ご本部の神殿奉仕に出させて頂くようになってから、5年ほどになる。
神殿奉仕の合間に、お守所で他の先生方と色々な話をさせて頂く。
その中に、それぞれの系統によって考え方などが違い、活動の内容も異なっている事を感じるのである。
そして、教務を担当して愛知部内の教会の事を色々と携わってくると、同じ愛知の系統の中でも、その所属系統によって考え方などが違いう事も感じる。
また、同級生の集いなどをすると、その地域によって物のとらえ方の差もある事を感じるのである。
この差から、どこが良い悪いという話をしたいのではない。
それぞれに良い悪いはあるだろう。これは人間の性格と同じだと思う。
問題としているのは、その系統や地域の中では当たり前となっている事は、良くも悪くも感じないのである。
当然として日々を過ごしているのである。
これをとても怖い事と私は思う。私はこのブログでもちょくちょく、「身上がこうだから」と自分自身の変化を元に、考えたことを書くことが多い。
常に自分自身の通り方に自信がないから、悪くなりたくないから、親神様にお導き頂きたいと願っているから、ちょっとした変化からそうした事を思案するのだと、最近思うようになった。
そして気になったことを、過去の歴史や、おさしづやおふでさきから思案するようにしている。
結婚の世話をした夫婦に、こんな話をしたことがある。
お嫁さんは、嫁ぎ先の家に帰ってきたのだと聞いている。だから、実家の両親を本当の両親と思うのではなく、今の嫁ぎ先の両親を本当の両親だと思って、日々過ごすとよい。とこれは、お道の上には、普通に話されている事です。
そうすると、全く異なった環境で育ったのだから、嫁ぎ先に慣れるのはとても大変だと思います。また慣れなければならないというプレッシャーで辛い人もある事でしょう。
じゃぁ。なぜ、実家の両親に育ててもらったのだろう。と私は考えます。
現代の人間は兄弟での結婚は避けるのが、ほとんどです。これは生物学上、近親での生殖では奇形児を発生させる確率が高いからだと私は思っています。
そうした時に、長年その家に受け継がれてきた伝統はとても大切です。しかし、その伝統をよりよくするために、他のところで育てられたお嫁さんによって、新しい風が入れられるのではないかと思います。
と話をしています。
嫁姑の問題は、永遠のテーマでしょう。それを生み育てた実家よりも、嫁ぎ先の方が縁が深いと教えられて過ごすこの教えはとても素晴らしいと思います。
実際に、我が嫁を見た時に、私の母親とよく似たところがあるのです。だから余計に教祖のお話は本当だと確信をしているのですが、そうした中に、育てて頂いたところの風を少し入れる事が、その家がより一層よくなる事だと思うのです。
教祖の話を知らない人は、我が実家が正しいと思うのです。そしてそれにとらわれるから治まらないのです。
女の人の心は子供を育てる上にはとても大切です。そして、その女の人の心をしっかりと守る役割は男にあるとも思います。
この事は、教会にも言えるでしょう。
教祖のお話は一つです。おぢばも一つです。
しかし、人間の性格はバラバラです。
先日、正文遺韻抄の誤植を見つけましたが、松恵様の御魂の理といわれる事から、我々にもそうした異なったお働きの魂の理があると思案することが出来ると思います。それが性格ではないでしょうか。
そして、その性格(魂の理)を理解するのは、親神様が陽気ぐらし実現に向けて、縁づけて下さっていると思案することが大切だと思うのです。
それぞれの家、教会、そして地域のいんねんを自覚する事。これもまた、自分のいんねんの自覚と共に必要な事ではないかと思う。
親神様・教祖、どうぞ不思議なお働きを、今回もお願いたします。