弛まぬ空

酷く個人的かつ内面的な日記

too weak to liveー誰かのためにという呪縛

2018-12-06 23:00:16 | メンタル
昨日は何故かハイテンションになり日記もかなりアレだったが、今日は天候と気温のせいもありかなり低出力。

まあ、あんな心境が2日と続いた日などほとんどない。要は何につけ弱すぎる。
心身のことだけではない。根本的なところで。
強いて言うなら、意志が、だろう。

自殺念慮が起こらない日など程度の差はあれ、ほとんどない。ふとした瞬間に、
何で今死なないのだろうか
という疑問-呪縛に襲われる。

昨日書いたことに嘘はない。自分を殺してまで、一般的な社会生活は送れない。
そういう意味で、我が強い。
だが、その対極として、あまりに個として弱い。

学者を目指すというのも現状出来る唯一の強がりだし、学問としてもうほかに選ぶものもないだろう。
それなりに、研究・勉強意欲もある。
だが、それでも、研究を続けて、生きながらえていくことは誰のためになるのだろう。
何のために、なら、苦し紛れにでも学問の発展-強いては人類のためにということは言えるし、それは間違ってもいない。

だが、誰のためにー具体的な他者というのが見えてこない。それが見えてこないと、努力が持続できない。

母親とは雨降って地が固まったし、大学院行きも否定されていない。だが、親孝行のために研究で生計を立てていくという実感はない。
亡き父だとか亡き親友のためという訳でもない。死者には祈らない。
では、現在の友人たちのためか。彼らは私が学問で大成すれば喜んではくれ、そのことは私にとっても嬉しいが、ただそれだけだ。彼らのために研究の道を選ぶわけでもない。そして、彼らは彼らで自分のパートナーを見つけ家庭を持っていく。

そう考えていくと、やっぱり、誰かのため、という候補は自分のパートナーや子どもしか有り得ない。

だが、それは私は頑張るために誰かを探しているのか、という逆説めいた話になる。
要は頑張らなくてもいい、というのが有り得るはずなのに、どうしてもそこに行き着かない。
では、頑張り「たく」て、そのための誰かという誰かを手段として利用するという話になるのか。

・・・そこには、やはり、頑張る「べき」と頑張り「たい」の混同が見られる。

まあ、天才でもないので、頑張らなくては道は開けてこないというのは現実的な問題としてあるが、では道を開いていき「たい」のか?たまに自殺念慮に襲われるのに??

ましてや、その誰か、というのが現実に見つからないという諦めもあるのに??

結局、袋小路で。ただ言えることは、ただ楽して生きたいとは思わない真正の不真面目な人間ではないということだけ。

ガタガタ述べてきたが、支えられ支える関係性がパートナーというレベルで欲しいのだろう。
それは恥ずべきことでもない。
だが、その誰かが現実に存在して、更に邂逅を果たせるかと言うとそれはかなり疑わしいのだろう。

まあ、あまり入学前に煮詰まる必要もない。
とりあえず、新しい環境に飛び込めば、その「誰か」というのももう少しははっきりするかもしれない。
それまでは負担をかけないしかない。頑張れる時にだけ頑張ろう・・・



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