観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

料理の面白さ

2009-02-05 22:50:32 | コラム
 久しぶりに料理をし、得意のビーフシチューを作りました。正式なレシピは昔覚えましたが、作るときどきで材料を替えたりしているので、行き当たりばったりの適当です。インスタントのルウを使わないと言えば本格的に聞こえるでしょうが、それほど難しいものではありません。肉と小麦粉、バターを炒めるときに、どのくらい我慢できるかが勝負でしょう。かなり時間をかけないと、粉っぽくなって美味しくありません。でも、火加減やらを上手くやらないと、焦げ臭くなってしまいます。そこだけ注意すれば、失敗することはないと思います。今回は3時間ほど煮込んだので、味も馴染んで美味でした。オーストラリア産の牛肉で安価な物ながら、箸で切れるほど柔らかくなりました。
 私のビーフシチューは、油とバターを、本来のレシピよりかなり少なくしています。これは高価な物をあまり使わないようにしているのと、健康のために油脂を減らしているためです。正直言えば、これらを制限しながら、よい味を出すのはかなり難しい。しかし、あの手この手を使いながら、味を組み立てていくのが醍醐味と言えましょう。ただケチなだけという気もしますが、自らに課した禁じ手を避けながら、納得できる味を求めるというのが楽しいのかも知れません。レシピ通りに作るのでは面白くないのです。
 バターや油に限らず、小麦粉の量から何から何まで目分量で作っても、失敗したことはほとんどありません。神経質になっているわけではないですが、何が入っているのかわからない市販のルウは使う気にならないだけです。一種の才能かとうぬぼれています。昔は夕食の買い物から調理までやっていました。家事を手伝っているつもりでした。しかし、主婦を台所から追い出している、DVだと糾弾されてからは、まったくやっていません。おかげで、たまに作ると新鮮で楽しいです。本当はアルコールを摂取しながら作ると特に楽しいのですが、アル中だと役所に直訴された過去があるので、それもできません。
 思えば禁じ手ばかりの生活です。この禁じ手をはぐらかしながら生きていくことは、できないのかもしれません。この半年の間にわかってきました。料理と違って、禁じ手ばかりの生活は全く面白くありません。

節分の思い出

2009-02-05 00:02:50 | コラム
 かなり昔、三月に入っていたように思いますが、奈良の當麻を訪ねたことがあります。當麻寺拝観のためでした。
 當麻寺は、白鳳時代に創建された古刹で、中将姫にまつわる當麻曼荼羅を祀ることでも有名です。奈良時代の三重塔が東西に二基残っており、素朴で力強い仏像群など、実に見所の多い寺でした。
 最寄りの駅から寺までの道を歩いていくと、どの民家の玄関にも、柊に鰯の頭をつけた節分の魔除けが掛かっているのが目にとまりました。関東ではほとんど見たことのない光景だったので、強く印象に残りました。伝統的な風習が残っているのはいいなあと思いました。節分に鰯という取り合わせがよくわかっていませんでしたが、鬼が鰯の匂いを嫌うことから用いられているようです。最近になって知りました。
 近年、恵方巻きという物が寿司屋やスーパーなどで見受けられますが、関東にはなかった物だと思います。節分に蕎麦というのも、あまり聞きませんでした。節分は大晦日にあたるわけですから、年越し蕎麦だったという理屈は通ります。どちらも、不景気に何とか売り上げを伸ばしたいという商魂が背後にある気がします。
 私が子供の頃、家では毎年豆まきをしました。子供達はそれを楽しみにしていました。母が座敷にまくのは、豆だけでなく、お菓子やミカンでした。中にはくじも入っていて、開けてみると、いろいろな景品が書いてありました。私達は、拾ったお菓子を空き缶などに入れて、何日も楽しみに食べました。そんな豆まきをしている家庭が他にもあったのかどうかわかりませんが、両親は子供達のために年中行事をしっかりとやってくれたのだなあと、今になって感謝しています。家族が家族であった時代でした。

ブックリスト~『漱石 母に愛されなかった子』

2009-02-03 22:01:29 | 読書
『漱石 母に愛されなかった子』 三浦雅士著 岩波新書1129 

 08年4月に出た新書です。
 漱石が国民的な作家であることに異を唱える人はいないでしょう。第一章「坊っちゃん」から第九章、未完の絶筆『明暗』まで、漱石の小説の根底には、母の愛を疑うという思想が一貫しているというのが、著者の見解です。漱石は、両親が高齢になってからの子であり、里子に出されたことなどは有名ですが、それを縦糸に論が進められています。終わりの方になって、分量や時間の制約があったのか、やや展開が粗雑になっているように感じましたが、それまでは、一つ一つの作品を思い出しながら、実に納得しながら読むことができました。作品の中に漱石を読み取り、漱石の履歴から作品を読み解くという、双方向の分析は見事でした。こんな視点で漱石作品を読み解くことができるのだなあと感心しながら、一気に読み終えました。
 私も、ことあるごとに漱石作品を読んできました。おそらく、繰り返し読んだのは『こころ』が一番でしょう。Kの自殺した心境は理解できるとしても、先生が自殺する理由が納得できなかったというのが理由でしょう。納得できなかったというのは、小説がわかりにくいということではなく、こちらの読みが浅くて理解できないのだという思いがあったので、何度も読んだのだと思います。前回読んだときに、自分としてはある種の結論が出たように思いますが、ここでは触れません。本書では『行人』と関連づけながら、言及されていました。夫婦が向かい合うことの難しさを描いた構造は、確かに二作品に共通しており、私がなぜ、『こころ』に惹かれてきたのか、はからずも教えられました。自己の苦悩を重ねて読んでいたのですね。
 著者は、『こころ』を漱石作品を集約する集大成と位置づけていますが、説明されると改めて共感することができました。漱石の作品群を関連づけて論じることは、いろいろ行われていますが、新書ということもあって、非常にわかりやすく述べられている本書は、最適の入門書と言えましょう。スリリングな漱石論としておすすめします。

人によってこそ癒される

2009-02-03 00:53:20 | コラム
 十年以内の話です。敗残兵のように、あらかたの家財を持って実家に帰ったことがありました。
 深夜のガソリンスタンドで給油をしました。あの頃はディーゼルのチェイサーに乗っていたので、軽油を入れたのでしょう。セルフではなかったので店員さんが給油してくれました。中年前の女性でした。
 給油が終わって、車の中の荷物に気づいた彼女は「お引っ越しですか。大変ですね」と笑顔で声をかけてくれました。ただ、それだけのことです。
 私は、そのとき初めて顔をあげ、スタンドの照明の明るさに気づきました。暗かった心に、すーっと明るさが広がって、救われたような気になりました。数日来、他人から、そんなちょっとした気遣いの言葉さえ、かけてもらえない情況だったのです。
 ファーストフードのTVCMで、似たようなものがあったような気がします。深夜なのに開いていた、今日最後の笑顔をありがとうといった感じのハンバーガーのCMだったと思います。大げさだという印象を受ける方がほとんどでしょうが、私は、実際にCM通りの体験をしたことになります。
 ガソリンスタンドやファーストフード店で働くのは、アルバイトの方が多いでしょう。アルバイトや派遣社員の方々が厳しい情況にありますが、そういう方々に申し上げたい。あなた方のちょっとした挨拶や笑顔に、救われている人間がたくさんいるのだということを。私はセルフのスタンドより、店員さんのいるスタンドを利用したいと思います。

地方美術館の楽しみ

2009-02-02 02:18:03 | 旅行
 日曜日の昨日もステップワゴンで高速道を主体に約100キロ走りました。ピークの燃費は、先週とほぼ同じ14.5㎞/㍑でした。もっとも昨日は、週末の夜で、高速道路が渋滞し、一部の区間では止まる寸前までいったり40キロ程度のノロノロ運転が続いたりで、かなりイレギュラーな状態ではあったと思います。人間も含め、荷物はそこそこ積んでいました。
 今回は、関東の某地方都市に用があって出向いたのですが、気になっていた美術展に足を運びました。市が収蔵品を某会館のロビーに展示して、無料で公開するという企画展で、市の出身画家の作品が、各3~4点ほどずつ展示されていました。
 私のお目当ては、高橋常雄氏の作品を見ることにありました。以前、その市にある美術館で回顧展が行われたときに初めて拝見し、思わず図録を買うほど気に入ってしまいました。氏は院展や日展を舞台に活躍された日本画家で、郷土の風景など、多くの大作が並んで壮観でした。60歳という若さで平成の時代を見ずに亡くなっています。今回は4点展示されていましたが、中東あたりの女性を描いた作品は静謐であり妖艶さも漂い、印象に残りました。
 パンフレットによると、高橋氏は福王子法林氏に師事していたようです。私は、福王子氏の作品も好きで、展覧会の図録を持っていました。その師弟関係を初めて知り、改めて画集を広げてみると、お二人の作風には確かに共通点がうかがえます。そんな言葉を使うのもおこがましい、私の審美眼(?)は、無意識のうちにも、その共通点を感じ取り、好きな画家の範疇に振り分けていたのでしょう。好みというのは、意外に確かなものかもしれないと思いました。