性分を変えて行動を変える。
または、性分を変えるために行動を変える。
これがその先を変える元なのである。
教祖に親神様が入り込まれて、この教えが始まった。
これは、「宿仕込みの時の子数の年限が経ったならば、元の屋敷に連れ帰り、神として拝をさせよう」との元の道具衆との約束に基づいているのである。
そして、教祖に親神天理王命の神名をつけようとされたが、思惑が立たず、元のぢばに神名を授けて、今日に至る。
「約束の年限」という事から、決まっている刻限がある事が分かる。
これは、おさしづによって導かれている中で、「遅れている」という言葉からも理解できる。
こうした刻限がある事が、理なのである。
その時までに、どれだけの成人が出来るか。という考え方もできるだろう。
教祖が現身を隠される直前。
真柱様方との問答によって、応法の道を許された。
甘露台没収を契機に、地歌を変えられた事と合わせて考えれば、
人間の成人の度合いによって、その先も変ってくることも、理として理解できるのである。
多くの人間がある中に、霊感があり、未知の者と話が出来る人もあり、そうではない人もある。
そうした人々の言葉によって、右往左往する人もある。
この右往左往する人々を考える時、その霊感のある人の言葉しか聞いていない事が良く分かる。
また一つの事柄しか考えられていない事も分かる。
どんな人もあり、どんな者もいるのである。
それら多くの話を聞いて、理を見極める事が重要であろう。
その理とは、すべてはそれぞれの心によって、見せられて、
その見せられたものの中から、自分の心が選び、受け入れて判断しているのである。
つまりは、かしものかりもので言われる「自分の心ひとつ」これが重要である。
そのためには、いんねんというわれる、心の道を知る事である。
心の道を知るために、因縁があるとも思える。
近頃、宇宙人・地球外生命体という話題が公にも言われるようになって来た。
この地球外生命体は、人間とは違うのか?と考え始めている。
どんな姿形をしていても、人間には心がある。
そして思いを言葉にする事が出来る。
これは元の理によれば、知恵文字の仕込みの前にすでにできた事と思われる。
虫鳥畜類と姿を変えて、今の姿となり、水と地を分けて陸地が出来て、知恵と文字を与えての今日を思う時。
今日、すべすべした肌を持つ人間は、親神様の理想の姿になった者と思われる。
ところが、心は神人和楽の陽気ぐらしが出来る心にはまだなっていない。
また生まれ変わり出変わりの話からすれば、魂は様々な動物へも入れ替わり、人間への成人を望めば、その課程を再度繰り替える事も分かる。
すれば、どんな姿かたちをしていても、
自由に考える心を持つ者で、言葉で意思疎通ができる者。
それが人間ではないだろうかと、最近思う。
おもうがままに。。