弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

贖罪/罰

2016-11-19 13:57:50 | 思考
父の死に際に立ち会えなかったこと。
親友の自殺を止められなかったこと。

この二つの「罪」がボディーブローのように効いている。

だが、この「罪」とは私自身が感じられる私だけのものだ。
そして、その罰とは故人が望むにせよ望まないにせよ、一体、どのようなものであるべきで、いつ終わるのか。
忘却、それ自体が罪だと感じられるのに、忘却でしか消えてくれない。。。

そして、罪を贖う手段がない。
罰を与えるべき故人はもう存在しないのだから、彼らに償う手段を持たない。

ならば、死の時点、或いは仮に存命中だった場合の意志の推定をするしかない。

遺言などなかったが、父は、私が精神的に苦しむことなど望まず、ただ自立することを望んでいただろう。
だが、親友の場合はよく分からない。

・・・デイケアで、メンタル的に不安定な同士が緊密に結びつくとあまり良いことにはならない。
だから、こちらの行為で彼が怒ったこともあれば、彼の対応で酷く傷ついたことも多い。
最終的に、彼が思いつめてしまったのは、自分のSNS上でのコミュニケーションの問題によるかもしれなくて、ただ、それを知る手段はない。
彼は一回目の自殺未遂のあと、私が何回も心配して連絡したことに感謝していたが、その後もいたずらに延命させてしまっただけかもしれない。

最後の致命的なやり取りのまずさが原因だったとしても、彼が私のことを恨んでいたかも分からないし、裏切られたと思っていたかもしれないし、(私は私で彼に裏切られたと思っていたのだが・・)、それでも長年の付き合いから少しは感謝の想いも抱いていたかもしれない。
そして、彼が、死の時点で何を思ったかもわからないし、存命していても私が罰(精神的苦痛)で苦しむことを望んだかも分からない。

よく、身近な人が自殺し、自殺防止のために活動をする。そんな美談めいた話は沢山ある。
だが、それが贖罪のつもりでも、全く罪は消えない。
もし、故人が、
自分と同じような人の障害・病・自殺を援助・阻止して欲しい。
という言説を生前に明示ししていたか、遺書にあったかすれば、話は別だが、「個人の意志の推測」→遺志を継ぐ。
というのを本質的にやれるなんてケースは滅多にない。自分でも、彼のような存在を作らないために自殺防止の活動を、とこじつけのようにそう思ったことはあったが、結局、ほとんどが自己満足だ。
勝手にカタルシスを得ようとしているだけで、ともすればその人自身の死を「利用」しているだけだ。
基本的に天国から見てるだとか、そんな類のものも信じないのだから。


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