あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

旧山名大教会史より 第1篇第2章第4節警察と初代会長1(書換え)。。(原初天理教 表明文書)

2021年08月01日 18時38分55秒 | 旧山名大教会史

丁度一年前の6月から、旧山名大教会史を書換えて紹介はじめた。
そして、この第4節まで来た。これを半分まで書換えていたのだが、警察への「上申書」を書換えながら、とても辛くなった。

なぜかというと、この上申書は、当時説き分けられた親神様のお話を、諸井国三郎先生が直々に書かれて、とても今伝えられている教理よりもとても厳しいもので、自分自身が歩めていないのに。。。という思いが凄くしたからである。

とても読みずらいために、この部分はほとんど読まずにいたのが正直なところである。

その点をお詫びしておきたいと思う。

しかし、先日「復元」のグループを作り、表統領先生の思いに応えよう、これが親神様の今の旬に求めておられることだと、思い定めて「復元」を徐々にスキャンしている。

その中に、4号「原初天理教に於ける表明文書 諸井慶徳」というものがあった。

これは、教祖が現身を隠される明治20年までを原初として、「本教の内容の如何なるものであるかを表明せんが為に、特に対外的な考慮から記された書き物を意味するのである。」と明言されて、諸井慶徳先生が知りえる文書を掲載されている。

リストを記しておく。

1)就御尋手続上申書 山澤良次郎

2)手続書 中山マツエ 母 中山ミキ

3)神の最初の由来 

4)神の古記

5)天輪王講社信心道書抜 諸井国三郎

6)天輪王講社成立ヨリ事状上申書 諸井国三郎

7)最初之由来

このうち6)天輪王講社成立ヨリ事状上申書 諸井国三郎 が、ここに出てくる警察署への上申書である。これがとても気になっていた。

今日は、2021年8月1日 朝三時ごろから目が覚めて、どうも体がふらつく。

ひょっとしたらと、書き換えを始めたところ、スムーズに筆が運ぶ。

半分くらいまで来た。今日はこれから、ご本部へ参拝に行く予定である。帰って来てから残りを仕上げたいと思う。

12時の「新型コロナ収束のお願いづとめ」を南礼拝場でさせて頂いた。

帰って来て、何とか仕上げたが、漢文がやはり難しい、間違いがあるかと思います。
お気づきの点がありましたらコメントでお知らせください。訂正させて頂きます。

また、文中内の、身上の表現は、当時の表現にしてありますので、その点ご了承ください。

参考になれば幸いです。

・・・・・

【第4節警察と初代会長 (その1)】

 ほとんどすべての宗教は、その初期において必ず受難の歴史をもつ。受難は公私より来る取り締まり、嘲罵(ちょうば)あざけり、干渉、圧迫、迫害などである。天理教もまたこの受難の道すがらを免れる事はなかった。すでに前にも一言記したごとく、天理教に対する民衆の嘲罵は、天保9年10月、教祖立教の当時より、すでに表れていたのであるが、これが真っ向から官憲の取り締まり、干渉となって加えられてきたのは、明治7年からである。逐年(年を追うごとに)、「天理王命」の道の伸展拡張するに及んで、干渉、圧迫の度は次第に加わり来り、最初おぢばにのみ加えられた手は、道が近村より大和国一円、さらに近国にまで及ぶに至りては、いたるところに干渉が現れたのであった。ために、おぢばの方々は言うまでもなく、各地の講元と言われる人々、および講社の人などは、伝道の上に、はたまた本教を信仰する上に、実に惨憺(さんたん)たる苦心を払われたのである。

 しからば、おぢばから百里の山河を隔てたる、遠州の地においてはどうであったか。

 ここもまた、受難の道すがらは避けがたかった。左に、当時の模様を略記して、その輪郭を知る資とする(たすけとする)。

 山名郡広岡村を中心として「天理王命」のお道は、放射線状に四方に伸び広がり、村々町々、霊救はいやが上にもあがりくるに及び、講社に加入する者、日に多きを加えるのありようであった。

 これは項を改めて後段に記すことにするが、明治17,8年の頃になっては、後年山名分教会(後に山名大教会)の柱石となって、本教布教のため南船北馬、もって今日の山名の大をなさしむるに、力となった人々が次第に信仰に入り来り、講元の股肱(ここう)、手足となって、布教伝道の上に力を注ぐに至ったのである。これらの人々は、あるいは、講元のひざ元に置いて、あるいはその各自の村に置いて、あるいは他の村に出越して、次第にその家業も放置しがちに、おたすけに上に精進した。

 明治17年の夏、7月のことである。

 講元は、突然見付町の警察署からの召喚に接した。(見付町は下貫名より西方へ約2里)。この時、初代会長は家内の者に向かって、

 「わしは今から見付の警察へ行くが、三日経って帰れれば良し。もし三日経っても帰らなかったら、拘留されたと思ってくれ。」

 と言い置いて出ていかれた。が夜に入って講元が帰宅したので、家族の人たちも安堵の思いをした。その夜講元は、長女のたま女に、背を撫でよと言われるので、たま女は背後へ廻って父の背を撫でていると、背中のあるカ所が、ぶっくりと腫れあがっているのに気が付いた、それでたま女はそのことを話しすると、講元は、

「渡辺(喜作氏の事)の所で酒をよばれたが、その時縁から落ちて打った痕だ」

と言われた。しかし、たま女は講元のいう事が、偽りである事を明らかに察していた。再三再四、これまで警察が、天理教の信心を止めても、これに服せず依然信仰を続けていたため、警察の感情は日頃から良くなく、その日講元の不屈な気質と、一徹な信仰から警察の怒りを買い、器物をもって殴打された痕跡であることは、余りにも歴々とたま女にも推察がつくのであった。

『こんなご苦労をなさるのも、この信心をしているためであろう。いっそ、信心を止めて下さればいいのに』

 と心に思って、当時17才のたま女は父、講元の背を撫でつつ、ほろほろと涙を流した。

 この時の召喚で、講元は結局、斎藤警部から、

 『お前の信心はどういう信仰であるか書いて出せ』と言う事になり、その月の28日に、左記の如き、「天輪王講社成立より事状上申書」をしたためて、見付警察署へ提出したのである。

ーーーーーーーーーー

天輪王講社成立より事状上申書

        静岡県遠江国山名郡広岡村無番地平民

                    諸井国三郎 印

 1、這般(しゃはん)このたび、天輪王講社の成立よりこれまでの事情お尋ねに付、詳細申し上げます。(奉り候(そうろう))

 1、私共、信心講天輪王講社の成立は、明治15年10月14日に、安芸国広島県下第八丈区15小区丸山村68番地屋敷 平民常三郎長男 吉本八十次と申す者(28才)が、出稼ぎ寄留証所を持ち、私方へ来て、桑畑耕作の雇い入れを依頼したことにより、依頼に応じ留め置きしたところ、同年12月上旬に至り、前もって雇い入れてあった須機織物教師、

井上まん(神奈川県相洲高屋敷桐原村の者)という者が、にわかに歯が痛み、2昼夜に渡ってなおも苦痛が耐えがたく、折り柄、彼、八十次が言うには、「いまだに治らないのは気の毒である。今夜のうちに痛みの治まるように願って見よう。疑う事はしないように。」と言って、表へ出て、しばらくの後、茶碗に水一ぱいを持ってきて、「これを頂けば必ず治る。私は今、月日様にお詫びを致した。早く寝るように」という間もなく眠りについた。夜明け前にまん女が目覚めて見れば、少しも痛まず、全く治った。それから、八十次を起こして、礼をいって尋ねた。「神様へのお詫びとか、月日様へのお詫びとはどのような訳であるか。またお水は何の水であるか。教えてくれ」と言って、あらかじめ信心の道を聞く。夜も明けたので、その日出勤し、私の妻そのと共に、須機物の下掛けをしながら、前夜八十次に助けられた次第をそのに語れば、そのは又、私に聞かせたところが、あえて信心せずに過ぎる処、7、8日も過ぎた頃、また妻そのが言うには、彼八十次の信心は、どのような難病でも、心次第に助けられない事はないという。よって、村内にて、村松弥八というものは、痛風で伏したままで、やや1か年半にもなり、医薬はいうに及ばず、祈祷や術や種々手を尽くしても、その功はなく、未だ寝返りも出来ず、難渋の事ゆえ、知らしてやりたいというので、事実をただしてからとの思いに至った。そして彼八十次に信心の道を尋問したところ、右八十次は、明治11年10月中、丸山村を出立ち、その後大阪にて日雇いで稼ぎをするうちに、眼病にて長く難渋を致し、これには医薬の功はなく、両眼は見えないようになりし時に、友人の話に、大和国山辺郡三島村中山氏の老母の伝えに、天輪王命を唱えて願えば、人間身の内、痛み悩みは助からないという事は無い、我も同道して助けを願おうという事になり、両人は人力車に乗り、中山氏へ行って(三島村中山氏平民農家当戸主は新二郎)願えば、取次の者が出て、この所は参詣所でなく、また祈祷するわけでもない、ただ話一条、助け一条と言って話を聞かすから、銘々の心次第、助かると助からないのがある、また利益の遅い早いがある。態度正しくして話を聞かねばならない、先の人間というのは、この世の元はじまりを知りたる者は、さらにない、

銘々の身勝手の事を計り言って、自分の身体は自分の物、我が子は自分の拵えたものと思っている、気まま勝手な事をするのは皆心得違いである、この世の始まり、天地がまだ開けざる時に、くにとこたちの命様がご苦労下され、いざなぎ、いざなみ様へ初めて夫婦の情をおさづけになった、人間を拵え、それより世界万物をお造り下さり、くにとこたちの命様より、いざなみの命まで十柱の神々様、それぞれが受け持って、御守護を下さるゆえに、何不自由のない御代(からだ)となり、人間体五輪六台、皆神の借り物である、人間というは、神と上との御恵みを頂くから、自由自在に暮らせる者である、それを知らず、わがまま身勝手をいう、これが心得違い、また人間に病というのは無いけれども、八つのほこりが積もり、それ故に病発するのである、それ欲しい惜しみ恨み腹立ち可愛い憎い欲に高慢、これ全て、神様のお嫌いになるところである。この八つの思いがあるために、公事故障(訴訟)喧嘩、口論、密夫、諸勝負、これを神様が悪く受け取るから、身の内の痛み悩み、憂い災難が起こり我々は皆願い出るのである。これはすなわち、我が心から招く事である。世界の親は天地である。すなわち月日様である。人間の元の親は、いざなぎ、いざなみ様である。神のためには人間は子供である。そう考えれば、世界中の人間は皆兄弟である。他人というのはさらさらない。それを知らずに欲しい惜しいの思いから、公事(くじ)博奕(ばくえき)(くじやばくちの意味と思われる)はなはだ心得違いである。この悪い心を打ち捨て、真を尽くし、お互いに人を助ける心になり、夫婦睦まじく、我が子の頭も叩かぬように、家業大切に勤めをして、仮にもうそと追従、欲にこうまん無いように、心を改め、これまで知らずに暮らしてきた心得違いを神様へお詫びをして、身の内の難渋を助けて下さいと願えば、長い願いをせずとも、三日三夜の間、天照大神様の大幣を祭り、神酒、お水、洗米、野菜、掛魚などを供えて、おのれのこれまでの悪しきを懴悔して願えば、速やかに利益を下さり助かるのである。また15才前は両親の罪である。よって両親が願わねばならない。なおまた、この世におし、めくら、いざり、らいびょう、ろうしょう、ちょうまん、ちゅうきなどがあるが、これらは皆前世の持ち送りなので、慈悲善根を深く人を助け、ご恩を報じ、神の心に叶うように、つとめてお詫びをするべきである。また水、火災ならびに洪水や干ばつ、虫の害を避けて、作物が実り豊作になるのも、すべてそれぞれの心次第である。

真をつくして勤めをすれば、何なりと助けの道に叶わない事はない。と言い聞かせてもらい、大阪へ帰って心改めて、一心に願ったところ、結果4日目の朝に、目が見えたという。もっとも、この信心の道は、前にもある助け一条、話一条、勤め一条と言って、難渋で困っている人に話しは聞かせるが、我が身の信心、すぐに助けを受けるとして、礼物は申すに及ばず、人の恵みを受ければすぐに我が身の罪は増す。善悪ともに全て天から七層倍(7倍)の返しがあるという教えである。と、右八十次から聞いた。実に感服し、村内の村松弥八へ通知をして、右八十次を使わしたのが、この信心の最初であります。

そして、唱え言(唱える言葉)は左の通りであります。

 あしきはらい たすけたまえ 天輪王のみこと。

これを21編。

 ちょとはなし 神のいう事きいてくれ、あしきな事はいわんでな、この世うの地いと天とをかたどりて、夫婦をこしらいきたるでな、これがこの世のはじめだし 南無天輪王の命 ようしようし。

これを1編。

 あしきはらい たすけせきこむ、一れつすましてかんろだい。 

これを3度唱え、願い事を言い、3度ずつ3編、9編になる。ただし3,3,9編は九(く)を祓うともいう。九の世界、九の胴を治るともいう理である。

一つの唱え言に、いずれも手品(手ぶり)があり、これ人間の口と心と手の揃わぬ者が多い、この三つが揃わなければ真実に至らず、口と心と手が揃う事で真の人という。それゆえ口で言うとおりに手品をさせるのである。

 前に掲げた通り、村松弥八の家へ15年12月23日夜に初めて右八十次が行き、信心の話を聞かせ、本人は寝返りも出来ないので、家内の者は、八十次と共に三日三夜のお詫び願いをしたところ、印(良くなる兆し)が無いので、三日三夜を3回にと及んだ9日目、すなわち16年1月1日である。昨夜まで寝返りも出来なかったのに、1日の朝、たちまち自由になり、本人も家内も驚き喜んで、幼児が初めて立ったようで、さながら一歩もはう事が出来なかった。またその後12日の夜、又八十次を頼み、お詫びの願いをしたところ、翌13日の朝、不思議にも庭から表の方まで歩く事が出来、便所から先へは出る事が叶わないために戻り、座敷に着き、そのまま3月14日まで少しも変わらずであった。また3月15日弥八家内が一統一心不乱に願いを上げて、千遍の唱えをすると、翌16日朝、6,7丁ほども歩く事が出来た。そして段々と快方に向かった。これが助けの始まりであります。右八十次は1月20日私のところを出発して大和の国めざして行きました。そしてまた、その頃村方に5,6名も右八十次の話によって信仰し、利益を頂いたものがあったので、右の人々には伊勢神宮を参拝し、大和国へ廻り、三島村の中山へ尋ねた。八十次の話の実状を知りたいと、私の方へも誘いがありましたが、私は家事が忙しいので断り、右5名が参宮に1月27日出発しました。ところが、その頃私の3歳になる女の子の喉が痛みだしました。折しも私は他へ出かけており、2月1日に帰宅したところ、どうしたことか、女子の喉の痛みは増して、30日から乳も飲まず、食も断っており妻も当惑しておりました。けれども夜になっているため、翌朝医者を迎える事に決めて、ともかく八十次に聞いた信心をするべきと、御神へ供え物をして、夫婦にてお詫び願いをしたところ、翌2日朝快方に趣き、乳も飲み、また食事も進んだため、翌3日には常の食事になりました。もっとも声の様子によると、のどの痛みは全快とは至らないようだが、大丈夫と見た利益が速やかに表れた事によって、翌4日に一人で伊勢参宮に出発し、それから大和の国へ廻り、三島村中山氏へ尋ねに行きましたところ、吉本八十次の話に変わらず、実に懇ろに話を聞かせてもらいました。その時に、大阪府下西区本田町3丁目井筒梅二郎、同所橘善吉という両人に初めて出会いましたところ、右井筒は天輪王講社大阪真明組講元で、橘はその周旋方とのことで、また右八十次も居合わせて、色々と承ったところ、両人が申すには、この近国には講社も何組と区別して多分にある。大阪にも数組ある。

ぜひ遠江国にも講社を結び、助けの道を開いてもらい、我々も参っておつとめの歌、並びに手品全て信心助けの道を知っているだけはお伝えする事が出来ると言い、旅費やお礼を申し受ける事はさらに無く、助け一条のために、願わくば我々真明組にいることから、遠江真明組と称して下されば、社中皆喜ぶであろう。ご帰国の上はしかるべくご尽力頂きたいと懇ろに申されたので、帰国の上、以前参宮した者と話合い、有志10名で結社し、大阪へ知らせたところ、その後右井筒、橘両人が秋葉山参詣のついでとして、3月14日に私の方へ立ち寄られたので、幸いとして信心の道を聞き学び、その事のうわさが立ち、諸所から尋ねに来るものが多分にあるため、前に記した話を聞かせて、信心の道を伝えたところ、皆々利益を受けないものは無く、よって、社入する者72名(両人のとう留は14日から24日まで)合わせて社員82名となる。その節も見付警察署より、巡査2名のご出張があり、追及されたので、前の記した通り橘善吉よりお答え申し上げたところ、ただ信心の話を聞くばかりで、お礼も受け取らず、かつ燈明料とか、あるいは草履銭とか名付けてしかも受け取る事は無い。その事がなければ、不都合な事はないので、よって今後なお不都合の無いようにすべし、と申し置き帰られました。かつまた右の追及があり、社員も82名にもなったため、取り締まりのために講元を一名、周旋方を5名、投票する事に協議取り決まり、則私が講元に当選し、その後右梅二郎、善吉両人も帰国し、なお引継ぎ所から信心したいと尋ね来るものが多分にあるようになったため、懇ろに話を伝えたところ、利益を受けるものが多く、また真を厚くするのをもって、一家の治まりも良いため、入社を乞うものが多くあるため、よって、講社中の規則を定め、毎月26日、社中集会を開き、共に真の天理人道を明弁研究して、人の人たる道に到り、真義をを厚くし、各業をつとめ、互い助け合い、国家の幸福を祈り、神徳皇恩を慎んで報告し、ゆえに信心を名として、他の妨害をせぬよう、所々に周旋方と名付けて、取り締まり注意をするにつけ、近々入社した人もあるため、16年5月より、本年に至り、毎月26日多少の社員集会を行い、役に立つ真義を厚くし、怠惰驕奢(なまけ、おごりぜいたく)の無いように社則を守り、勤めは分外に進ませ、倹(つましい)は分内に退かせ、社員をして御国恩を志したく願い報告する。

目下、社員は別冊の通りであります。

1.毎月26日集会の時、神を拝むお勤めと言って、12下りという、一下り毎に1より12まで歌が10ずつあり、その前に8つの歌があり、合わせて128の歌に、それぞれの手品を行い、これは手踊りではなく、舞でもなく、前にもあるように、人間の口と心と手と揃わなければ、真の人ではない。ゆえに、真の学びをする、神の御心に習わせて真義を厚くするという理である。鳴物は太鼓、笛、拍子木の3品

 その勤めの人員は6人、いずれも講社員に限り、もっとも社員の家族は社員同様であります。

 前書の通り違いありません。以上。

明治17年7月28日

                 右 諸井国三郎 印

見付警察署 御中

=============

これが第1回目の召喚であった。

 

・・・・・・・・・・・・

以上となります。

何とか書いてみました。とても難しかったです。

しかし、当時の信仰の形と教えがとても良く分かりました。

それぞれが信仰を深めるとても重要な資料だと思いました。

参考になれば幸いです。

 

親神様、教祖、どうぞ大難は小難にとお守り下さい。

 


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