源氏物語を少なくとも断片的に読んだということでいえば、中学生のころだったはずだが、当時それがものすごくおもしろかったかというと、微妙。
←だって光源氏がかっこよく見えないんだものもちろん、読んだのは現代語訳(たぶん円地文子訳)。
それでも、最後まで一気に読んだわけではないと記憶している。
「源氏物語」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、
はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人も交じらず、几帳の内にうち伏して、引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ…
ってソレ、本体じゃなくて読者コメントじゃん!!(笑)
でも私にとっては、そんな昔に、現代の私たちと変わらず、小説に没頭する少女がいたということのほうが強く印象に残ったのだ。更級日記という「鏡」によって、源氏物語という小説が魅力的だったことを感じた、というか…
現代語に訳されていれば、ふつうに「意味」は通じるわけだけど、実際「意味するところ」はピンと来てなかったということかもしれない。光源氏という人のポジションとか、手紙のやりとりとか、衣装や小物とか、あるいは男女の関係とか、すべてのことがもつ在り方、意味合いが変わっているわけだから、まぁそのままでは何がいいのかわからんというのも当たり前かと。
特に、光源氏という人物はどうも像を結ばないというか、ただ女とみればあっちもこっちも口説いてるヤツとしか…。特に、幼女を拉致してきて自分好みに育てるとか気持ち悪い。
たぶん高校生くらいになって、今度は田辺聖子訳で読んだのだけど、これは前のときよりはるかにおもしろくなった。
理由は二つあって、一つは、田辺訳がいわゆるただ忠実な「訳」ということでなしに、行間を補ったり、現代にアピールしないところをはしょったり、いろいろかなり自由にリライトして、文意そのものというより内容を翻訳(超訳)してくれたということ。
もう一つは、田辺聖子訳が、訳本単独で存在するのではなくて、田辺聖子が源氏の魅力をどう感じているかというエッセイ本(「源氏紙風船」)も併せて出版されていたということ。
「はしるはしる」ではないけれど、田辺聖子の視点を通して、そんなにも魅力ある小説ということが感じられて、だから訳本もよりおもしろく読める。実は、田辺聖子訳源氏物語より、源氏紙風船のほうが私の愛読書だったんだけれど。つまり、源氏酔いの人を鏡として元小説の魅力を知るという構造が必要だったのは同じ。
(誰も待ってないと思うが、つづく。)
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読むほうからすると脈絡なさすぎとは思うんだけど、まぁ自分の興味に従ってなんでも書くのを信条としております。