美術館にアートを贈る会

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第7回美術館訪問「京都市美術館」(6/14)のご報告

2014-08-03 17:34:52 | Weblog
第7回美術館訪問「京都市美術館」(要旨ご報告)

(講義室入り口)

日時:2014年6月14日(土)10:30-12:30
会場:京都市美術館 講義室
参加者:13名、理事2名、事務局2名

レクチャー 「近・現代美術の収蔵への取り組み・美術館の現況と今後」
       京都市美術館 学芸課長 尾凬眞人氏


1) 京都市美術館誕生の経緯

美術館の前身としては、もともとは1895年(明治28年)、第四回内国勧業博覧会の美術館として建ったもの。その博覧会が終わるとその美術館が払い下げになり、岡崎町美術館と呼ばれていた。それは、いわゆる見本市といった京都の産業品を販売する、今でいう京都会館のようなものだった。
1909年(明治42年)には、日露戦没記念事業として京都商品陳列所ができ、その後、1911年(明治44年)には京都市の運用になって建替えをすることになり、岡崎町美術館の一部を移転し、現在の京都市美術館の南部分にあたるところに京都市勧業館が出来た。同じような役割をもつ建物が北と南にあったことになる。その二つは、1915年(大正4年)には、大典記念京都美術館、1928年(昭和3年)には大礼記念京都美術工芸館と、記念式典のときだけ名前を変えた。美術館としての重要さを認識し、昭和天皇が誕生された記念として、公営の常設美術館をつくろうという気運が高まり、1932年(昭和7年)にこの二つを解体し、1933年(昭和8年)に昭和大礼記念京都美術館が誕生。それがこの京都市美術館である。

(岡崎の地における博覧会と美術館の年表)

2) 近代と現代をわけるとき

世界的に便宜上、1945年(昭和20年)をもって近代と現代を分けている。
近代美術という名前をつけた初めての美術館は、1951年(昭和26年)に開館した神奈川県立近代美術館である。日本の近代美術はどこから始まるか、という問いに当時副館長だった𡈽方定一は「高橋由一から始まる」と定義づけた。現代という名前をつけた最初の美術館は、1964年(昭和39年)開館の長岡現代美術館(1979年(昭和54年)に閉館)である。
その後、1957年(昭和32年)に、京都市美術館は美術品購入基本方針を見直し、京都ゆかりの作家という枠を初めて設定した。それは今も変わっていない。京都ゆかりという縛りはあるが京都のアートシーンに関わっているものであれば、という幅はある。

3) 市展と京展

戦前は「市展」、そして戦後は「京展」という名の全国公募展を開催している。これは問題意識をもっている若い作家の作品を発掘できる機会でもある。
京展賞の次が市長賞。その市長賞の作品をコレクションとして買い上げている。それはなぜかと言うと、いまの若い人たちがなぜ描くのか、その問題意識が現れている、次の時代を考えられる作品を収蔵している。
新人の登竜門でもあるが、京都の祭典として都の春を彩るものともなっている。当時の賞金は、紫章は300円、紅賞は200円、緑章は100円。
第1回の京展では、紫賞は清水正太郎さんの焼き物。紅賞が小合友之助さんの染織、堂本五三郎さんの漆に与えられ、工芸が強かった。

4) 美術の樹

地域地域には美術の樹がある。ある程度の基本的な流れがそこには現れ、それを美術館の収蔵品の中にどう確立していくかが大事である。
京都の場合の美術の樹は、三本の軸がある。画壇・画塾。それから京都美術学校、そして高島屋や地總といった町の地場産業。
たとえば、画塾の中で女流作家の流れから一人の作家が発掘されてきたりする。
美術の樹はシステム化されるものではなく、どんどん枝葉が加わっていくものである。美術の樹をつくることによって、何が足らないか、何を補うべきかが見えて来る。


5) いまと今後

1968年(昭和43年)にモノ派が誕生。これは、モノの属性、たとえば、ガラスは割れる、石は重い、だからガラスの上に石を落とすとガラスは割れる、この二つの物質の異なる属性を合わせることによってお互いの属性がリアリティあるものとして認識されること。
なぜモノなのか。戦後が終わって生まれたのが反芸術。「芸術とは決して美しいものではない。真善美とか、バラの花が美しいとか、女性の身体が美しいとか、人間の心が美しいとか、そんなことを語るのが美術ではない。東野芳明が「これらを美術だと疑うだろう。安心してよろしい。これは反芸術なのだから」という言葉から,人間中心ではない物質中心の考え方に変貌した結果,「モノ派」などの戦後美術が誕生してきた。
池袋界隈に住みついた「池袋モンパルナス」の作家たちは,戦中から敗戦の近代終章にかけて,身体の崩壊や,身体の否調和,さらにはオキュパイドジャパンの社会状況を描くことで,近代美術の終焉を見届けた作家たちである。
彼らの存在は,近代美術と現代美術の間に,こうした戦後美術の存在を設定しなければならないだろう。
現代美術に否定された私たちの「身体」や「肉体」は,その後どのような形で美術の中で表現されてきたのだろうか。
否定されても私たちは身体をもっていることに気が付いた若き女性たちによって、1986 年(昭和61 年)には「超少女」が誕生。物質中心の世の中であっても私たちの身体はある。そこで、身体の一部を型取りしたり,肉体の不在を表現する作品が生まれた。そして今日のネオテニー(幼形成熟)現象がみられる所謂現代美術も,これらの延長であると考えられる。美術はどこでつながるのかを見極めるのがおもしろう。
時代によってものの価値観は変わる。美術史が終焉しないように、作家が
停滞しないように,学芸員はつなげる美術史を考えている。これから先どうなるのか、は推定にしかすぎない。10 年後20 年後には見直しが必要で、その繰り返しである。推定・推測が美術の底辺を高める。

(まとめ)
レクチャーが終わると、参加者からは、収集方針や京都の美術館の役割分担、さらには展覧会予算や友の会組織についてなど、美術館にアートを贈る会ならではの突っ込んだ質問が数多く出され、それに対して尾凬さんは丁寧に答えてくださいました。私どもの活動にとってたいへん意義深いレクチャーをありがとうございました。

美術の樹という時代の流れを踏まえつつ、今を捉える強さと何十年という先を見る眼の確かさがコレクションには重要であると学びました。

尾凬眞人氏が監修・編集されたご本「池袋モンパルナス叢書9―培風寮 花岡謙二と靉光」を参加者全員に頂戴しました。10年前から作られて今年でシリーズ10を発行して完成とのこと。ありがとうございます。