目から鱗という話は、以前にもした記憶がありますが、先日、また体験することがありました。
仏教の根本にある思想の1つに、四苦というものがあります。生、病、老、死の4つをさすとされ、ブッダは、それを目にし、そこから離脱することを求めて出家したと言ってもよいでしょう。
このうち、病、老、死が苦しみなのはわかりますが、どうして生が苦なのか、釈然としないものがずっとありました。この「生」は、ブッダの悟りの内容とされる十二因縁の中にも含まれており、そこでも何をさすのか難しいところです。生まれる際の苦しみとされたり、いろいろな説明がなされています。
先日、某教授の公開講演会の中で、輪廻のことが説明されました。私たち日本人の中では、死者はあの世へ行ったことになっており、お盆や墓参りで供養しています。しかし、インドでは違うのです。インドには墓はないようです。生物は輪廻転生しているので、生まれて死んだら、次の生が待っています。カーストにより、ほとんどの人は最下層の生活をしている。貧困の中で食べることにも事欠く生活です。死ぬと言うことは、また苦しみが一から始まることを意味するわけで、絶望であると言えます。しかも、そんな生活ではあっても、人間に生まれたのはまだよい方なのです。来世が動物や虫だったら目も当てられません。
私は、なるほどと思いました。これはインドのことを知っていなければ理解できないことでしょう。私たちとて、生きることは辛いとは思います。でも、私たちの感覚とは根本から違うのです。宗教に限らず、生まれた背景を知ると言うことは大切なのだと今さらながら思いました。
仏教の根本にある思想の1つに、四苦というものがあります。生、病、老、死の4つをさすとされ、ブッダは、それを目にし、そこから離脱することを求めて出家したと言ってもよいでしょう。
このうち、病、老、死が苦しみなのはわかりますが、どうして生が苦なのか、釈然としないものがずっとありました。この「生」は、ブッダの悟りの内容とされる十二因縁の中にも含まれており、そこでも何をさすのか難しいところです。生まれる際の苦しみとされたり、いろいろな説明がなされています。
先日、某教授の公開講演会の中で、輪廻のことが説明されました。私たち日本人の中では、死者はあの世へ行ったことになっており、お盆や墓参りで供養しています。しかし、インドでは違うのです。インドには墓はないようです。生物は輪廻転生しているので、生まれて死んだら、次の生が待っています。カーストにより、ほとんどの人は最下層の生活をしている。貧困の中で食べることにも事欠く生活です。死ぬと言うことは、また苦しみが一から始まることを意味するわけで、絶望であると言えます。しかも、そんな生活ではあっても、人間に生まれたのはまだよい方なのです。来世が動物や虫だったら目も当てられません。
私は、なるほどと思いました。これはインドのことを知っていなければ理解できないことでしょう。私たちとて、生きることは辛いとは思います。でも、私たちの感覚とは根本から違うのです。宗教に限らず、生まれた背景を知ると言うことは大切なのだと今さらながら思いました。
原因が結果を生むのは事を物として捉え法則化した場合, 即ち【己意志】の信仰のある場合に成り立つのであって, 無限の物質が事を確定することはないし, 抑事が何かを知り得ない以上それを再び起こす再現性などあり得ない。
ただ全容を確定するのは是の裏側の【絶対無】である。
即ち法則とは⇒【絶対的意思】の信仰の道具である。
《『私は物質にも, 創造主(神)にも支配されてはいない。私は認識した物を肯定しつつ, 否定的なのであり, さらに言えば私が唯一質(事)を物として捉え造り出せる。だから己が支配を受けていると言う妄想と祈りの信仰よりも, 宗教・思想よりも尊いのは, 生きやすい【考え方】だと知っている。如何なる方法も否定は出来ない。それが生きると言うことなのだ』真・釈迦‐中道説より》