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あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

『別席教話の古記録』(書き換え)3完。。「復元」1号。。思った事。

2021年08月21日 08時12分26秒 | 復元 別席教話の古記録

第2稿を一つで投稿しようとしていたのだが、書換え作業中にどうも、ブラウザがおかしくなってせっかくのデータが消える。(ブログの投稿は、ブラウザで行っているため)

このコンピューター上にも親神様のお働きはあると思っている。そこで、消えた部分を再考する事にして、分割して投稿した。

また、ここ数日左足が痛む、別にこれと行った事もないのだが、どうも気になり、ただ資料を提示するだけではなく、私の感じる事を記すことが必要かと思い、少しだけ記すことにする。

さて、先の部分では、

教をする者が、教を外すようになって来ているから入り込んで自由用が出来ない。この度これまでの教えと言えども、今の教えと言えども皆目(別段に)変わった事を教えるのではない。けれども今までの教えは慣れっこになってしまって、神が入り込んで教える事が出来ん。

皆よい心を持って暮らす者が無くなったから、余儀なくこの度元の屋敷へ天下った。

と、世界中にある天理教以前の宗教などの教えについても言及された上で、新たな教えとして始めだした理由ものべている。(ここに「余儀なく」と出てくるが、この言葉はおさしづにもよく出て来て、「仕方なく、どうしようもなく」と理解している。)

この状況は、今の天理教に大いに当てはまっていると思われる。

そのようになる理由は、ここから先の話に書かれてある、応法についてや、講社の意味、そしておさづけの意味合いについてで述べられていると思う。

その外、先の「永尾芳枝祖母口述記」同様に、教祖当時の信仰に自分たちを「復元」する上にはとても重要な資料だと思った。

そして、心して書き換えをやり直した。

書き換えをするほどに、気づきが多くなり、それまでの書き換えでは不十分だった点も見つかった。

『別席教話の古記録』(書き換え)1。。「復元」1号。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

『別席教話の古記録』(書き換え)2。。「復元」1号。 - あつたかい ブログ 2 (goo.ne.jp)

不十分な書き換えだと思うが、皆さま方の参考になれば幸いです。

・・・・・・・・

(26頁より)

 神のさしづ、神の支配と仰るから、この別席順序が始まったからは、足場が無くても(足場はおさしづにもよく出てくる)高いところへ上がる事が出来る。

 神の道は胸三寸、心の道。その中、おうぼう(応法)の道を付け始めた。

応法の道となり、渡りやすくなったら胸三寸の道が切れかける。存命中の苦労艱難の理も失って、誠を付け切る事が出来ない。そこで高いところへ登るために、足場固めをしておかねばならない。

あなた方が所々でお助けをして下さる事も、神様の自由用で、お働きで道がつく。これが無ければ世界の道と同じ事。

そこで心定めと仰るのは、取次ぎ取次ぎと仰る。あなた方がお話を取り次いで下さるのは、教祖から聞いた話である。所々で手本雛形と言えば、教祖を世界の雛形と思わなければならない。

 高いところへ足場も無くて上がるというのは、世界応法の道として渡る事。前から段々の順序で、今日、別席も運ぶに違いないて・・・・年は5年か7年か尽して下された事は、神様皆お受け取り。(意味がよく分からない。)

 「我々が9度呼んだら(運んだらではないか?)神様がおさづけを下さるそうな。このおさづけは、我々が効能を貰った」と思っては徳を失う。今一時は助け一条のために下さる。やれやれという心になっては、さづけを頂いてから気がゆるむ(4)。

やれやれは油断の理。お道はやれやれという心にはなれません。我々はお道について、三年五年以前に初めてお話を聞いた時に、この世での良し悪しをさんげもした。それからこちらへ(今日まで)は神様のご恩を果たして来ている様には思うが、神の話を聞けば今一代のことではない。そうしてみれば今一代のさんげはしても、以前の理はどうも謀りがたない(考えようがない)。そうならば今日まで三年五年の間、人のために尽したと言っても徳を積んだのではない。今までの恩を返したか、まだ返さないのかも分からない。

そうしてみれば、おさづけを頂いたのは徳で頂いたのではない。これから例え一命がすたろう(亡くそう)が、どんな事があろうが、これからはあくまでも道のために奔走させてもらうという心で通らなければならない。

 この話の聞こえない所(伝わっていないという意味だろう)といえば、どこへでも、海山越してでもかまわない。身の続く限り、心の及ぶ限り行って、取り次がしてもらわなければならない。

草山を地ならしてして種を撒く。撒く種はみな生えて、みな実ると言えば誰でも皆撒くだろう。けれど撒いただけでは実りを取る事は出来ないだろう。

 六月の炎天下に草取りをする、これを修理という。これ炎天下に遊んでいれば楽であろう。けれどそれでは草山になってしまうだろう。そこで段々と百姓一年の楽しみ(一年の楽しみとは、収穫の事と思う)があるから、草取りをして修理をするだろう。又この修理をするばかりではならないだろう。肥を置かなければ十分な(実り)とはいかない。

 神様の道もこれと同じ事で、あなた方がにをいがけに出て下さる。どんな悪人でも話の理で感心する。その心誠を撒く、その種が生えるというのは講社ができた事である。講社が出来ても反対が起きる。その講社は理が分からなければいづむ(落ち込む)。いづましてしまうような事だったら雑草のために、しこらしてしまう(田畑を造るという意味と思う)ようなもの。

そこであなた方は、それを進んで、反対のある、行きにくいところであれども、そこを行くのが、これ百姓が炎天下に草取りに出るようなものである。

悪と言えども悪にも強けりゃ善にも強い。修理は百姓の理を言う。百姓の理から考えたら同じ事や。「天理教はよい教やな」と、世界の人からいうように説いて下されば、又講社の人には、段々と教えの深いところを仕込んで下さる事は、これが修理で、田の草を取ったのも同じ事。

 第一に先立つは旅費を使う。これ肥を百姓が置くようなものである。この度、段々と道を通さしてもらって、尽す運ぶ旅費というものは、これ皆自分の力で尽してくれ、人の物を持って尽しては、肥金を人に借りておいたようなもの。平常節倹(節約)を第一として、それから理を出して通って下さるなら、一粒万倍の理に返えすと仰る。

よく教祖が仰ったが、「世界でに一厘の銭を与えても、敷居の下から帰れといって、やる人もある。これがおかしい」と仰った。そりゃどういうものなら(……)。


 あなた方も段々と尽す運ぶというが、「我々も徳を積ましてもらう」「教祖の大恩送らして貰う」と思って尽して下さらなければ、ただの付き合いである。負けん気で着いて来たのでは、真実が薄い。
どんな人でも徳をかえしたい者はないが、そこの運ぶ事情が、崩して行くようになりやすい。その心、どうなろうともどうなってもと、と思って尽しては、徳を崩す(5)ようなものや。

 これは、あなた方がお話を伝え下さるお方ですから、尚も踏み(6)違いの無いように通って下さいと、これまでの世界の教えも、「教えは良くても教えを説く者が通らないから、理が消えてきた」と仰る。

 そこでそうゆうようにならないよう。

 教祖のご存命中は十分心の定まった「命張っても」と言う者でなければ、ついて通る事が出来なかった。そこで教祖が存命の末方(教祖が現身を隠される前当たりの意味だろう)に、皆おさづけを頂戴しました。人間心は神の足場。

 神様のお話は老若男女の隔てはない。誠の心を定めたら同じ理を渡すと仰る。けれども年寄りの人はお話の取次ぎは楽であるが、少ないもの(若い者)が年の行った人に取り次ぐのは難しいものである。神様のお話は変わらないけれど、聞く人の心持ちが違うから難しい。なぜならば、年の行った人は経験があるし、少ないものは経験が無いから人が信じてくれない。そこで難しい。

 お道は「どうせこうせえ(あれをしろこれをしろ)」と言わないけれども、お話を伝えて下さるあなた方であるから、何分お道は固く尽すお方は、なお尽すようにしてもらわなければならない。「尽すのに、まだ尽せ運ぶのにまだ運べといわれる。どういうものであろう」というのは、心の浅い付き合いのお方のいう事。

 まあまあ人間同士でも、子供が覚えれば覚えるほど、何もかも仕込む。覚えない者は仕込まない。結構やな。

 結構であると思えば十分尽せる。お道は「上になるほど難儀(7)する」と思うようなのは、世界並みと言おうか、誠に浅い浅いものである。

 あなた方がご奔走下さるのは、根に肥を於き、又通って下さるのは(……)

 上の方も下の方も共に心を合わせて通るのは、銘々に「これだけの徳を積ませて貰おう」と思うて通らにゃならん。

 親が手を引いて上がれば、どんな高い所でも恐き危なき(こわきあぶなき)はない。けれど、それまでに待ちかねて、駆け上がるような事をするから転げ落ちなければならない。

 不足をつけないよう。不足は思わず知らず出るで。

 心定めのお話、心定めは「足場のこしらえ(足場を作る)」という。

 人間を神様が道具に使って下さる。一度使って捨てる道具もある。日々使う道具もある。一度使って捨てられるような道具にならないよう、いついつまでも使ってもらわなければならない。

 (註)(一)この社という字は不用とも思われる
    (二)この「へ」は「を」の誤と思われる
    (三)こうげき即ち攻撃のこと
    (四)気が「ゆるむ」の誤と思われる
    (五)「くずす」と読すべきであろう
    (六)「うみ」は「ふみ」の誤と思われる
    (七)難儀

 以上二つの稿を掲載したがこれ等を通じて文字の用い方は総て原文そのままとした。但し先に述べた如く変体仮名は総て通常の平仮名を以て書き直したことは印刷上止むを得ない所である。(書き換えをしているので、このようにはなっていません。長谷川)句読点は総て筆者の加入によるものであつて原丈には全然かかる点は顧慮されていない。読み下しの便宜上かく訂正したのである。しかしながら各段の区切は全く原文通りにしておいた。これは稿者の記録し方のそのままの姿がしのばれて興味あることであらう(これも書き換え上変更してある。長谷川)
 その他筆者の筆による変化としては次の諸点がある。
 括瓢( )の中に記してあるのは筆者の加入。

 円印〈 〉は原文にはあるも不要だと思はれるもの及び原文にはあるも判読出来ないもの。
 左の言葉は下欄の様な文字で原文に書かれてゐるものが多い。
   ございます   ムます
   下さる     被下
   ……は     ハ…………
   ……を     ヲ………
   ……ます    升
 この二つの稿は略々内容が同一のものを骨子としていることは一読して察しられる所であらう。第一稿が第二稿よりも短いのは記録が不備に終つた為であると思はれる。しかし両者共後半には断片的な言葉が記録されているのみである。これは稿者の速記がつづかなかつたことを示す。かくして十分まとまつた記録とは申せないであらうが、しかしかなり参考資料として役立つことは疑ない、筆者の想像をたくましくすれば、恐らく稿者はかかる不備の記録だったため、浄書するに到らなかつたのではあるまいか。更に機会を改めて同様な記録を繰返し、しかる後にまとまつた稿として作成する意図ではなかつたのであらうか。 ともあれ別席教話の一定になつた最初の頃のその内容を伺ひ知るよすがとしてしみじみとした懐かしさを抱きつつこの二稿を味わいたいと思う。
                         (21、1、13)

・・・・・・・・

ここまで、書き換えをして、全く、ここで話される通りだと思います。

けれども、私自身が十二分に誠の心が使える者ではないので、

親神様の思いに沿った、誠の心が使えるように心したいと思います。

 

また、このお話しは、当時別席を聞かせてもらった人への話であります。

注意しなければならない事は、当時は今のように「別席の誓いの言葉」を読むだけで聞かせて頂けたのではありません。

「永尾芳枝祖母口述記」で書かれていたように、おさづけが始まった時には、いただける者頂けないものがあり、頂いた後にお取次ぎがあったのです。

それが別席制度が出来、今とは違い、「十全の守護」や「八つのほこりの説き分け」の試験があり、それに合格した者が、別席を受ける事が出来たのです。

また、別席の話にしても、取次ぎ人がそれぞれに話しをしていました。

それを後に、親神様からのおさしづで別席台本を制定して、統一化されたのが今のお話しです。

 

こうした変遷を考えますと、今の別席のお話しはどんな人が聞いても無難なお話しと思えます。

ここに書かれてあるお話は、先も申したようにとても厳しいお話です。

この差がどうしてあるのかという事も、考える必要があると思います。

 

教祖が渡された「肥のさづけ」では、「肥まるまるのさづけ」「半肥えのさづけ」があったと聞いています。

(記憶だけで書いていますが、教祖伝にあったと思います。)

これは、それぞれの行い、心に応じて渡されたと聞きます。

 

さらには、つとめ人衆を決める時に、菊の紋を作り、幼いたまえ様から渡された話があります。

この時、身上になって私は持てないと思って、返しに来たら身上が良くなったという話しもあります。

つまり、すべての人が同じように出来る。同じようにしなければならない。と思う事は違うと思います。

 

それぞれに、陽気ぐらし実現への役割があり、それぞれの魂、徳分、いんねんによってその役割に当てられている。

そして、その役割を通して、それぞれの悪いんねんを白いんねんに切り替える道を歩んでいる。

とそのように思うのです。

 

「私には無理、出来ない」というのではなく、「私にできる事はなんだろう」と考えて、行動する事が大切だと思うのです。

何よりも、誠真実の心になる事。

そのための日々の修行ではないでしょうか。

 

親神様・教祖、どうぞ、陽気ぐらしに向けてお導き下さい。

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