面白草紙朝倉薫VS安達龍真

夢と現実のはざまで

注射された回数

2008年09月29日 | Weblog
 生涯に注射された回数を覚えている人はあまりいないだろうが、僕はその覚えている中の一人である。言い換えれば注射嫌いで子供の頃から現在に至るまで逃げ回っているからである。これから歯医者にでかけるのであるが、迷っている。痛くても麻酔注射を断るか、それとも治療の痛みに麻酔なしで耐えるか、をである。

 ばかばかしいと思われるだろうが、僕にとって注射は親の仇以上の敵なのだから仕方がない。記憶は定かではないが、最初の注射がよほどひどかったのだろう。先月田舎で、小学校の頃かかっていた医者が、実は偽医者だったと父に聞かされた。昔は代診を見習いの書生にやらせることがあったらしいが、その書生さんがそのまま医者の真似事をしていたというわけだ。

 最初の注射は、その病院の若い看護婦だったような気がする。と、すると、その看護婦も偽者だったのかも知れない。嫌だと暴れる子供のお尻を本気で叩いていたし、腕っ節も強かった。勿論、はるか昔のことだが、のどかな時代だったとつくづく思う。さて、歯医者に出かけよう。

存在その不確かな輪郭

2008年09月29日 | Weblog
 今夜は睡眠を摂ろうと思って眠れた験しがない。書き上げた「幕末エンジェル」の細部が気になって何度も読み返している。戯曲は朗読してみて初めて気付く言い回しの心地よさや気持ち悪さがある。俳優に渡す前に読んでおいたほうが安全である。

 稽古場掃除の合間にやった昨日の読み合わせは、爆笑の連続だった。初めて初稿をワープロ原稿で渡したら、北原嬢に「手書きの原稿より楽です」と喜ばれた。僕の手書きの原稿は確かに初見で読みあわせをするには読み辛すぎるかもしれない。

 それにしても「近江屋」を「おうえや」と読んだり「ちかみや」と読んだり、手書きワープロに拘らず漢字の読み間違いが多かった。どうも、テレビで「おバカタレント」というのが受けているらしく、劇団員が笑いを取る為にワザと読み間違えているようにも思えた。「え」と読むなら「ちか」と読むだろうし、「おう」と読めるなら「え」はないだろう。僕がからかわれたのかも知れない。

 戯曲の登場人物は俳優の肉体を通して初めて確かな輪郭が見える。僕が書きながら朗読しても、そこには生きた登場人物はまだ生まれてこない。書きながら時々ふと、僕は自分の存在すら怪しむことがある。演劇とは、あらゆる存在に対する虚構の挑戦である。

 1953年、1月5日、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」が巴里で初演されてから55年、2時間前後の限られた時間と空間に客を閉じ込めて一方的に共感を求める演劇と言う芸術は、今なおあらゆる存在に対して挑戦を続けている。「思想?科白?考えることなんてないよ、僕らはその存在の意味さえ解っていないんだから。ゴドーが誰かって?知ってたら書いてないよ」と、演出しながら俳優にそう言ったというベケットに励まされて、僕が存在しているのは確かな気がする。