面白草紙朝倉薫VS安達龍真

夢と現実のはざまで

非日常の昼下がり

2008年09月24日 | Weblog
 先月IT関係の会社を辞めて失業手当生活を送っているSくんが遊びに来た。牛乳を差し入れにきていた片山竜太郎と三人で、小春日和の午後、中新の「白蘭」で珈琲を楽しんだ。11月公演の話や片山の10周年公演の話をしていたら、S君が言った。
「そもそも、こんな平日の午後、喫茶店で珈琲を飲みながら非生産的な芝居の話をしていることが、非日常な訳ですよ」
「えっつ?、良くある日常だけど」と、僕。
「先生は何十年もこんな生活でしょうが、多くの労働者は、生産活動に汗水流しているのです。僕も先月までそうでしたから」
「何で辞めたの?」
「働くのが嫌になったんです」
 Sくんの気持ちも解らないではない。今年いっぱいは遊んで暮らすらしいが、また仕事がやりたくなったら働けば良い。別れ際、Sくんにカンパをもらった。失業者にカンパしてもらうなんて、と、思ったが、ありがたく頂戴した。

 日の暮れるのが早くなった。6時前だというのに、薄闇が下りている。庭の芙蓉が紫の花びらを怪しく風になびかせている。日常の中の非日常がここにもある。一眠りして、今夜こそ台本を仕上げる。朝一番にW氏に伝送する予定である。

アルミの弁当箱

2008年09月24日 | Weblog
 僕が小学校に入学した1955年(昭和30年)、九州熊本の田舎では学校給食などまだなかった。脱脂粉乳の支給が始まったのも高学年になってからだった。まだ貧しく、弁当を持ってくることの出来ない子供は昼休みに家まで走って食べに帰った。

 父に買ってもらったアルミの弁当箱に、何故なのか僕はまだ見ぬアメリカを思った。物知りの伯父は「アルミは軍隊を思わせるので好ましくない」などと言っていたが、子供の僕には理解できなかった。ブリキのおもちゃも、僕にはアメリカだった。ピカピカの弁当箱の蓋を開け、母の工夫したおかずを食べるのは至福の時間だった。弁当箱は永遠にピカピカに輝き続けると思った。

 ブリキのおもちゃ同様、アルミの弁当箱がボコボコになるのにそれほど時間はかからなかった。人間は何処までも贅沢だ。あれほど感動した昼食がいつの間にか当然の日課になり、かわり映えのしないおかずにも飽きてきた。アメリカへの無条件の憧れも、やがて愛憎半々となった。

 長じてニューヨークへ旅した僕は、ヘミングウェイと、サリンジャー、そしてブロードウェイ以外の憧れを探して見たが、子供の頃の憧れは何処にもなかった。最近、猛烈に、飢餓感に近いほど、アルミの弁当箱に詰まったおかずに憧れている。  
 勤め人ではないので、作ったら近所の公園にでも出かけて食べるしかない。小春日和の陽差しの中、自分で作った弁当を独り公園で食すのも、物悲しくて好いかも知れない。それには先ず、アルミの弁当箱を購いに行こう!