あつたかい ブログ 2

日々思った事、感じた事そして、親神様の御守護を書いて行きたいと思います。

今日続けざまに出て来た動画について。。。親神様の思いは。。

2021年11月19日 23時00分13秒 | 思った事
先日書いた文章に追記して、再度別物として投稿する。
Facebookなどで、検閲削除対象になる可能性があるため、伏せ字で投稿する事をご了承ください。
 
私は、「親神様・教祖の導きのままに通らせて頂きます」と心定めて今日まで来た。
 
今日は、次々に新コロのワ◎陳接種の動画が次々と出て来て、ついにワ◎陳の成分について、詳細に説明している動画を共有した。
 
 
様々な情報をつなぎ合わせて、動画と同じような事を思って今日まで来た。
しかし、これらを自分の口からは到底言えない。
また、その証拠たるものは、自分の観点からつなぎ合わせたものであるから、絶対とは言えないので、
ただ、「5年後どうなるかわからないから。」とだけ、注意する形で話をしてきた。
 
私が危惧するのは、こうした話を聞いて自暴自棄になる人が出てこないかという事である。
西洋の人々は、自分が生きるという事についてそれぞれに結構執着があると思うが、日本人は周囲がそうするならば、自分一人だけでは。。。という心になりやすい。
 
実際に、危険だと知っていても、自分だけ残るのは嫌だとして、家族と同じ行動をする人もいる。
これが極限に置かれた人間の心理の一つであろうと思う。
 
ワ〇陳について「バクチン」と言う「まーてる先生」の動画を以前共有したが、まさしく博打であろう。
これは同じワ〇陳であっても、治験中であって濃度が違っていたり成分が違っているという意味である。
 
そしてさらに、先ほど3回目の接種をした人々が次々と体調不良を起こして、学校が休みになったとのツイッター情報を見て、先ほどのノートに追記した。
先の動画を見れば、どれだけ危険なものか分かると思う。
 
さて、お道の教えからこうした事を思案しながら今日まで来わけだが、
世界の事情からどんどんと日本に同じ事が迫ってきているのである。
(国によってはすでにワ◎陳は中止して、パンデミックが治まっているとこもあり、「イベルメクチン」を配布して治まっているところもある。しかし、日本は違う。)
 
ようやく先日の自民党の総裁選挙から「マスメディア」の異様さに人々が気がつき始め、衆議院選挙では国防が話題となって自民党が過半数を獲得したわけだが、この時点ではまだまだこの「ワ◎陳」の事はほとんど無視されて、この話題をだすと、自民党を押す人々の中でも左派といわれるありさまだった。
 
海外とくにアメリカではこの事については、裁判が開かれて到底「ワ◎陳とは言えない」という判決も出ている状態であるが、それでも政府は強制的に接種を進めているのである。
 
そして民衆は、その政府のやり方はおかしいとして、デモを行なったり、接種拒否の行動をしているのである。
 
こうした事を考えてると、以前に書いたように「遠くから事情や身上は寄ってくる」という話し通りだと思っている。
 
さて、
このブログは天理教の人以外も見ることが出来る。
天理教であっても、悟りはそれぞれなので、今の状況でどのように考えているかはそれぞれであろう。
天理教も一時期、政治に関与するために、政治家を出していた事がある。
その時には公明党と肩を並べるくらいの勢いがあったそうである。
しかし、2代真柱様はそれを取りやめて今日に至っている。
 
私はそれで正解だと思う。
教えは一つでも、悟り方や境遇によって考え方や方向性は異なるのである。
だから、同じ日本であってもそれぞれが推す政治家や政党が異なっても良いのである。
 
反対に、それを通して、真の話し合いが出来、真の陽気ぐらし世界実現に向かうのだと思っている。
 
そうした中に、2代真柱様から代が移り変わり今日では、「さんさい心」「素直に」という事ばかりが強調されて、自ら思案して行動するという事がないがしろにされてきたように思われる。
 
以前にもこのブログで書いたと思うが、おふでさきの最後に「思案頼むで」という言葉がある。この思案をせずに、上の人の言われるままに歩む事を良しとして、自分で考える力を失ってはいないかと思うのである。
 
そして先ほど書いた「話し合い」については、どのようにしたら良いか「おさしづ」にも示されている。
 
ところが、今の世界情勢は、話し合いではなく、心理戦であり、立法戦であると思われる。
まったく親神様の思いとはかけ離れた状況にあろう。
 
そうした中に生活する我々はどうすべきか、それを考える必要があると思う。
それを教祖のひながた、先人の足取りから求めるべきであろう。
 
自分なりに考えるところはあるがうまくまとまらない。
 
ともかくすべては「かしもの借りもの」である。
心ひとつが我がの物である。
 
教祖は警察に対しても厳として、引かれる事もなく臆する事も無かった。
「法律には叶わない」と言ったのは人間の方である。
その時に、「心定めの人衆定め」と言われて、おつとめを急き込まれたのである。
 
問題は心であろう。
心ひとつで、医者が助からないという身上が助かるのである。
ここをしっかりと心しておく事が一番重要であろう。
 
事情無ければ治まらないのである。
そして治まったら定めるのではなく、
定めて治まるのである。
 
三回目の接種が公表されているが、
ワ◎陳を打って、多くの方が亡くなり副反応で苦しまれる話を聞く中に、副反応が無かった事が当然ではなく、幸いであったと思う事が重要で、2度ある事は3度あるではないが、3度目はどうなるか分からないと、心して決めるべきだと思う。
 
また、職場で接種しなければ解雇するという圧力があるとの事、もしそうした事があれば、人権の弁護士に相談するようにと、動画でも話している。
どうぞ、それぞれの心を強く持って、判断されますように。。。
 
 
親神様・教祖、どうぞ大難は小難に、小難は無難にとお守りくださいませ。
 
 
 
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食べるという事について。。投稿から書いたコメントの記録。。今日思う事

2021年11月19日 12時58分22秒 | 思った事

先日「食べる」という事で以下の記事を目にした。

記事リンク

書かれたのは、伊藤義昭さんである。
たくさんある、フェイスブックの友人の中で、この方の投稿がとても良く出てくる。
そして、一度見たら二度と出てこない記事が多い中、なかなか消えず、何度でも出てくるのである。
そして、コメントをすると出て来なくなる。
そうした中の一つの投稿である。
 
以下、投稿の記事。。。。
 
張り子の鬼吉、オラ鬼じゃ、涙の怒り
さいとうたかをが 池波正太郎原作の 鬼平犯科帳で〔張り子の鬼吉〕を掲載した
重い 課題を 突き付けられた、、
天明の大飢饉は 施政の悪さもあり 餓死者が 大量に出た、、その時 少年であった男は 死に瀕した母から、、お前は 絶対に死んではいけない、、!
、、お母ちゃ死んだら、、かまわぬ お母ちゃの 肉 食いへ、、いいから オメは生きろ!!なんだかしても 生き抜け!、それが母ちゃんの望みだ、!頼んだで、頼んだでな、!!、やがてして
、、オラ鬼じゃ!、、盗賊になった、、鬼平が追う、、束縛された仲間が云う、、、江戸で ぬくぬくと暮らす奴に 畜生呼ばわりされたくねぇじゃう!!云っても分からねさ、おめ様方には な、、鬼吉は 捕まらねぇ、、この先も 地獄さ背負って生き延びる、、と、、
アンデス山中へ不時着遭難し 生き残った話しは有名です、、、
、、人肉を食う、、戦地でも それはあった、、目をそむけることはならない、、さて 輸血、臓器移植等はどう考えるか、、、
死体は 全て 自然へ還元、還流され 他の生命の源となる、、動物には 共食いも有る、、嫌悪はあるが 何か 必然があるのかも知れない、、
悲しい現実を見る、、死体はすでに 生きてはいない、還元、還流の途に入った、、、
この文明世界に今だ飢餓が有る
生き残りといえば 国家、民族、経済、会社にも 勝敗の闘争がある、、、
 
 
・・・・・・
とても重たい話題と思い、コメントを書かずにいたが、先に書いたように数度出て来た。
そして、意を決して以下のように書いた。
 
思い浮かぶままに、調べながら書いたのだが、とても重要な事を書いたと思い、ここに記録しておく。
・・・・・・・・
以下、私が書いたコメント。。。
 
とても重たい話題になって来ましたね。
元の理で道具となったカレイや黒蛇などをクニトコタチ様やオモタリ様は食べられて心根を味わいとあります。その前段階には、人間を創る道具となってもらいたい、子数の年限が経ったならば神として拝をさせようと約束をして、「承知をさせて」食べて道具とされているのです。
ただ食べるという事だけならば、弱肉強食で生きるために、強いものが弱いものを食べるでしょう。これが理だと思います。
ところが、この時、動物は必要以上には食べません。殺さないのです。
人間はどうでしょうか?
必要以上に殺し、食べずに廃棄していないでしょうか?
動物と人間との違いは、本能だけで動くか、知恵を使って動くかによるとも思えます。
また、話に出て来た、飢餓に瀕した親子の話では、食される事を承知をしている点であります。我が子のためにです。
では食す子供の心はどうでしょうか?
多分、泣きながら親の思いをつなぐために食したのではないかと思えるのです。
この二つの心には憎しみも何もないでしょう。
しかし、自分の意に沿わず殺されるならばどうでしょうか?
ここには恨みや憎しみが残らないでしょうか?
命をつなぐために食す事は必然的な事でも、その心、これがとても重要かと思います。
「菜の葉一枚無駄にしてくれるな」という教祖のお言葉は有名です。
さすれば、必要以上の殺生はならないと、これも同じようにつながる話だと思います。
また、逸話編にありますが、小魚を召し上がる時には、
『教祖は、その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて聞かせるように、
「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世しておいでや。」
と、仰せられ、それから、お側に居る人々に、
「こうして、一番大きなものに得心さしたなら、後は皆、得心する道理やろ。」
と、仰せになり、更に又、
「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやっておくれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来るのやで。」
と、お教え下された。』
とありますので、食す時の心が重要かと思います。
こうした心なく日頃食している自分を反省させて頂きました。
ありがとうございました。mm
 
・・・・・・・
 
話は変わるが、
私は、「親神様・教祖の導きのままに通らせて頂きます」と心定めて今日まで来た。
 
今日、ついにワ◎陳の成分について、詳細に説明している動画を共有した。
 
 
様々な情報をつなぎ合わせて、動画と同じような事を思って今日まで来た。
しかし、これらを自分の口からは到底言えない。
また、その証拠たるものは、自分の観点からつなぎ合わせたものであるから、絶対とは言えないので、
ただ、「5年後どうなるかわからないから。」とだけ、注意する形で話をしてきた。
 
私が危惧するのは、こうした話を聞いて自暴自棄になる人が出てこないかという事である。
西洋の人々は、自分が生きるという事についてそれぞれに結構執着があると思うが、日本人は周囲がそうするならば、自分一人だけでは。。。という心になりやすい。
 
実際に、危険だと知っていても、自分だけ残るのは嫌だとして、家族と同じ行動をする人もいる。
これが極限に置かれた人間の心理の一つであろうと思う。
 
ワ〇陳について「バクチン」と言う「まーてる先生」の動画を以前共有したが、まさしく博打であろう。
これは同じワ〇陳であっても、治験中であって濃度が違っていたり成分が違っているという意味である。
 
そしてさらに、先ほど3回目の接種をした人々が次々と体調不良を起こして、学校が休みになったとのツイッター情報を見て、先ほどのノートに追記した。
先の動画を見れば、どれだけ危険なものか分かると思う。
 
さて、お道の教えからこうした事を思案しながら今日まで来わけだが、
世界の事情からどんどんと日本に同じ事が迫ってきているのである。
(国によってはすでにワ◎陳は中止して、パンデミックが治まっているとこもあり、「イベルメクチン」を配布して治まっているところもある。しかし、日本は違う。)
 
ようやく先日の自民党の総裁選挙から「マスメディア」の異様さに人々が気がつき始め、衆議院選挙では国防が話題となって自民党が過半数を獲得したわけだが、この時点ではまだまだこの「ワ◎陳」の事はほとんど無視されて、この話題をだすと、自民党を押す人々の中でも左派といわれるありさまだった。
 
海外とくにアメリカではこの事については、裁判が開かれて到底「ワ◎陳とは言えない」という判決も出ている状態であるが、それでも政府は強制的に接種を進めているのである。
 
そして民衆は、その政府のやり方はおかしいとして、デモを行なったり、接種拒否の行動をしているのである。
 
こうした事を考えてると、以前に書いたように「遠くから事情や身上は寄ってくる」という話し通りだと思っている。
 
さて、
このブログは天理教の人以外も見ることが出来る。
天理教であっても、悟りはそれぞれなので、今の状況でどのように考えているかはそれぞれであろう。
天理教も一時期、政治に関与するために、政治家を出していた事がある。
その時には公明党と肩を並べるくらいの勢いがあったそうである。
しかし、2代真柱様はそれを取りやめて今日に至っている。
 
私はそれで正解だと思う。
教えは一つでも、悟り方や境遇によって考え方や方向性は異なるのである。
だから、同じ日本であってもそれぞれが推す政治家や政党が異なっても良いのである。
 
反対に、それを通して、真の話し合いが出来、真の陽気ぐらし世界実現に向かうのだと思っている。
 
そうした中に、2代真柱様から代が移り変わり今日では、「さんさい心」「素直に」という事ばかりが強調されて、自ら思案して行動するという事がないがしろにされてきたように思われる。
 
以前にもこのブログで書いたと思うが、おふでさきの最後に「思案頼むで」という言葉がある。この思案をせずに、上の人の言われるままに歩む事を良しとして、自分で考える力を失ってはいないかと思うのである。
 
そして先ほど書いた「話し合い」については、どのようにしたら良いか「おさしづ」にも示されている。
 
ところが、今の世界情勢は、話し合いではなく、心理戦であり、立法戦であると思われる。
まったく親神様の思いとはかけ離れた状況にあろう。
 
そうした中に生活する我々はどうすべきか、それを考える必要があると思う。
それを教祖のひながた、先人の足取りから求めるべきであろう。
 
自分なりに考えるところはあるがうまくまとまらない。
 
ともかくすべては「かしもの借りもの」である。
心ひとつが我がの物である。
 
教祖は警察に対しても厳として、引かれる事もなく臆する事も無かった。
「法律には叶わない」と言ったのは人間の方である。
その時に、「心定めの人衆定め」と言われて、おつとめを急き込まれたのである。
 
問題は心であろう。
心ひとつで、医者が助からないという身上が助かるのである。
ここをしっかりと心しておく事が一番重要であろう。
 
事情無ければ治まらないのである。
そして治まったら定めるのではなく、
定めて治まるのである。
 
三回目の接種が公表されているが、
ワ◎陳を打って、多くの方が亡くなり副反応で苦しまれる話を聞く中に、副反応が無かった事が当然ではなく、幸いであったと思う事が重要で、2度ある事は3度あるではないが、3度目はどうなるか分からないと、心して決めるべきだと思う。
 
また、職場で接種しなければ解雇するという圧力があるとの事、もしそうした事があれば、人権の弁護士に相談するようにと、動画でも話している。
どうぞ、それぞれの心を強く持って、判断されますように。。。
 
 
 
 
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