人間が敬う対象が神であろう。
では、
人間が自分中心の願い。人を殺めても、自分に利を得たい。と願い
それを叶える存在があれば、それはその人間に対して神となる。
この人間の心が、人と人が争う事を望まず、自分も他も共に楽しむ事を望み、
それを叶える存在があれば、それも神となる。
ここまで極端にならずとも、知識を得たい、力を得たい、物を得たいなどと
人間の望みは様々であり、それを願い、それを叶える存在がその人間の神となる。
この時に、神と人間とをつなぐ存在がある。
これをシャーマンとか、霊媒師として来た時代があり、現在もそうした人々が活動する情報も多々ある。
神社の神主・お寺のお坊さんや様々な宗教者もその一端となるだろう。
また日本の神社では、優れた功績のあった人物を神として社を立てて奉ってもいる。
そしてその神々に、人間は望みを願う。
願いの叶うものもあれば、叶わぬ者もある。
その差はどこにあるのか。
考えたものはあるのだろうか?と思う。
その答えは、その神のみぞ知る。というところだが、
天理教の元の神、親神 天理王命 様は、「誠の言葉しか聞こえない」とも言われている。
「誠ならば受け取る」として、助からぬ母親を思う子供の心を受け取って不思議なたすけをいただいたという、逸話編からも理解できることである。
1月14日に支部例会が行われた。
その席上で、今回起きた能登半島の地震に対する、愛知教区災救隊の活動について報告を受けた。
地震が起きてまじかに、青年会から2台のワゴン車で物資を輸送する予定だったのが、余りにも多くの物資が集まったために、4台のワゴン車で行く事となり、運転手が足りずに災救隊の隊長などが出動する事となったとの事。
石川教区で物資を受け入れてくれる教会も、狭い路地の中にある教会で、物資の搬入、搬出がとても大変で、指定された教会へ物資を運ぶ手伝いをして戻って来たとの事だった。
そして数日前までは、避難所へ炊き出しなどをする部隊の世話どり(宿舎の清掃など)をしているとの事。
そうした作業も近隣の教区から、夜出発して夜に帰るという日帰りでの対応をしているとの事だった。
私も東日本大震災の時には、災救隊とは別に物資を運んだり、ひのきしんに出かけたりした。
あれから10数年たち、もうそのような動きは出来ないが、同級生の教会が被災して全壊したので、同級生で見舞金をだそうという話しになっている。
この災害のみならず、各地で様々な災害が起きており、その度ごとに災救隊が出動して、被災者への心の支えとなっていると思う。
さて、この能登の災害から、一時言われなかった南海トラフの地震が騒がれるようになり、富士山の噴火までも騒がれるようになって来た。
実際に起きるのかどうかは分からないが、これまでの災害の経験から、備えをして置く事に越したことは無いと思う。
ただし、余りにもそうした事に囚われて、心を落として、悲観するような事は必要ない。
反対に、悲観する自分の心を見つめる必要があると思う。
その理由は、喜べば喜びの理が回ると教えられているように、困った身上や事情も、成ってきたいんねんを悟り、たんのうする事によって、その先が変わると教えられるからである。
仏教でいわれる、因縁は「カルマ」「宿業」として変えることが出来ないと言われている。
こうした教えも成ってくる理を考えると、間違えではない。
前生、前々生に通って来た事柄による「いんねん」。心遣いによる今世の出来事は、必ずある。
けれども、それを大難にしてもらうか、小難にしてもらうかは、親神様の見計い次第で、どのようにでもなるのである。
また、出直す側になるか、生き残り助けられる側になるか、助ける側になるか。
これも、今世それまでに生きて来た心遣いによっても変化して行くのである。
すべては、親神様がどのようにそれぞれの心遣いを受け止められたかによるわけである。
今日、政府が推進してきたワクチンについて、まったく政府の対応がなっていないと、デモをしている動画をみた。
私も多くの人々が苦しんでいる事を見て、またワクチンを接種しなくても良くなる薬を体験して、こうした抗議に賛同する者でもある。
親神様は、医薬も医術も聖人君主を使って教えられた。
しかし、その教えられたことを悪用して、自分達の欲得のために人々を苦しめる者については、断固として認められない。
欲得のために戦争を起こすものについても同じである。
宗教を利用するのも同じである。
人の心が、我が身思案で欲得にまみれて行く事を防ぐために、様々な教えを聖人たちを通して説いて来たのに、それを利用して悪用する者があれば、それも同じなのである。
先日、「教祖が我々の罪を詫びて現身を隠された」というコメントを見た。
まったくもって、何を根拠にそのような事を言うのか!
と思うばかりである。
この考えは、キリスト教でキリストに対して言われる事で、教祖は違う。
扉を開いて世界助けに出られたのである。
世界助けとは、人々の心を切り替えさせること。
身上事情を見せて、不思議を見せて、教えを元に人々が自ら心を切り替えるように進める事である。
そして、教祖のひながたを歩み、神一条の道を歩み、陽気ぐらしへと歩むように導かれる事である。
人間というものは、辛いことや自分の思いと違う事があると、聞いた言葉や見た事柄などを自分の都合の良いように解釈するというものである。
事実を理に照らし合わせて、善悪を判断するのではなく、自分の都合に合わせて理を曲げようとする。不都合な事は伏せて、都合の良い事だけをつなぎ合わせて自分を肯定しようとするものでもある。
こうした状態が進むと、そうした人々の行動や発言は、支離滅裂となってくる。
以前こうした発言をしていたのに、まったく異なる発言を簡単にして、平然としているのである。
そうなると、周囲の人々からは相手にされなくなるのである。
「うそをついたらその者が、ウソになるのがこれが承知か」と言われる言葉が思い浮かぶ。
教祖が歩まれたひながたの中で、「一つ道を変えた」と言われる出来事がある。
それは「かんろだいの石の没収」を契機として、おつとめの地歌を「いちれつすますかんろだい」から「いちれつすましてかんろだい」と変更して、助けの方針を変えられた事である。
これを当時の人々は、「神様の模様替え」と言っていた。
おさしづを見て見ても、「思惑が立たずに一つ道を変えた」という言葉が各所に出てくる。
神は万能、見抜き見通しという言葉からすると、理解に苦しむ人々も多い事だろう。
私も以前はそうだった。
しかし、今回のコロナの騒動や世界の様々な事柄を見た時、見抜き見通しだからこそ、そして親神の子供である人間に心の自由を与えたからこそ、子供の成人に合わせて、無理のないようにと方針を変えられたのだと思うに至ったのである。
さらにはまた、様々なスピリチュアル系の動画を見て、江戸時代末期に天理教が始まった頃、多くの宗教ができた事と同じように感じている。
宇宙人からのメッセージとして伝えるもの。
キリスト教の元の心で伝えるもの。
日本の神道や霊媒師が伝えるもの。
世界の霊媒師が伝えるもの。などなど。。
日本で起きた事が、地球規模で起きて、それがインターネットを通して世界中で見聞きされて、それぞれの心に響くメッセージを取り入れるように導かれているように思う。
先の真柱様が言われた「色鏡といういんねんで見ている」とか「物を色々な角度から見るように」などという言葉が思い出される。
教祖のひながたも、人間個人として見るか、親神様の使いと見るか、はたまた、親神様の視点で見るかによって解釈はどれだけでもできる。
そしてその見方によって、悟り方も多分に出来るのである。
言い換えたならば、子供の視点で見るか、子供を導こうとする親の視点で見るか。
はたまた悪さをする子供の視点、それを怒る親の視点という見方もある。
もっといえば、それらの両者を見る祖父母の視点という見方もある。
また親神様は、月日であり、父母でもある。つまりは、父親の立場、母親の立場もあり、そうした視点もある。
今世界は、これまでウソで隠された事柄を開示して、それぞれの国や人々の元を探ろうとしている。
そのために、歴史の考察の動画が多分にある。
これらは文献や遺物による考察がほとんどで、そうしたものがない時代の考察は出来ない。
天理教の元の理は、知恵文字を仕込まれたそれ以前の話であり、それを仕込むための苦労の話でもある。
しかし、この地球・世界における理については、先に述べたように視点を広くすれば、十柱の神様の働きにつながるのである。
アフリカのコンゴで、天理教が飛躍的に広がっているという話しを聞いた。
大変結構な事だと思う。
幾多の社会的苦労の中を抜けての今日であろう。
戦後の日本での天理教の姿と重なる。
戦時中弾圧をさけるために、戦争の後押しをするひのきしんを信者に求めた歴史。
二代真柱様が、復元を唱えた時の言葉から、その時の苦汁をすごく感じる。
そうした時代を越えて、人々が勇み立つ時代。
そうした時代を超えた今の日本では、これからどうするか。
これがこれからの課題であろう。
すでに物質での幸福感を味わい。
それでは真の陽気ぐらしは出来ない事も分かった現在。
天理教の教えを聞いて、生まれ変わりを重ねた者がいる現在。
次の段階へと思いを致さねばならないだろう。
教祖のひながたを思う時、教祖が「月日の社」となられた条件が気になる。
教祖は「いざなみのみこと」の魂の方であり、幼少の頃から、慈愛が多くあられた。
そして我が身、我が家よりも困った人々への救済の心が多く、世界の自己中心的な事柄については悲観的であられ、尼になる事を希望されるほどだった。
それを両親の声によって、中山家へ嫁ぎ、主人へ家族へそして周囲の人々へと、慈愛の心と行いを行われていたのである。
その一つの行いが「黒疱瘡の子供をたすけた」逸話である。
この後に、「月日の社」なられる。
この事を親神様は、褒めたたえて、後日おさしづによって別席の話に取り入れさせておられる。
すでに天理教の話を前世で聞いて、この教祖のような心で生まれ変わっている人々が世界中にいるのではないかと、様々な情報を発信して行動をしている人々を見て思うのである。
そして、それぞれにいんねんある人々が集っているようにも感じるのである。
話を模様替えに戻す。
こうした教祖に対して、人間宿仕込みの魂のいんねんある人々を、立教後身上や事情で引き寄せられるが、ことごとく親神様の思惑通りの「にんそく社」とはなられずに出直されていく。
そして「魂のいんねん」の無い、本席様を「柱」として、教祖(親神様)が世界助けに出られてから、おさしづによって導かれる事になる。
こうした事も、計画を変更された一因であり、計画後の対処とも思えるが、これらはこうした人々の心の動き、また周囲のドジョウの魂の人間の心の動きを見定めての事と思える。
こうした事や道すじを研究して行けば、欲にきりない泥水に流れず、陽気ぐらしが出来る人間となるための道筋を思案できるのではないかと思うのである。
ご利益信心ではなく、証拠信心という話しがあるが、研究した事を身をもって体験すること。
教祖のひながた、先人のひながたをたどり、身をもって体験する事。
それによって確固となる証拠を固めて行く事。
これが重要であり、それが助かるための話の種。
こうき話となるように思えるのである。
長らくなかった左の耳あたりが痛み出したので、昨日書きかけて止めていたものを書きだした。
思うがままに。大難を小難に、小難を無難にとお守り頂きますように。。念じて。。
気持のよい天気の元、大教会長さんの巡教を受けて、春季大祭をつとめ終えました。
おつとめは、いつもと変わらない人数でしたが、ここ数カ月参拝に来られなかった方が、いつもの如くおつとめ中に参拝に来られました。
今朝書いた祭文も、何だかいつもとちょっと違う視点で書く事が出来て、嬉しく、勇んで勤める事が出来ました。
すべて終えて、ゆっくりと食事をしていると、任命の世話をしている新会長から電話があり、色々と報告を受けました。
祭典前に、大教会長さんからその教会の事について報告があり、新会長がどのように受け取っているだろうか?と心配していましたが、
大教会長さんの計らいにとても喜んでおられて、良かったと安堵しました。
次回大教会長さんにお会いした時に、報告したいと思います。
ふと思うが神心で、我を忘れて動き回って良かったと思うばかりです。
任命のお運びから奉告祭まで、無事に終える事を願っています。
前回、1月1日に投稿してから、能登半島での大地震が起きた。
多くの人が亡くなり、行方不明となられた。
更には、羽田空港での事故、救援に向かうはずの人々が亡くなった。
まことに痛ましく、被害に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げたい。
私の友人たちも被害に遭った。
しかし、皆大難は小難にとお守り頂き、避難生活をしているとのこと。
その連絡をもらった時は、ほっとして親神様にお礼を申した。
そして、知り合いの大教会長さんが、被災した教区長の代理として勤められるとの情報を得て、これまた無事に被災地への支援が出来るようにと心より願った。
命あっての物種。と言われるが本当にそうだと思う。
ただ、命が助かっても、心を落として嘆く人々もある。
この心の持ち方を、親神様は教祖を通して教えられた。
貧のどん底で、明日食べる物が無くても、「水を飲めば水の味がする。世の中には枕元に食べる物を山ほど積んでも、食べるに食べられずに苦しむ人がある。それを思えばわしらは結構や」と。
この逸話は、教祖が狐憑きや狸付きと周囲から言われて、夫様からも刃を向けられて「付き物ならば退け」と責められて、「この身さえ無くなれば、家族が責められる事もない」と井戸や池へ身を投げようとされたひながたの後の話である。
この身を投げようとされた時には、親神様から「短気を出すやない。短気を出すやない」との声が聞こえて、身を投げようとする足が前へ進まず、後戻りだけは出来たとの事である。
どんな中でも親神様が見守って下さり、導いて下さっているというひながたであり、それを越して、困窮して心配する家族を教え導く人になるという順序のひながたとも思える。
また、地震直後からボランティアの人々が現地へ入り、炊き出しをして下さったという情報も目にした。
知り合いの会長で、災害があれば率先してボランティアに出かけて、災救隊・行政以外で活動をしている人があり、被災・救援に対する知識を色々と聞かせてもらったところによると、
行政・自衛隊のみならず、これまでの災害の経験から、行政の足らない所を知り、早急に行動するボランティアの人たちがおられるのである。
そうした人々が、弱った人々の心を助けているという状況を、本当にありがたく思うばかりである。
前回、医療では考えられない不思議な親神様の働きの話を書いたが、今回もちょっと書いておきたい。
1月3日に、新しく教会長になられる方のお運びの願書の世話で、その教会へお邪魔した。
この新しく会長になられる方は、75才を越えた女性の方である。
なかなか後継者が定まらない中、この方が突然原因不明の身上となり、検査入院をされる事となった。
その入院中、諭達を読んでいる時に、これまでの事を振り返り、「教会長にならせて頂く」と心定めたところ、急に元気になり、原因不明のまま退院をして、お運びをする事になったのである。
これに合わせて、息子が追突事故に遭い、車は大破するものの、身は無難に守って頂き、車を保険ですべて買い替えれた事から、お母さんの運転手を務めるとの心定めをしてくれて、今日にいたっている。
年を取っていても、サポートしてくれる方があれば、務められる。
また、そのサポートをしようという人々の心を親神様は嬉しく受け取られて、その真をその人たちへと返して下さるのである。
また別の息子は、仕事の前に教会へ足を運び神様の用事をして、仕事へ出かけている。
これは、誰にどうしろと言われた事ではなく、起きて来た事からそれぞれが悟り定めてのことである。
おさしづに、「いわんいえんの理を聞き分けよ」と説かれている。
言ってやらせても、嫌々やるものもある。喜んでするものもある。
親神様の受け取りは、その行動と心であり、せっかく人を喜ばせる事をしても、嫌々やっていては、帳消しになってしまう可能性が高いのである。
人に頼まれて、人を喜ばせ、自分も喜んだならば、それは十二分の喜びとなるのは間違いないのである。
ところが、頼まれてもなかなかそのようにならない。
そのように思えない。こうした関係が親子の中にも多分にあるのである。
これが、いんねんで引き寄せられている。
だからこそ、いんねんを自覚して「いわんいえんの理を聞き分けよ」と言われるところだと思っている。
蛙の子は、蛙である。
どれだけトンビが鷹を生もうとしても、自分が鷹にならねば鷹を生むことは出来ないのである。
人は鏡と言われるが、自分の子供ほど自分の鏡は無い。
これは、教会などの関係でも同じ事が言える。
においがけ、おたすけに行ったとしても、自分の性分に、いんねんのある人でなければ、においは掛からず、おたすけにもならないのである。
そうして縁づいて出来た教会は、代が重なれば、よりそのいんねんは親子と同じものが現れると考えても良いはずである。
そうしたいんねん切り替えの話を、願書の世話と共にさせて頂く機会を頂いた。
世間での聖人と言われる人々は、個人が山などで修業をして偉くなり、人を助けるようになったと言われる。
そうした中に教祖は、夫婦で人助けをされて、家族で人助けの道を歩まれたのである。
「郷の仙人」という言葉はこうしたところからも言われたのだと思っている。
こうした点をもしっかりと思い返して、自分の役割を見つめ直す事も大切だと思う。
1月7日今日、家族でご本部のおせち会に出させて頂いた。
専門学校とアルバイトでほとんど休みのない3男が、免許を取って半年以上経って、初めて運転しておぢばがえりをした。
ひょんなことから、「高速を運転した事がない」との言葉からそれを知った。
おぢばがえりにはあまり意識が無く、なかなか起きれない3男だったが、「今日は運転してくれるんだろ」と言うと、慌てて起きたのが面白かった。
長男が横に乗って、色々と注意をしてくれて、無事におぢばに着いた。
親神様・教祖・祖霊様に、大難は小難にお導き頂いた事などの御礼を申し上げて、おせち会場へと足を運んだ。
12時20分の時点で、第1、第2食堂はいっぱいなので、テント会場へ廻るようにとアナウンスがあり、テント会場へ向かう。
とても気持ちの良い日差しを受けながら、30分ほど並んで待つ。
お節会場では、昨年とは異なり、おかわり自由でたくさんのお餅をよばれる。
これまでと出汁の味が変わった事が気になり、炊事本部の作る方が変わったのだろうと思った。
出口で神に包んだ生餅を頂いた。
本当に沢山のお餅が、各直属教会から御供されて皆に振舞われる。
どれだけ食べる物があっても、それを喜び、助け合う心がなければ陽気ぐらしは出来ない。
その喜ぶ心を作るためには、辛いと思われる事情がなければ気がつかないのである。
その辛い事情も、大難は小難にしてくれている事は、自分のいんねんを悟らねば分からない事でもある。
ところが、このいんねんが悟れると、喜びが多くなり、尽くすことが嬉しくなるのである。
これが「好循環」と言われるものだと私は思っている。
これらの事が世界中に広まれば、おのずと陽気ぐらしは出来るようになるのだが、人間は生まれ変わりをするたびに、前生の記憶は無くなって、白紙の状態で生まれ出るのである。
この白紙の状態で生まれ出る事を、良く思えるか、悪く思えるかも、それぞれの心にかかっているのであるが、教理を学び、おたすけをさせて頂くと、それがどれだけありがたいかと、今はつくづく思える。
復元33号の「稿本 教祖様御伝」も50頁を超えるあたりまで書き換えが進み、官憲へのご苦労の道中の話となって行くが、それまでの、人が誰も寄り付かず、教祖・親神様へのお礼の気持ちを捧げる人が現れるまでの、25年のひながたが、どれだけ私たち個人の日々の歩みに重要なひながたかと思うばかりである。
思うがままに。。
新年 明けましておめでとうございます。
家族元気に新年を迎え、元旦祭も無事に勤め終える事が出来ました。
自然界の上にも、政治、医療、生活の上にも、様々な事が起きて来ていますが、
いんねんによる大難も小難に、小難も無難に過ごさせてもらえるように、
かしものかりもの、八つのほこり、心通りの守護を心に定めて、
互いに助け合う親神様の理想を目標に、教えを元に日々努めたいと思います。
皆様方のご多幸を、陰ながらお祈りいたします。
本年もよろしくお願い致します。
昨日の話を書いておく。
昨日は2人の方におさづけを取り次がせて頂く事となった。
ひとりは、2カ月ほど前に心臓が止まり、心臓マッサージで心臓は動いたものの、時間がたちすぎて酸素不足から脳死と判断されて、いつどうなるか分からない状況から、意識は戻らずとも不思議と少し反応が出はじめた方。
もう一人は、血液のガンと言われ、一年ほど前に、余命1カ月と診断された方で、抗がん剤を投与するも、こんなに辛いものならば死んでも良いと、自宅療養に代えて、治療を一切やめた方。
この方は、血液内科の医師で、自分がそうした患者さんを見て来た人で、一年前は肝臓などまでも腫れていたものが、今ではそうしたものも感じられず、リンパ節の腫れもずっと小さくなってきているとの事だった。
全く不思議である。
脳死の方の話を聞いてはいたが、所属の会長がおられるため遠回しに心配をして、お願いをしていたところ、今月のはじめに、そのご主人から、私におさづけに行ってもらいたいとの連絡が入って、出かけたのであった。
その時に、案内して下さった息子さんから詳しい話を聞き、不思議な働きを感じて、今回は2回目のおさづけに行かせてもらったのである。
親神様の不思議なお働きを知っている方で、色々とお世話になった方たちではあるが、このような形でおさづけを取り次がせてもらえるとは思っていなかった。
もう一つ書いておく。
これは突然出直された方の事である。
前日まで普通に過ごされていた方、教会の会長さんであるが、その方が翌日の朝には、寝床で出直されていたというのである。
この方と懇意にしていた会長さんが、あんな良い方が突然亡くなるなんて、もう親神様は何を考えているのか分からない。と気落ちして、嘆いておられた。
突然の出直については、私の直近では3人あった。
ひとりは、動脈瘤破裂で、庭いじりをしていた時に倒れられて、ちょうど娘さんがいて救急車で病院に運ばれたが、そのまま出直された方。
ひとりは、一人暮らしをしていて、前日に車で買い物に行ったのであろう、翌朝、隣の方がトランクの開いている車を見つけて、玄関で倒れているのを隣の方が見つけたという方。
ひとりは、二世帯住宅に子供さんと住んでいて、前日には老人会のゲートボールに元気に参加されていたのに、朝息子さんが見たら、居間でコタツに入って亡くなっていたという方。
この三人の方は、うちの教会の信者さんで、その家の事やその方々の考え方も詳しく知っており、このようになって来た経緯や親神様の思いもそれなりに理解できている。
この三軒については、亡くなった方に親神様の思いがとても掛かっていた方もあれば、親親の思いに反対して自分だけの思いを立てて来た方もあり、親神様がそれまでに幾度となく、心を切り替える節を与えられながらも、それに気づかずに通られた事を感じたのを覚えている。
また、突然の出直しによって、その家族の有り様、考え方も良く分かった。
これもそれぞれの家によって、またその家族一人ひとりによって違う事。
またそれを見た縁者もそれぞれによって受け取り方、考え方が様々である事も知った。
問題は、残された生きている人々、それぞれの心である。
生きているから、考えられるのである。
生きているから、その亡くなった方や身上の方だけではなく、周囲の人々の様子で、それぞれが様々な心を使い、様々な学びを得るのである。
先に書いた不思議にも命をつないでもらっている方の場合。
その身上の方を通して、家族の者達が様々な事を体験しているのである。
天理教の中であっても、教会の会長や奥さんとの関係など、様々な問題がある。
かしもの・かりものが真に治まり、いんねんを自覚して、理を立てて通る心が定まっている人ばかりではない。
理を知り、理を立てる事を学ぶ道中の人もある。
これは諭して諭せぬところでもある。
「いわんいえんの理を聞き分け」と言われる言葉がとても重い。
いんねんを自覚して、成ってくることから、次どのようにするかは、それぞれの心なのである。
自分の思いを切り替えて、性分を変えて行動を変える。
または、性分を変えるために行動を変える。
これがその先を変える元なのである。
教祖に親神様が入り込まれて、この教えが始まった。
これは、「宿仕込みの時の子数の年限が経ったならば、元の屋敷に連れ帰り、神として拝をさせよう」との元の道具衆との約束に基づいているのである。
そして、教祖に親神天理王命の神名をつけようとされたが、思惑が立たず、元のぢばに神名を授けて、今日に至る。
「約束の年限」という事から、決まっている刻限がある事が分かる。
これは、おさしづによって導かれている中で、「遅れている」という言葉からも理解できる。
こうした刻限がある事が、理なのである。
その時までに、どれだけの成人が出来るか。という考え方もできるだろう。
教祖が現身を隠される直前。
真柱様方との問答によって、応法の道を許された。
甘露台没収を契機に、地歌を変えられた事と合わせて考えれば、
人間の成人の度合いによって、その先も変ってくることも、理として理解できるのである。
多くの人間がある中に、霊感があり、未知の者と話が出来る人もあり、そうではない人もある。
そうした人々の言葉によって、右往左往する人もある。
この右往左往する人々を考える時、その霊感のある人の言葉しか聞いていない事が良く分かる。
また一つの事柄しか考えられていない事も分かる。
どんな人もあり、どんな者もいるのである。
それら多くの話を聞いて、理を見極める事が重要であろう。
その理とは、すべてはそれぞれの心によって、見せられて、
その見せられたものの中から、自分の心が選び、受け入れて判断しているのである。
つまりは、かしものかりもので言われる「自分の心ひとつ」これが重要である。
そのためには、いんねんというわれる、心の道を知る事である。
心の道を知るために、因縁があるとも思える。
近頃、宇宙人・地球外生命体という話題が公にも言われるようになって来た。
この地球外生命体は、人間とは違うのか?と考え始めている。
どんな姿形をしていても、人間には心がある。
そして思いを言葉にする事が出来る。
これは元の理によれば、知恵文字の仕込みの前にすでにできた事と思われる。
虫鳥畜類と姿を変えて、今の姿となり、水と地を分けて陸地が出来て、知恵と文字を与えての今日を思う時。
今日、すべすべした肌を持つ人間は、親神様の理想の姿になった者と思われる。
ところが、心は神人和楽の陽気ぐらしが出来る心にはまだなっていない。
また生まれ変わり出変わりの話からすれば、魂は様々な動物へも入れ替わり、人間への成人を望めば、その課程を再度繰り替える事も分かる。
すれば、どんな姿かたちをしていても、
自由に考える心を持つ者で、言葉で意思疎通ができる者。
それが人間ではないだろうかと、最近思う。
おもうがままに。。
今日は12月19日、 12日のうちの月次祭は、風邪の症状がひどく休んだが、その後体調も良くなり、無事に部内の月次祭も終えた。
17日頃より急にまた寒くなったが、長野県では雨によって土砂災害が起きたとの事。
また、中国では原因不明の病気が流行り、さらには新種のコロナが流行り出したとの情報が出てきている。
世界中が完成予防の体制を取りつつあるとの事だが、日本では政治家の不祥事が暴露されてそれどころではない。
政治家たちが自分の保身に走っているように思える。
これらは様々なネットの情報を見ていると分かる事だが、ネットを見ずにテレビだけを見ていると、このような事は分からないだろう。
先日CBCの情報番組が主催した講演会の様子が、ユーチューブで少し紹介されて、ワクチンに対して懐疑的な学者と推進派の学者との思考の違いを目にした。
まずは新型コロナ事態を人為的に作られたものと確信する学者は、ワクチンについても懐疑的であった。
ワクチン推進派は、ワクチンありきで物事を考えて、 政治や製薬会社を疑う事も無いようであった。
ワクチンの後遺症で苦しむ方々の情報を集めて、公開しているのがCBCテレビであるが、他のテレビ局ではそうした試みはされていない。
私の周囲に、3回目のワクチン接種をして、全く動けなくなった人がある。
幸にも、その人はその後何も無かったように動けるようになったので良かったが、その事から、「もうワクチンは接種しない」と言われていた。
身近にそうした人があると、不都合が良く分かり、予防接種の意味が根本から曲げられて行われていると思える。
後者の学者の詳細は知らないが、前者の学者は本人が投稿したユーチューブを見ると、研究発表などで相当不当な圧力をかけられて、あくどい裏の事情を知っていた。
人間社会は、信頼関係で成り立ち、物事が発展していくが、その信頼関係を損なう事態である。
信頼関係を失くしてはならないから、「不都合な事実は隠蔽する」という事は、ここまで事柄が大きく、多くの人々に被害が出ている事を見る時、悪を推進する片棒を担いているようなものともいえよう。
「陰謀論」という言葉や、「ファクトチェック」という言葉で、真実を発信する人々の声を封殺する状況も良く分かった。
また、「不都合ウソな事を真実の事実」のようにするために、「ウソを誠のように配信する人々がいる」事も分かった。
こうした事が分かって来て、真実を求めれば求めるほど、分からなくなるのである。
現在の私は、
自分で見た事、体験した事、自分で検証した事、自分で論立てて研究した事。
これらが真実であり、それ以外は保留・真実を見極めるための材料とする事が一番だと思うようになった。
「知らぬが仏」という言葉があるが、知らないがためにのんきに生活が出来たりするのだが、知ってしまってはそうはいかない。
「あの偉い先生が言った事だから」として、自分で検証せずに話をすると、その先生が間違っていれば、間違ったことを伝えて、人の命も危うくさせる事になる。
「鵜呑みがどれだけ怖い世の中になってきているか!」とも思うのである。
今月のうちの月次祭は、風邪の症状が酷くて月次祭の祭典・おつとめには出なかった。
先に述べたように、どんな菌やウィルスがいるか分からず、来て下さっている信者さんには癌の方もあり、うつすリスクを少しでも減らそうと、部屋に籠っていたのである。
症状はインフルエンザや新型コロナと同様で大変息苦しかったが、高熱が出ないためにこうした対処をした。
常備してあるイベルメクチンを2錠飲み、様子を見たところ、飲んだ次の日には痰が出て胸の苦しいのが楽になるのが確認できた。
また、熱も36.9分までしか上がらなかったのである。
これを3日ほど繰り返した。
私は人ごみに入るとのどが痛む。だから、常にのど飴や龍角散を持参して、その都度飲んでいる。
まったくこうした事には無縁で、インフルエンザにも新型コロナにもかかった事がないという人もある。
そうした人に、イベルメクチンの話や、のどが痛む話をしても理解してもらえないのである。
ネット上では、私と同じように喉が痛む人々が多く書き込みをしている。
ワクチンを打った人々がそばに来ると苦しくなるという話しもある。
私はそれと同じなのである。
ワクチン接種をして、後遺症に悩んでいた人におさづけを取り次ぎ、すぐさま体調が良くなったという経験もあり、その前後でその方と接した時の、喉の痛みが違う事からもそのように思っている。
ワクチン接種をして、いらぬ物質が出てきている人といわれているが、体調の変化を考えると正しくと思う。
そして差を私の身体は検知しているようなのである。
だから、正直人ごみには入りたくはない。
このワクチン接種が始まった頃、まだまだ半信半疑であったが、「どうか良い人が助かりますように、その人々の苦しみは私が頂きますから」と願ってある。ので、
用事があれば行かない訳にはいかない。それこそ親神様に凭れて。。である。
更には、親神様に凭れてと思って行動する中に、イベルメクチンという薬に出合い、ウィルスに感染しても、重大な症状にならずに、自己免疫で対応できることを知る事が出来たのである。
私はこれまでも、世界の事情を見ながら、見分ける事、自分で学ぶ事の必要性を書いて来た。
そして、元の理など教理を学びながら、また発信しながら今日まで来た。
そうした中に、最近静かだったスピリチュアル界隈が、突然に「人々が大量に死亡する大異変が起きる」などの情報がまた出だした。
そして「これまの3次元の人間から5次元、9次元の人間へと精神を高めよ。」と言い出している。
以前書いていた、トランプの米軍主導での世界改革の決着はほぼついて、後は戦後の対策、落としどころを見出して民衆をどのように導くかという段階に入っていると思っている。
人間という者は、目の前に不都合な事が起きなければ考えないものである。
そしてその考え方は、それぞれの心、経験によって異なり、原因究明も異なってくるのである。
一番初めにCBCテレビでの討論会の研究者を見れば良く分かるだろう。
その考え方によって、先への対応が変わってくるのである。
これまで同様に、医者や製薬会社のいうがままに歩むか。
それとも、これまでを振り返り、自ら考えて必要な薬や新しい知識を得ようとして歩むか。
という事である。
そしてさらに、親神様の陽気ぐらしへのお導きの中で、今どのような段階にあるのだろうか?
と思えるようにもなって来た。
実は、私が「かしもの・かりもの」を得心した時には、何も怖いものもない心になっていた。
今から25年ほど前、愛知で「愛・地球博」が行われた時である。
「心ひとつが我がの物であるから、心さえしっかりとしていれば」と思い。
自分の体の事は二の次で、走り回っていた。
そうすると、同じ天理教をしていても、「かしもの・かりもの」を得心していない人々が多くいる事を感じるようになって来たのである。
その時は、それだけであったが、それ以後求められるままに様々なおたすけや、教会事情に接しながら、その都度、おぢばへ通い、本を探して親神様の教えを求めてきた。
そして今、復元33号の「稿本 教祖様御伝」の書き換えを進めて、相談する人を与えてもらえるようになった。
今の書き換えの部分は、教祖が貧のどん底を歩まれた教祖伝ではほとんど触れられない25年の道中の部分である。
それを思うと、「教祖が自ら歩まれた道を私たちも歩むはずである」と思えるようになった。
さらには、模様替えの事を踏まえると、親神様は、人の心の成人度合いにそって、道をつけておられるのだと思えるようになったのである。
そしてまた、「これだけスピリチュアルが人気なのに、おぢばは人気が出ないのだろう。おぢばで不思議がたくさん見せて頂けるのに。。」と人気が出ない事が不思議に思えて来た。
けれども、よくよく考えると、親神様が止めておられる可能性が高いとも思えた。
それは
この親神様の教えは、心建て替えの道であり、「これまで10のものならば9つまで教えて来た、既存の教えとは異なり、一人立ちする教え」であり、誠真実・親(夫婦と道具)の教えなのである。
本来ならば、9つまでの事を経験し、得心したもの・またいんねんある者が寄せられるべきところであろう。
教祖が最後のご苦労を下されて、現身を隠されるまでの一年間。
床に伏せられて、扉を閉めて親神様は働かれたと聞くところを思う時、親神様の働き失くしては何もならんと思うと共に、不思議だけを求める人間に合わせたお働きをその時にされたのだと思うに至っているのである。
明治20年の現身を隠されて後は、日本国中に不思議が現れたのである。
その結果が今の神殿・神苑の姿であろう。
その次、本来の心の立て替えにまだ行っていない。その方法を見出していない。
そして、教祖の親心を体現できるまで行っていない。そんな気がするのである。
この教えの元は、両親(両神)ありきの教えである。
この両神は、「いざなぎ・いざなみ」ではなく、「くにとこたち・おもたり」の男神・女神である。
そこへ「くにさづち」ほか7神の道具を寄せて、神としてこの世界の秩序(理)を定めて、陽気ぐらしが出来る人間を作り上げて来たのである。
それがまだまだ途中なのである。親の神の代わりが出来る人間の親になれらねばならないのに、文明が発達したと言いながら、子供はほったらかしで自分の好きな事だけをする親ばかりの世の中である。
愛を説きながら、本当の伴侶とは異なる愛人を作り、愛によって争いごとを起している親もいるのである。
今の、世界のスピリチュアル界隈は、まだこうした親の意識まで行かず、それぞれ個人の心に留まっているように思える。
宇宙を述べる人々の話を聞くと、地球上での事柄が宇宙へと広がっただけの事で、次は宇宙の平和という話しへとなって行く事だろう。
何のために、国や地域で言葉が違っていたのかとずっと疑問に思っていたが、国や地域での安易な情報交換や交流を阻害するために、わざわざ言語を違えて来ていた。と思えるようになった
それなのに、力あるものが他の地域を侵略して行き、せっかくの楽園までもつぶして、今日まで来た。
ところが、この侵略という行為によって、人間は学び、神に願い、新しい文化や思想を発芽して今日まで来たように思える。
さらには、侵略の方法も、武力から、情報を使った精神支配へとも変化しての今日である。
そして精神の苦痛を感じて、男女の区別さえ苦痛に感じる者が現れてきているのが今の状況でもあろう。
すべては、これまでに行ってきた、心通りの相殺の生まれ変わりであり、その生まれ変わりを自覚して、自らで心を変えて未来を変えて行く歩みをせねばいつまでたっても変らないのである。
先に「愛を説きながら、本当の伴侶とは異なる愛人を作り、愛によって争いごとを起している親もいる」と書いたが、その場の争いごとで解決がつけばよいが、悔やみながらも命を落としたらならば、その見返りは必ず次の生きざまに現れる。
自分勝手の愛、それともすべてを含んで見守る愛。
そうした見分けが出来る心にならねばならないだろう。
そして、これを白紙で生まれ変わった子供たちに教え伝えて、切り替えねばならないのだと思うのである。
「急いて急かぬ道」である。
この言葉を旨に歩んでの今日。
今月の月次祭を別室に籠っていたところ、祭文を妻が奏上してくれて、準備片付けは子どもたちがそれぞれの役割に応じてやってくれて、通常通りに終える事が出来たのである。
昨日、信者さん宅に寄ったところ、私の体調を気遣ってくれると共に、「長男が準備をしている姿を見て嬉しかった」と喜んでくれていた。
この時にこんな身上になるのは何か意味があるだろうと思ってはいたが、この言葉を聞いて「なるほど」と得心した。
久々に思うがままに。。。。
このブログに、今が戦争状態であると書いてから2~3年は経っただろうか。
ようやく、日本でもワクチンの事から、政治・医療・医薬・情報・金融などの異常さに気づく人々が増えて来たように思う。
これまで信じて来たことが、ことごとくウソによって固められて、信じ込まされてきた事であったと。
そうした中に、一番の感心ごとは、ワクチン接種をして「自分の体が今後どのようになるのか」と、不安になる方たちが多いのではないかという事である。
新型コロナが蔓延していると不安をあおられて、言われるがままに、それから逃れるためにと接種したもので、これまた不安になっているのである。
天理教を信仰している人々の中にも、多くの人々が接種して、このように思っている人も多いだろう。
常に書いているが、この身体は親神様からのかりものである。
心ひとつでどうにでもなる。
だから、心を親神様の思いに沿うように変えることが重要である。
身体は親神様に任せて、自分の心をどのように働かせるか。
自分の心を働かせて、自分の借りている体をどのように使うか。
これが重要なのである。
青年会が「心を澄ます事からはじめよう」と提唱しているが、これが出来れば、何の不安もない。
ところが、そうはいかない人々が多くて、様々な問題を引き起こしている。
自分の周囲に起こる事は、それぞれの心が成人するための、学びの材料である。
これがいんねんという言葉で表されている。
前生、前々生からの持ち越されたいんねん。
これから先へつながるためのいんねん。
人間は自分の思い通りにならず、苦しみを感じないと、「なぜだろうか」と思案しない。
思い通りになっていると、それが当然で、感謝の心も失われてしまうのである。
思い通りにならなくなった時、その責任を他人に添加して、「あの人のためにこうなった」「あの人がこうしなかったからこうなった」という人々が多い。
天理教を信仰していると自負する人々の中にも、こう成ったのは「本部のせい」「教会のせい」「会長のせい」「親のせい」などと言う人々が結構ある。
これも同じ事である。
「すべては、それぞれの心次第」と教えられているのにである。
自分を正当化するために、教えを曲げて来た人々もある。
政治や周囲の力に負けて、かしものかりものを得心せずに。。
これは親神様からしたら全くのざんねんである。
教祖のひながたから考えたら良く分かるだろう。
人を助けても、いらぬ罪状を掛けられて監獄へとご苦労された事が一番良く分かる事だろう。
そうした中に、「法には逆らえません」と申し出たのが人間であり、その人間の心に合わせて、「あしきをはろうて」と心の悪しきを払う事が先とされた道へと変えておられるのであろう。
歴史の時間軸からすると、「あしきはらい」から「あしきをはろうて」と地歌を変えられた、甘露台の石の没収が行われたのは、教祖の最後のご苦労の前であるが、その時にはすでに、最後のご苦労の時の人々の心も見定めて、模様替えをした後の道を年数を掛けて準備されて、真柱様との問答になってきたように思える。
そしてその後、「真実の道」と「応法の道」の両方でこの世界を導かれてきたように思える。
本席様のおさしづによる導きを考えた時、「悪をはびこらす」という言葉がとても気になる。
おさしづの時代になって、様々な事情が起きる。
多くの人々が、弾圧の中で苦労をされて歩んできた。
その歴史も刻まれている。
その結果も「一代より二代」と示されているように、それぞれの子孫の状態で分かる事だろう。
「教えが神やで」と言われていながら、自ら教えを求めずにいるために、先が分からない人々も多くある事だろう。
「人に分かるように」と言いながら、教えを変えている事もある事に気がつかねばならない。
早く良くなりたい、早く学びたいとして、ポイントだけを教えて欲しいと思う心も、教えを変えている原因とも考えられる。
私自身は疑い深い人間である。
だから、元となる資料に目を通したい。そこから学びたいと思って今日まで来た。
今、「復元33号」を書き換えしながら、ようやくこれが読めるようになったと思うと共に、教祖伝では「貧に落ちきられた」と簡単に話された、教祖の通られた25年の最初のひながたの重要性を感じている。
「やまさかやいばらぐろもがけみちも つるぎのなかも」と、簡単には陽気ぐらしにはなれない事を、おふでさきに記されている事を忘れてはならない。
教祖でさえ50年の道を通られて、その姿は見えなかったのだから、一代で見ようと思う事が大きな間違いの元とも思える。
さらには、おふでさき号外に、
にち/\に心つくしたものだねを
神がたしかにうけとりている (G-1)
しんぢつに神のうけとるものだねわ
いつになりてもくさるめわなし (G-2)
たん/\とこのものだねがはへたなら
これまつだいのこふきなるそや (G-3)
と示されている。
蒔いた物種。これは良い物種もあれば、悪い物種もある。
この事をしっかりと心して、それが生えてくる姿を見極める事。
それをしなければ、「こうき」は分からないのであろう。
「こうき」が分からねば、それを広める事はできずに、陽気ぐらしへの歩みは進められない事となる。
「善悪共に見分けする」というお言葉からもわかるだろう。
親神様の教えを知らない人々は、科学や医学やとして、右往左往するのである。
親神様の教えを知り、教えを求めるならば、心ひとつを問題として、それを乗り越えて行く事が、今の時旬重要な事ではないかとも思える。
何のためにぢばを定めて、動かぬ所へ神名を授けたのか!
それまでの神社仏閣では、功績のあった人間に神名を授けて来たのに。。
と考える事も必要であろう。
おもうがままに。
今日も一日よろしくお願いします。