「風習」というのは、もともと何か意味があったんでしょうけど、だんだん元の意味がわからなくなって、しきたりだけが複雑になったり、大事なことが剥落して、意味が形骸化することも多いような気がします。しきたりや儀式が複雑になるのは、めんどくさいことを専門にして、商売にする人がいるからなのでしょう。
結婚したり子供が生まれたりするのが「おめでたい」と感じたり、人が死んで「悲しい」というのは、ごく普通の気持ちだと思うし、仮にそういう感情がなければ、無理にお祝いしたり、弔ったりする必要もないし。
きのう、去年亡くなった兄の納骨をしました。新しくできた兄の墓についていた家紋が、実家の家紋とは似ても似つかない別のデザインだというのも驚いたけど、不気味だったのは、霊園内に展示されていた数々の「商品見本」。頭部に線香を立てる人形の線香立てとか、火が消えないように、ガラスで覆われている線香立とか、ミニチュア墓とか。ガラスで覆ったら、天に香りが届かないんじゃないか?お墓自体も、違和感を感じるものがあったけど、他人のお墓だから、どーでもいい。
100円ショップで香典袋を買ったら、「御」の字が間違っていました。
もしや異字体かと、調べちゃいました(笑)。
まぁ、こんなことは、みんな、どーでもいいことかもしれません。どーでもいいことだから、だんだんいい加減になって、そのうち廃れていくでしょう。そしたらまた、必要十分なお祝いやお弔いになるのかも。お弔いに関して言うと、死んでから何やっても、亡くなった人には関係ないような気がします。生きている間に丁寧につきあうことの方が大事で、「親孝行、したい時には親はなし」という言葉が身にしみます。
>人には関係ないような気がします。
遺族の心の整理でしょうかね?
宗派によって色々違うようですが、ややこしいところほど現代に合わずに淘汰されそうな気がします。
そんな気がします。
手順が複雑な方が、没頭できて、悲しみを忘れていられるのかも。でも、本来の意味を考えないと、業者のいいなりになってしまうかもしれません。
結婚式は、一時にくらべると、かなりシンプルになってきましたね。
冠婚葬祭業も最近はシンプルを売りにしているようで、
それに乗っかったら、母の葬儀も拍子抜けするぐらい
簡単に終わってしまいましたよ。
父の時は足のしびれに耐えながら何度も長いお経を聞かされたのに、こんなんでいいのかな、と。
自宅と斎場という違いもあるかもしれないですけどね。
うちの兄は「オーストラリアに散骨してくれ」とか
言ってますけど・・・
本人と残された家族両方が納得できる形って
結構難しいね。
兄の葬儀・法事はいちおう仏式でしたが、毎回来るお坊さんも違う人だし、かなりテキトーでした。墓につけた家紋も単純に「間違えた」だけなんですよ(笑)。そういうのを見ていると、自分が死んだ時には、葬式や墓はいらないという気がしてきます。