弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

look down and look up-今改めて-CLANAADの先に見えるもの

2018-12-06 01:08:12 | 思考
プライムビデオで昔ゲームでやったクラナドのアニメを観ていた。

巷で言うようにこのアニメが人生とは思わない。

だが、そのゲームを貸してくれた友人と語り合ったことは覚えていて、先ほどの日記を再考してみた。

これは子どもが大人になり大人が子どもをもうけていく普通の物語だ。

そう。普通の。
青春し、恋愛をし、仕事を始め、その過程で苦労成長し、一人前に社会の一員となっていき、子どもを育てていく苦労をして・・という・・

ゲームをやったその当時は一種の憧れのようなものもあった。こういう人生でいいんだ、と。
だが、今は違った心境だ。

いや、違ったというか単純に分からなくなってしまったのだ。単純に朝通勤ラッシュのなか出勤をして、仕事の苦労にもま
れ責任を背負い、、くたくたになって、混んでいる電車で帰り、帰ったら(いたら)家族にも笑顔を向けて。そんな生活が。
それでも、「その人のためになら」と思える相手がいたなら、と考えて自分を殺す自分が今の心境だと想定出来ない。

それはもはや憧れというより、誰かのためにという呪いでしかない。
それは確かに恋愛ゲーム(アニメ)だから、そういう人がいたなら、という願望は狙い打ちにするだろう。

だが、現実にはそうまで思える相手がいない。そう考えたのは3年くらい前。
今はいるいないの話ではなく、単純にそうできない。
そこまで愛せる人がいない、というよりそこまで自分を殺せない。

殺す殺さないで言ったら、そういう普通に憧れを抱いた自分をようやく殺すことができた。
それが電気痙攣療法だったり、その後の試行錯誤の賜物。

繰り返すが分からない。どうしてそこまで自分を殺して、何を得て、何を守りたいのかが。

だから、やはり、私は世間一般的な大体の人を見下しかつ尊敬する。

まあ、だが、こういうお伽噺も、社会一般的な働き方を出来るという自分の中でのお伽噺も、もはや縁のないものだ。

因みに、学者になりたいから、学者は世間一般の働き方をしないから、こんなことを書いている、というのでは決してない。そういう文脈で見下し尊敬するというのでなくて、そういう生き方が自分には出来ない、それだけだ。

だが、もうそういう類いの疑問に煩わされる必要もない。
それはそれで寂しいことなのだが。


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