あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

2月4日。。。PCから思うがままに。。

2024年02月04日 09時45分12秒 | 思った事

PCから投稿してます。

 

世界の情勢を見て、スピリチュアル系の情報を見て、「刻限とは?」と思いながらここ数年間通ってきた。

天理教の教えは、だめの教え、最後の教えと言われて、それ以外は必要ないと言い切って、見向きもしない人がいるとしたら、それは大きな間違いに陥ると思っている。

 

私の友人で、親の言うことにはとして、我がことを忘れて尽くしてきた人がいる。

その人から数年前に連絡があり、これまでと生き方を変えた。とのことだった。

 

どういうことかというと、だめの教えと言いながら、それ以前の9つの教えを知らずでは、だめの教えも分からないだろうから、それを求めるようにして、様々なところをめぐり歩いている。そうしたら、すごい発見があり。。。やはり「元の理」が重要だ。とのことだった。

その9つの教えを求めている彼の姿は、教団が。。。信者が。。と言っている人々とは違い、とても元気はつらつであった。

 

教祖のお言葉を探して、いろいろな書物を見ると、結構語呂合わせの言葉が出てきて、理解に苦しむことが多い。

結局理解できずに、そのままになってしまうのだが、

この語呂合わせは、日本語だからできるのであり、日本語の重要性をこの数年感じている。

 

様々な神社仏閣を参るにして、教祖はその時には、天理王命の神名を唱えて参れと言われていた。

神社仏閣が必要ないということではない。

ましてや、

神に対して、参る人が多くなれば威光が増す。というような言葉もある。

9つの教えを一つ一つ求める人、またそうした教えで導かれている人々もあり、そうした人々の発信から得るものもあると思う。

 

さて、

身体の傷など、目に見えてよくなることは、周囲の人々にもわかりやすいが、体の痛みや精神の異常などは、周囲の者には分かりにくい。

しかし、そうした精神の身上についても、助かった逸話は沢山ある。

その時には、本人ではなく、周囲の人々の心の切り替えが、一つのポイントになっている。

 

昨日も「あしきはらい」から「あしきをはろうて」に変わったことを書いたが、心のほこりを払ってもらうことを念ずることも大切だと思う。

その時に、自らのいんねん。

見せられていたり、世話をさせられているいんねんを悟ること。

とても重要である。

さらには、精神の身上に対しては、「ご飯を食べて満腹になるようにはいかなくても、薄紙をはぐように」というような言葉で、ご守護の頂き方も示されている。

 

ご守護を頂いた話の中に、些細な変化に気が付いて、それを喜んだら徐々に良いほうへとご守護頂いたという話が多分にある。

喜べば喜びが回ってくるといわれるが、その一つとも思える。

親神様・教祖は、何とか助けてやりたいと思っておられる。しかし、

人間が生まれ変わり出変わりして、積み重ねた悪いんねんはどれだけとも分からない。

今世界では、ワクチンの被害が多分に報告をされているにもかかわらずに、中止をしようともせずに、進めている人々がいる。

これは、どれだけ多くの人々に残念や恨みの心を植え付けるか分からない。

その心は、それを行った人々へと返される。

これが理である。

 

そうしたものが、今世に現れたとしたら。。。

というものである。

 

私が東日本大震災で、ひのきしんに行った時に、腰を痛め、数日後にひどい痛みで入院をした。

その時、牢屋での番人をして、冤罪の人を痛めつけている自分の姿が夢うつつの中で思い出されて、お詫びをしたところ、その晩に不思議と痛みがなくなった事がある。

その時には、あと少しひねれば、すっきりするのにと、腰をひねって、より一層の激痛になり、さらに数日身動きが取れなくなった。

そして、さらに思案の日々が続き、痛みがあっても神経が切れていないことに感謝したところ、3日後には全く痛みがなくなるという不思議をいただいた事がある。

 

そうしたことから、身上を通して、自分の悪いんねんを果たしていくということを、実感している。

 

「わが身恨みであるほどに」である。

世界では戦争に巻き込まれる人もあり、知らず知らずに戦争の片棒を担がなければならない人もある。

安全なところに生活をしながらも、明日を心配して眠れぬ日々を過ごす人もある。

「この世に天国も地獄も出してある。」という言葉は全くと思う。

 

これを切り替える道を具体的に教えられたのが、教祖である。

それはいんねんを悟り、たんのうすること。

喜びに変えれずとも、人を恨むことを止めることである。

 

生まれ変わりの話で、

小エビを食する話がある。

小エビに「こんなものに生まれてくるから食べられてねばならん。」と言われて、周囲の人々に「おいしいと言って食べてやってくれ。その喜ばせた理で人間に近くなってくる」と言われたものである。

小エビの一生というものはわずかなものである。数年生きれば良いだろう。

そうした中に、喜ばれた理で人間に近くなるのである。

人間に生まれても、3歳で亡くなる人もあり、100歳で亡くなる人もある。

亡くした人の心もあるが、亡くなった人が生まれ変わることを考えたら、3歳で亡くなろうとも、周囲の人々が喜んだならば、早く生まれ変わってよい体で新しい人生を歩むことになるだろう。

 

今は、教祖140年祭に向けて、ひながたをたどろうと言われている時である。

ひながたを意識するということは、

ひながた、逸話に込められた親神様の理を思案する時でもあると思う。

 

思うがままに。。。

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