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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

私の視点 緊急援助隊法改正を急げ

2008-05-14 08:50:12 | Weblog
 ここ10日間でサイクロンと大地震という自然災害が発生、それぞれ万単位の命が奪われている。

 12日に発生した、中国四川大地震では、12,000人以上が死亡、さらに24,000人の命が瓦礫の下に埋もれているのではと言われている。

 私は大規模な災害が国内外で起きると、毎回のように日本政府の救助態勢の遅れを指摘している。それは、直接命に関わることだからだ。

 ミャンマーのサイクロン被害でも、昨日現地から送られてきた報告にあるように、日本政府は「あっち(被災地)見てこっち(欧米諸国の動き)見て」している内に、結局大した活動をしていない。

 同じく四川大地震でも、各国の動きを見ているのであろう。5億円相当の緊急支援は決めたものの、救助活動に関しては、昨夜、「国際緊急援助隊救助チーム」の派遣を決めたに止まっている。

 遅い。はっきり言って今回も対応が遅い。

 地震が発生したのが12日午後2時28分(日本時間午後3時28分)。そして、外務省が検討に入ったのが、その約24時間後だ。

 なぜ、発災直後に検討に入れなかったのであろうか。

 それは、今回の地震情報の分析の甘さにある。それと、どうせ、「大国のメンツ」にこだわる中国が人的支援を受け入れるはずがないという読みがあったに違いない。

 発生直後、広く報道されたのが、地震の規模を示す数値が「マグニチュード(M)7.5」。これは、米地質調査局が発表した推定の数字である。後に、その数値は7.8に訂正された。私が外務省に派遣の検討に入ったか電話を入れたのが12日の夕方であったが、「必要があるの?」という感じの対応であった。

 7.5でも凄いエネルギーだ。13年前に発生した「阪神・淡路大震災」の7.3という数値と比較すれば、その規模の凄さは容易に想像がつくはずだ。だが、その後アジア各地で起きた巨大地震(スマトラ沖地震は9を超えた)の数値が判断を狂わせた。「7.8」という数字が出されても外務省はすぐに対応しなかった。今回も欧米、特に、アメリカの対応を気にしている内に立ち遅れてしまった。続々と現地から入ってくる悲惨な情報に、ようやく重い腰を上げたのだ。

 なぜこのような失態を繰り返すのだろうか。答えは一つ。

 所詮は、危機対応能力が備わっていない外務省の役人が決定権を持ってしまったのが間違いの元だ。彼らの出動要請がないことには、自治省もJICAも、そして、救助隊員を擁する組織も動きが取れないからだ。

 外務省の判断の間違いは、地震の性質の把握欠如にも起因したのではないかと私は疑っている。今回のような地震は、東大地震研が言っているように「内陸の活断層地震としては世界最大級」なのだ。さらに、それが、地表から10キロという浅いところで起きたことに着目するべきであった。

 国際緊急援助隊の救助チームは設立当初、「発災から24時間後の出動」を目標としていた。だが、台湾やトルコ、パキスタンと大地震が毎年のように起きているが、一度として目標を達成できなかった。そこで、今では「被災国からの要請を受けてから24時間後」と目標を変えてしまった。

 当初の目標を達成できなかった理由は様々あるが、大きな要因は、前述したように、外務省が決定権を持ってしまったこと、それに、救助隊が「消防、海保、警察」で混成されていることにある。現在登録されている救助隊員は、都道府県警察の機動隊約440人、自治体消防本部の救助隊600人、海上保安庁特殊救難隊員など約600人、合計約1640名となっている。

 台湾大地震の時などは、混成が災いして「本職」である消防の力が十分に発揮されなかった。何回かの出動で、あまりのやりにくさに、消防の側から声が上がり、合同訓練が行なわれるようになった。

 ネットを見ていたら「あなたも救助隊の一員になってゲームに参加しませんか」と題する「国際緊急援助隊医療チーム派遣シミレーションゲーム」のサイトに行き着いた。

 外務省と国際協力機構(JICA)の協力で作られたものだ。

 外務省さん、このゲイムを一番初めにやらなければならないのは、私たち市民ではないですよ。あなたたちです。

 いずれにしても、こうなったら外務省に緊急援助隊の出動要請権を委ねていてはだめだ。

 国会議員の皆さんにお願いしたい。一刻も早く「国際緊急援助隊の派遣に関する法律」を改正して「発災から24時間以内の出動」ができる体制作りをしてください、と。

 外務省には緊急援助隊の出動の判断を任すのではなく、普段から各国とのパイプを太くしておき、つまらない「国家のメンツ」にこだわらない、こだわらせない関係作りに専念させるべきだ。それがやがて、政治や経済面にも良好な関係を生み出すことにつながることになる。

 

ミャンマーからの現地報告

2008-05-14 00:15:10 | Weblog
 ミャンマーを襲ったサイクロンは、発災から10日経ったが、現地からの情報では、深い傷跡を残したまま、救援の手も届かずに多くの被災者が苦しんでいるという。

 私の元に、昨日まで被災地に入っていた人から連絡が入ったのでご紹介する。

 以下、現地報告。

 今も現地は連日雨が降りますが、6月には雨期に入ります。デング熱、コレラ、マラリアなど感染症の流行とともに、本来なら治るはずの下痢や呼吸器系の病気で弱り、死んでいく子供やお年寄りも、きっとこれから増えます。軍政は「集会」を禁じ、嫌いますから、寺院や学校などに避難してもいわゆる「避難所」にはそう簡単になりません。すぐに追い出されます。だから支援物資の配布も時間がかかります。救援センターなるものがある、と聞いていますが、どの程度の人たちを収容しているのか分かりません。少なくとも、私が見た人たちは壁のない家や、道ばたで暮らしていました。中国の援助で仮設住宅が送られましたが、そこにすむのはごく一部です。

 軍政が、救援物資を中間搾取しているという話も聞きました。政府というか、各地方の軍幹部たちなのでしょうが、援助物資を自分たちのところに集めて搾取して残りを配る、と。だから国際機関の中にはミャンマー政府に援助することに躊躇する団体もでているとか。これははっきりと確認できたわけではありませんが、現地のNGOから聞いた話です。

 また、ミャンマーはそもそも、貧困や格差が見えにくい国です。ジャーナリストを国に入れず、国内ではそういう社会問題の報道はいっさいない。となれば、実際には貧困層がいるのに、見えない。障害者もそうです。そういう見えない存在への援助は、当然後回し・・・というか、支援されません。また、国際社会の目が、南西部のイラワジ・デルタ地帯に集まっていることから、軍政はそこでの援助に集中するでしょう。確かに未曾有の被害ですが、被災者はヤンゴン近郊の工場地帯にもたくさんいます。地方から日雇いの職を求めてきて、掘っ立て小屋のような家で暮らす人たちがたくさんいるからです。

 軍政がなぜ外国人に被災地を見せないのか。一番大きいのは「メンツ」です。外国人に、自分の国の「失態」(それが自然災害であっても、軍政は被害妄想ですから自分たちのせいでこうなっていると言われたくない)をさらすことで、批判されるのはもうこりごりだから、です。民主化問題で、さんざんやられているから。東南アジアの人たちは、交渉や会議や外交など、とにかく「相手の顔をつぶさない」ことをすべてに優先させます。でも、外国人(特に欧米人)は、相手が権力者であれば平気でそれをやります。軍政は、顔をつぶされたくない。自分たちで何とか対応できると言いたい。。。でも、そんなくだらないメンツのために、多くの人が命を落とすのです。この点に私は最も怒りを感じます。そして、そんなくだらないメンツに遠慮して何もできない日本政府にも。

「役者デビュー」への道

2008-05-11 07:31:39 | Weblog
 昨日は、7月に行なわれる「縄文座」の公演の打ち合わせ。(http://www.hitorimatawafutarishibai.com/)

 芝居デビューがいきなり主役。それも、脚本・構成までをも約半分だが任されている。絵コンテと台詞の一部を見せると、演出家から大絶賛。だが、台詞の仕上がりが遅いと、お叱りを受けてしまった。

 集まりの後、演出家から「茶を飲みましょう」と誘いがあり、手伝いに来てくれた、MasaとKeiも同席する。

 この演出家。その正体がいささか不明で、これを機に色々聞いてみた。

 その名を石飛仁。かつて、劇団「青俳」の演出部に所属。蜷川幸雄ら6人と青俳を割って出て「現代人劇場」を結成。激動の60年代後半を同じ釜の飯を食いながら突っ走った。

 7人の若者の激情は70年、核爆発を起こして分裂、石飛氏はその後30年間、週刊誌「女性自身」の売れっ子記者として活躍する傍ら、演劇の世界でも活動を続けた。

 今では“世界の”となった蜷川氏との関わりを含めて熱い青春時代、そして、「花岡事件(戦時中、花岡鉱山で起きた事件。過酷な労働に耐えかねた中国人労工が決起したものの400人以上が殺害された)」との顛末を語る石飛氏に、MasaとKei(二人とも大学生)は眼を輝かして聞いていた。特に、卒業後は演劇の世界に飛び込もうとしているkeiにはかなりの刺激になったようだ。

 その辺りを詳しく書きたいが、それをやっていると、また台本の完成が先延ばしになる。いずれまた機会がある時に、触れさせていただく。

サイクロンの傷痕

2008-05-10 13:12:43 | Weblog
 歯がゆい思いだ。

 ミャンマーを襲ったサイクロンの残した爪痕やそこで苦しむ民衆の姿を新聞、TVでしか知る由はないが、その深刻さは想像に難くない。しかし、我々が感じる歯がゆさは、現地の民衆の苦しみを少しでも和らげようとする支援の手が届かぬことだ。

 軍事政権は、外国の支援をことごとく退けているとの事だ。国連などの国際機関のみならず、欧米諸国も人道支援がミャンマー側から拒否されたと声を荒げている。

 私も国際的な救援活動に関わったことがあるが、支援先が軍事政権だったりすると、支援の方法は限定されてくる。救援物資も民衆の元に届けられる前に、どこかへ消えてしまう危険性も高い。

 同じような場合では、話は古いが、天安門事件の時、「国境なき医師団」が中型輸送機をチャーターして、救援物資だけではなく医療ティームを中国に送り込もうとした。ところが、中国政府は、「余計なお世話」と言わんばかりに、先に北京入りしていた交渉人を冷遇して国外に送り返してしまった。私もジャーナリストとして現地入りして、医療活動の停滞で困窮する市民たちの姿を見ていただけに今回同様歯がゆい思いをした。

 それにしても今回のサイクロンの被害の爪痕は大きい。死者の数もさることながら、これから深刻になるであろう食糧難から来る栄養失調と医療品不足による病気の蔓延は看過するわけにはいかない。

 今現地との連絡を試みている。現地との連絡が取れれば、このブログで状況をお知らせしたいと思っているのでしばらくお待ちいただきたい。

安打製造機になったヒデキ・マツーイ?

2008-05-09 13:38:45 | Weblog
 松井秀喜が現時点でアメリカン・リーグ・トップの打率になっただの、自己最長の17試合連続安打を打っただのと、日本のマスコミは騒がしい。

 あれれ。松井秀喜はいつの間にイチロー並にコツコツと安打を量産していくタイプの選手になったのだ。彼の持ち味は、豪快にスタンドに弾を撃ち込むスラッガーであったはず。そんなセコセコと単打を放つ松井の姿を日本のファンは期待してはいない。

 昨年彼は手術をしたこともあり、シーズンに入る前から彼の活躍を不安視する声もあった。だが、さすが松井、苦難を乗り越えて開幕当初から好調を保ち続けている。

 新監督に評価をされず、最初は7番や8番であった打順も、今は4番。ティームの主砲の役割にある。当然のことながら連日、日本のマスコミは大喜びだ。

 だが、毎度水を差して申し訳ないが、これはティームの苦しい事情から出てきた一時的なものだ。監督は、シーズンを通して松井を4番に据えて置くつもりは毛頭ない。4番を担うのは、あくまで球界を代表するスラッガー、A・ロッドだ。彼が復帰すれば、間違いなく松井は打順を下げられる。

 松井は確かに高い打率を残している。だが、問題はその打ち方と打つタイミングだ。コンパクトに球を捉えるのは良いが、構えが萎縮している。しかも、右肩の開き方が速過ぎる。また、右肩が上がってしまうのも気になる点だ。これでは、ファンが期待するような長打、特に打った瞬間にフェンス越えと分かるホームランは中々打てない。年間30本を打つのも難しいだろう。

 チャンスに打てないのも気になる点だ。これまでのところ、松井は好機にことごとく凡打している。

 英語で、好機に強い打者をクラッチ・ヒターと言う。チャンスに打つから打点も多くなる。松井がこれまでアメリカにおいて期待されたほどホームランが打てなくても高い評価を受けていたのは、打点が多かったからだ。クラッチ・ヒターのひとりに数えられていた。

 今期の松井の成績を見てみると、ホームランが少ないだけでなく、打順と打率を考えたら打点が極端に少ない。これでは中心打者ではなく、2番打者だ。しかし、ヤンキーズには、「プリンス」と称される人気選手ジーターが2番打者として不動の地位を築いている。A・ロッドが復帰して、ジオンビが調子を取り戻せば、松井は再び打順を下げられて6番か7番になるだろう。

 7,8年前に日本で活躍していた頃の松井の打ち方と今のフォームには歴然とした違いがある。あの頃の鋭く振り下ろす打法に立ち返れば、40本50本も夢ではないが、今のような萎縮したフォームを続ける限りは、「良い外国人選手」で終わってしまい、米球界に名を残すことはないだろう。

胡錦濤主席の来日

2008-05-08 08:48:57 | Weblog
 胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席の来日を見ていて、日本の外交の拙さを思う。

 第一、何の為の招待か。国民も恐らく「真意を知らされていない」と納得していないのではないか。

 メディアは相変わらず、パンダがどうの、ガス油田がどうのと、どうでもいいとは言わぬが、事務方レヴェルの話し合いで済む事を大々的に報じている。

 それよりも大事なことは、目に余る中国の軍事強化であり、急成長を続ける中国経済から吐き出されてくる環境汚染だ。チベット問題のような、深~いお話が福田首相に出来るとは思わないから逆にしないでもらいたいが、軍事問題と環境問題は差し迫った課題だ。

 我が国は防衛白書で、中国を仮想敵国としていることを忘れてはならない。それが何を意味することか、また、中国の環境問題が日本に深刻な影響にあることを為政者が何も分からずに外交をしているとしたらこの国の将来はない。

客人

2008-05-06 10:28:20 | Weblog
 ゴールデンウィークの我が家にはふたりの来訪者。

 ひとりは、仙台からの若き友人。もうひとりは、遠く米国ミシガンからの60代の女性、ニコラである。

 ニコラは60年代から70年代にかけて、全米の多くの若者をひきつけたヒッピーの実践者。幾つかの仕事を経験して、今もシカゴの近郊にある自然豊かな場所に住み、10数頭の山羊などの動物に囲まれて、完全な自給自足とはいかないが、それを目指して生活をしている。

 今回は、1ヵ月半の滞在で、自然の石鹸作りから藍染を習いながらヴォランティア活動をしようというもの。

 彼女にとっては初めての日本。一昨日の来日から、とにかくハイテンションで、我が家でも、また外出先でも喋り捲っている。

 我々が話すこと、提供する食べ物、そして、昨日はASEの生徒のダンス発表会(本格的なジャズダンスで、その生徒は昨年、ニューヨークで開かれた世界大会で三位になった)で見た和風にアレンジした踊りと和太鼓などなど、多くのことに素直に驚き、口角泡を飛ばしている。

 特に、巨大地震のこと、またその対応策を話した時は、「(来日前に)誰も話してくれなかった」と目を丸くした。恐らく、観光案内には、地震が起きる可能性はほとんど書かれていないのであろう。

 これから1ヵ月半。彼女は多くのことを経験することになる。彼女の日本を見る目がどう変るか楽しみだ。

映画監督、今泉光司さん

2008-05-04 09:26:45 | Weblog
 昨日は、直子が親しくさせていただいている映画監督、今泉光司さんの家に招いていただいた。

 今泉さんは、死の棘などの作品で知られる小栗康平氏に付いて監督への道を歩んだ。フィリピンに長年住み、フィリピン山岳地帯の日系人家族の物語、『アボン 小さい家』を作り、話題を呼んだ。

 雨の中、私たち2人を上野駅に車で迎えに来てくれた今泉さんはまず、彼の生まれ育った地元浅草を案内してくれた。

 首都圏に住みながら、また東京を仕事の場に長年していながら、行っていない、知らないところは意外に多い。浅草も知っているようで、ほとんど知らないことに気付かされた。いや、案内してもらうと、本当に味わい深い、人間臭さであふれる街だ。

 什器備品の「合羽橋」は知っていたが、仏壇街があることは知らなかった。

 男の欲望が満たされる(と言っても、刹那的だが)吉原にあんなに多くのソープランドがあることも知らなかった。

 ソープランドと言えば、かつてその名称はトルコと言われていたが、「トルコ人留学生が、名称変更に一役買ったんですよ」と説明された。

 ハハ、これは懐かしい話だ。私は鼻をぴくぴくさせた。

 いや、吉原での快楽に溺れた記憶に興奮したわけではない。懐かしい話を聞いたからである。実は、この話にはさらに裏があり、AP通信記者であった私が、それより7,8年前、問題提起をしていたのだ。

 在日トルコ大使館から「トルコ大使館というトルコ風呂があり、間違えてこちらに電話がよくかかってきて迷惑している。この問題を取り上げてくれないか」と電話がかかってきたのだ。

 それを受けた私は、短い記事であったがAP電として世界に配信したのだ。国内外から様々な反応があり、外務省であったか、どの官庁であったか忘れたが、業界に考慮を促すよう要請した。

 ただ、トルコ風呂として定着してしまった名前を変えるには、業界も一筋縄ではいかない。中々名称変更に踏み切れなかった。そこへ、留学生が反対運動を起こし、日本のマスコミに訴えた。

 もはや名称を維持するメリットなしと見たのだろう。あっさりと、ソープランドと改められた。もちろん、中で行なわれていることは、旧態依然とした売春である。ところが、そこには、何のお咎めもなく、名称変更はすんなりと社会的に受け入れられた。

 漫画「あしたのジョー」の舞台となった泪橋周辺にも案内していただいた。漫画では、泪橋の下に丹下段平というジョーのトレイナーがジムを構えていたという設定だ。

 しかし、あたりはコンクリートで覆われ、その面影もない。ただ、交差点やバス停にその名前を残すだけだ。

 泪橋は、思川(おもいがわ)に架かっていた。名前の由来は、南千住にあった刑場(死刑場)に行く道にかかる橋だからという。

 思川だの泪橋。なんとも情緒ある地名だ。その地名を聞くだけでも、その土地に立つ意味がある。

 そこから山谷に向かう。

 私の子供の頃。新聞は、山谷(ドヤ街と言われた)に棲む労務者(これも死語だが、定職を持たぬ日雇い労働者のこと)が暴れ、公的な場所が襲撃されていると頻繁に報じていた。特に、警察署が攻撃の対象であり、「マンモス交番」という言葉は、今でも記憶に深い。

 だが、実態はと言えば、手配師と言われるヤクザがらみの男たちのひどい搾取に怒った労働者たちが、きちんと金を払えと言っていただけの場合が多かったそうだ。また、労務者たちは、手配師と警察がぐるになっていると見られていたようだ。

 そんな山谷や南千住もかつての面影はない。約40年前、上京したばかりの浅井少年が恐る恐る見学したドヤの姿はまるでなかった。目に入ってきたのは、労務者ではなく外国人やフリーターたちに愛用されるようになった簡易宿泊所であり、きれいにコンクリートで市街化された町並みであった。

 墨田川沿いに車が走る。川向こうに、東白髭団地が見えた。川沿いに建ち並ぶこの団地は、実は全体が防火壁になっている。広域火災が懸念される事態には、屋上から滝のように水が流れ、水壁を作る構造になっている。関東大震災を教訓に、延焼防止策として建てられた建物群だ。

 約1時間のドライブを終えて、自宅に招き入れられた私たちの前には、昨夜から準備をされていたという、今泉さん手づくりの昼食が食卓に並べられた。

 さすが8年近く住んでいただけのことはある。彼の作ったフィリピン料理は絶品だ。それに、和食や、もちろん酒も加えられ、我々の胃袋は楽しい会話と共に十二分に満たされた。

 楽しい会話は、今泉さんの「映画監督に至るまでの道程」が中心であった。浅草という下町に育ち、中学校の時から映画監督になる道を、もちろん様々な“寄り道”をしながらも着実に上り詰めていった話を聞くのは楽しい。すっかり、聞き入ってしまった。

 私は酒は飲めないから「飲み役」は直子に任せているが、勧められた酒にも手伝われたのだろう。直子も今泉節に酔った。

 今泉さんのもてなしの一つひとつが、心に染み入った。私の「人名録」に新たな名前が付け加えられた日となった。
 

 

TBSよ、頑張れ!

2008-05-01 23:49:36 | Weblog
 TBSの「NEWS23」で今夜から2夜連続、「もの言えぬ人々」と題して特集を放映している。

 ドキュメンタリー映画「靖国」の上映中止、プリンスホテルによる日教組「集会拒否」、自衛隊宿舎にビラを配って有罪などなど、このところ言論の自由が脅かされる情報が続いている。

 「私たちのまわりに漂う“もの言えぬ空気”、またそうさせている正体が何なのかを探す旅に出ました」

 番組では、そんなもの言えぬ空気の出処がが奈辺にあるのかを探る。

 今夜見た限りでは、中々鋭い切込みをしている。これこそが、かつて民放の雄として存在感をこの世に示していた「報道のTBS」の姿だ。先日は、「“民放の雄”の落陽」などとTBSを揶揄したが、この姿勢が腰砕けにならないでオピニオンリーダーとして復活をして欲しいものだ。期待していますよ、金平さん(報道局長のことです)。