観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

散髪

2009-01-31 00:21:40 | コラム
 散髪はあまりしません。家計を考えて、3~4ヶ月に1回程度でしょうか。思い切り短くして、見苦しくなるまで行かないというわけです。身だしなみを気にかける方ではないので、長くなっても平気です。手入れらしい手入れもせず、整髪も普段はあまりしません(洗髪は毎日しています)。行くお店も毎回同じではなく、数年毎に変えています。最近は2000円でお釣りの来る所へよく行きます。チェーン店で、結構混んでいますね。毎回、違う人が切ってくれるので、同じ店に行っても、毎回、新しい店に行っているのと同じです。馴染みになって、身辺調査のように、いろいろなことを訊かれるのが嫌なのです。
 今日も、いつものように顔を剃ってもらったのですが、他人に肌を触れられる感覚を久しぶりで味わいました。男性の理容師さんでした。別に特別なことをしてもらったわけではなく、顔を剃る過程で、顔や首に相手の手が触れたという程度です。それが、何となく好ましかったというか、何か安心できるような気持ちにさせてくれました。考えてみれば、前回、散髪に行ったとき以来でしょう、顔に触れられたりするのは。やはりスキンシップとは、幾つになっても大切な、人間にとって根源的なものなのかなあと感じました。
 今日は終日雨でしたが、散髪にすっきりしたこともあって、心だけは爽やかな一日でした。ちなみに、髪を切りに理髪店に行くことを、関東では「床屋に行く」と多くは表現すると思いますが、関西では「散髪に行く」と言っていたように思います。

ヨーロッパの気概に学べ

2009-01-29 23:52:09 | コラム
 フランスのサルコジ大統領が18歳の青年に毎日、新聞を配達するという決定をしたそうです。これは、不況の新聞業界を救済することが主眼のようですが、青年を啓蒙する政策としても、なかなか素晴らしいアイデアで、一石二鳥と言えるのではないでしょうか。
 一方、ドイツのワークシェアリングは歴史もあって、うまく機能しているようです。仕事の受注がないときなど、従業員が交代で休む制度ですが、支払われない給与はだいたい国が負担してくれるようで、休みが増えると考えれば、多少の減給は我慢できる範囲のようです。それで会社が倒産を避けられ、また仕事が増えたときのために、企業は人材を確保しておくことができる。こちらも、一石二鳥か三鳥くらいの効果がありそうです。
 ヨーロッパの国々は知恵を絞っているなあと思います。それに比べて、わが国はどうでしょうか。規制緩和政策にそって行われた労働者派遣法改正は、やはり企業にとって都合のよいものでしかなく、国民の多くには搾取をもたらしただけなのではないでしょうか。都合のよい時間にいろいろな仕事を選べるといった、「自由」に代表される美辞麗句で浸透した派遣ですが、個人が短期間働くのであれば確かに便利なものではあるでしょう。しかし、それが社会全体、企業全体に浸透してしまえば、長い目で見ざるをえなくなります。今回のような経済危機は100年に1度なのかもしれませんが、それに遭遇した個人はどうしようもありません。解雇されても何の保障もないことが、昨今明らかになっています。ワーキング・プアやネットカフェ難民などの格差問題が生まれることは明らかだったのに、どうして規制緩和の波を誰も止めることができなかったのでしょうか。
 洋式トイレの普及は急速でした。日常生活の根幹に関わるような様式をあっさりと捨て去った姿は、私には驚異でした。よいものは積極的に取り入れていくという国民性なのかなあとも思いました。しかし、終身雇用、年功序列のような伝統が廃れ、私たちは心身ともに漂流しています。
 アメリカには迎合しない、ヨーロッパのような英知が必要なのではないでしょうか。政治ネタをタブーとしてきたなどと言いながら、また書いてしまいました。

歌舞伎座改築にもの申す

2009-01-29 04:17:22 | コラム
 老朽化にともなう建て替えが話題になっていた歌舞伎座は、かなり近代的な建物に変貌することが明らかになりました。現在の建物は、歌舞伎ファンならずとも、古典的なたたずまいが印象に残る方が多いでしょう。私も数年に一度程度ですが歌舞伎を見に出かけて、思い出深い建物です。場所が場所だけに、土地の有効活用が考慮されるのはしかたがないと思いますが、新しい建物は、玄関部分が現在のデザインを近代化したような、無理に折衷案的な形を取り入れ、後部が高層のオフィスビルになるようです。お世辞にも調和がとれたデザインとは言えないと思います。
 オリジナルのデザインは、もっと現在のテイストを生かしたものだったようです。それが都知事の「銭湯のようだ」という一言で変わったような記事が新聞に出ていました。真偽はわかりませんが、あの方なら言いそうなことだと思います。もし、実際にそうだとしたら、越権行為だと言わざるを得ないでしょう。権力を背景にして、自分の趣味を押しつけるような言い方は許せません。自分は、そう言っただけだと弁明なさるのでしょうが、ご自分の発言の影響力はわかっていらっしゃるはずです。それにして、そうした発言に配慮して、簡単にデザインを変更するような歌舞伎座側も情けない気がします。長いものには巻かれろ的な事なかれ主義なのでしょうか。飛躍を承知で書きますが、こういった権威迎合の姿勢に、軍国主義へ向かう時代と同じ匂いを感じてしまいます。
 政治ネタは自らタブーにしてきたのですが、今日は怒り心頭に発したので、書かずにいられませんでした。それにしても、審美的にどうかという問題は置くとしても、歴史的な建物として、一部だけでも明治村のような所に保存できないでしょうか。名物の一つだった3階の立ち見席はどうなってしまうのでしょうか。今後が気になります。

ステップワゴンの燃費向上について

2009-01-28 00:19:00 | メカ(機械)
 ガソリン価格が上がってきました。近所の安売り店でも、あっという間に100円を超えました。
 愛車ステップワゴンで、週末、100キロ程度の距離を走りました。今回も給油して、すぐのスタートでしたが、リッターあたり14.3キロという、高い数値が出ました。
 今回は、高速道路のアップダウンをよく見ながら走り、一定速度で走ることを心がけながらも、下り坂ではアクセルを緩めて燃費を稼ぐように努めました。前回は、一定速度で走ることに専念した結果、リッターあたり13.3キロ程度が限界でした。そこで、今回は走り方を若干変えたわけですが、それが功を奏したような感じです。
 道路がかなり混んでいたので、ある程度、流れに乗りながら走るのは大変でした。平均すると時速90キロを超える程度のスピードだったと思います。追い越しレーンは当然走らず、二車線ある走行レーンのうち、中央に近い側をひたすら走りました。この程度の速さですと、走行音も静かで、安定した走りです。周りに目をやると、ワゴンの中にはかなり不安定に走っている車も見受けられますが、ステップワゴンでは余裕の走りを実現できました。腰高な感じが、それ程感じられないのが、この車の長所でしょう。
 私の車では、高速道路を走るには、アクセルワークを使ったこの走り方が効果的のようです。気を遣いながら走って、少しくらいの燃費の差なら、あまり気にすることはないと思います。気持ちよく疾走した方が精神的にもよいでしょう。しかし、私の場合は、燃費を見ながら走るのが癖になってしまいました。貧乏くさくて嫌ですが、また記録に挑戦したいとも思っています。
 高速を降りて市街地に入ると、燃費はたちまち降下して12キロ代になってしまいました。この車でリッターあたり10キロ以上が出せるのは高速道路に限られます。

文章の極意はシンプル・イズ・ベスト

2009-01-26 22:17:37 | 読書
ブックリスト~『文章のみがき方』 辰濃和夫  岩波新書1095  2007年10月刊

 天声人語を担当していた筆者の著書では、以前、同じ岩波新書『文章の書き方』を読みましたが、今回の方が具体的で、はるかにわかりやすいと思いました。文章の書き方について、筆者が「名文」と感じる作品をもとに、簡潔に解説する体裁をとっています。
 「現場感覚をきたえる」の章では開高健氏の『輝ける闇』を題材にしています。私もかつて読んだ本ですが、公開死刑の情景は本当にリアルで、血なまぐさい雰囲気が伝わってきて息苦しいほどでした。
 また、「小さな発見を重ねる」では、向田邦子氏が山小屋で見た犬の目について書いたエッセーを紹介しています。肉をねだって必死に訴える目に、自分が真剣に生きているかという疑問を重ねて秀逸です。
 「正確に書く」では、登場人物の心理を○×式で答えるような昨今の試験問題をとりあげ、○×の試験に慣れた子供は、人の心の複雑な思いを一つに絞って、他の感情を切り捨ててしまうのではないかと危惧しています。
 「土地の言葉を大切にする」という章では、東峰夫氏の『オキナワの少年』を例に、青森に住む人が、沖縄の言葉をある程度理解できるようになることが、私たちの文化を豊かにするのではないかと提案されています。私は映画を思い出しました。
 「動詞を中心にすえる」では、現代を名詞の時代ととらえ、多くの新語が生まれ使い捨てられている現状を憂慮しています。動詞は時代が変わっても変わりにくい品詞だそうですが、現代は、例えば「持ち帰る」が「テイクアウト」とカタカナ化され名詞化されています。筆者は、動作をしながら、それについて考えることが重要だと述べていますが、考えてみれば、私たちの思考は動詞によって組み立てられています。動詞が廃れることは、思考が浅くなることを意味するのかもしれません。
 この本で強調されていたことは「抑制して書く」ということではないでしょうか。「単純・簡素に書く」「抑える」「削る」「そっけなさを考える」などの章を読んでも、シンプル・イズ・ベストという思想が読み取れます。最近の私の文章は、自己顕示欲が強くて、シンプルと言えなくなっているように感じ、反省しました。
 最後に。「書きたいことを書く」の章で田口ランディ氏が紹介されていました。氏は、あふれる言葉をインターネット上に書き続け、5万人が読んでくれるようになって作家としてデビューしたそうです。そこまで頑張ってこそ、結果が出るのですね。
 ハウツーものを超えた内容です。文章の読み書きに関心のある方は是非お読みください。

誰が優勝でも構いませんが

2009-01-25 22:49:05 | コラム
 相撲には興味がありません。昔、亡くなった祖母が相撲好きで、よく一緒に見てはいました。祖母は気丈な人でしたが、贔屓の力士への思い入れも強く、負けたときにはテレビに灰皿を投げつけたという逸話の持ち主でした。
 祖母の一番の贔屓は大鵬でした。昭和の大横綱です。いつでも落ち着いた態度や控えめな物腰、端正で気品ある顔立ちは、子供心にも威厳にあふれていたように思います。祖母が特に褒めていたのは、負けた力士が土俵の下に落ちたときや、もんどり打って倒れたときに、自然に手を差し出して助け起こす行為でした。あの時代の横綱は、闘志を表に出したり、勝ったときにも感情を表に出したりすることをしませんでした。むしろ、大鵬のように、敗者に手をさしのべて、相手の健闘をたたえていたように思います。その余裕や優しさこそが横綱の品格だったのです。
 相撲の起源は、神への奉納だと聞いたことがあります。謙虚さや礼儀が重んじられるのは当然でしょう。現代のように他のスポーツと同様なものととらえれば、闘志をむき出しにしたり、相手を威嚇したり挑発したり、勝って力を誇示したりする行為も許されるのでしょうが、昔の横綱を知る私には違和感があります。現代の力士達、特に外国から来た力士達に、そうした日本の伝統文化なのだということが、しっかりと伝授されているのでしょうか。私は、外国人が活躍することはよいことだと思います。ただ、何かと話題の多い相撲界ですが、受け継ぐべきものは、文化としてきちんと継承していってほしいと思います。
 今日の千秋楽、誰が優勝したのでしょうか。それすらも知らない私です。大きなことは言えません。

トホホな話題をひとつ

2009-01-22 21:13:27 | コラム
 客で立て込んだ店での話です。パンとおにぎりを買いました。値段も事前にわかっていたので、小銭を用意して行きました。私は、会計の時に焦るのが嫌で、買い物の時には、必ず代金を用意していきます。ですから、バスを降りるときになって料金箱の前で財布を広げる人や、電車のキップを買うときに自動券売機の前に陣取ってから、おもむろに料金を調べている人を見ると、正直、イライラします。どうして、他人を待たせて平気なのか、私には理解できないところがあります。
 今日の買い物は、パンが120円、おにぎりが100円の計220円のはずでした。代金を渡して、帰ろうとすると、「お客さん、これ50円玉です」と声をかけられました。振り向くと、会計のおばさんは50円玉を返してよこしました。100円玉と取り替えろというようでした。私は50円玉を2枚と100円玉1枚、10円玉2枚を用意していき、それをすべて渡したので、間違いないと思いましたが、生来の気の弱さから、反射的に謝ってしまい、おにぎりをキャンセルしました。するとおばさんは、「それじゃあ、ちょうどですね」と言って、次のお客さんの対応に移ってしまいました。おばさんは50円玉1枚の存在に、最後まで気づいていないようでした。
 あそこで、「50円玉は2枚有ったはずです」と言ったら、今日のお昼はもう少し豪華だったはずです。おばさんは受け取った私からの220円のうち、私に返してよこした50円玉を除いて、すべてジャラジャラと硬貨の入ったエプロンのポケットにしまっていました。したがって、私が払ったお金がいくらだったのか、証明することはできなくなっていたはずです。しかし、客の言うことに刃向かって事態をややこしくするのは得策でないと判断して、自分の非を認め、おにぎりをくれたことでしょう。すべて、真実を主張しなかった私の責任です。
 思えば、間違いを間違いだと主張できず、欲しいものを欲しいと言えないまま生きてきた私の半生を象徴するような出来事でした。いつも、事が円く収まるなら、自分が一歩引いてすませてしまおう、多少嫌な思いをしても我慢しようというやり方でした。結婚も、人から勧められるまま、断ったら高望みだと陰口を言われるだろうと、妥協したものでした。パンやおにぎりなら一時的なことですが、一生の大事まで、こんなふうにすませてしまったツケで、ずっと苦しんでいます。誰が悪いわけでもありません。すべて私が悪いというトホホな話題です。

建て売りですか? マンションですか?

2009-01-20 23:17:48 | コラム
 物事はすべて準備万端整えてから・・・・・・というわけには、なかなかいきませんね。家のときもそうでした。軽い気持ちで見に来たマンションを、買わなければならないような気持ちになり、付近のことやローンの問題など後回しにして契約してしまいました。建築擬装問題が起こる前でした。もっとも、今はまずまず満足していますので、後悔はありませんが。
 以前、持ち家に住んだこともあります。住宅街の建て売りでした。近隣の家の音はよく聞こえましたし、1階は日当たりも悪く、近所づきあいも発生しました。それに比べると、今のマンション暮らしは結構快適です。上の部屋や隣の部屋の物音は慣れれば、それほど気になりません。気密性が高く、冬は朝晩に床暖房を使う程度でストーブはいりません。夏はエアコンでLDKと和室が十分冷房できます。建具等、それほど高級感はありませんが、それでも賃貸の建物とは違うと実感できます。鍵一つで安心して出かけられることもメリットでしょう。間取りや収納もずいぶん工夫されています。デメリットは高層なので風音がすること、窓の結露くらいでしょうか。
 冬には、ほぼ毎日、富士山が見えます。ここを買う動機の一つは、これでした。朝焼けと夕焼けの霊峰が拝めることは、なかなか素晴らしいものです。アップした写真は最近撮った夕焼けです。ルーフバルコニーが希望でしたが、今はなくてよかったと思います。近隣のマンションのルーフバルコニーを見ると、砂だらけになっており、あまり活用されている家を見かけません。
 もう少し歳をとったら、庭いじりやオーディオ三昧のために建て売りもアリかと思いますが、まだマンションライフを楽しみたいと思っています。これから都下でお住まいをお考えの方にはマンションをお勧めします。

ミセレーレ

2009-01-20 00:20:42 | 絵画
 私の好きな画家にジョルジュ・ルオーがいます。ブリヂストン美術館にある「郊外のキリスト」「ピエロ」は素晴らしいですね。
 ルオーの版画で「ミセレーレ」と題された連作があります。58点におよぶ大型の銅版画集で、ラテン語で「憐れみたまえ」という意味のようです。ルオーが生涯をかけて制作・刊行した代表作のひとつです。
 描かれたのは生きることの苦しみや孤独ですが、第一次世界大戦で人間の愚かさや悲劇を目の当たりにしたことから戦争というテーマが加わり、人間の生き様をルオー独自の視線と表現で捉えた一大叙事詩とされています。キリストや聖母の姿からは、慈悲の心や平和への祈りが自ずと伝わってきます。
 黒と白のシンプルな色彩ですが、削りや磨きや削りなどあらゆる技法が駆使され、比類ないほど美しい白と黒のコントラスト、絶妙な諧調を獲得しています。
 試みに、目立つ題名だけを列挙してみましょう。

1  神よ、われを憐れみたまえ、あなたの大いなる慈しみによりて
5  罠と悪意のこの世で、ただひとり
6  われらは苦役囚ではないのか?
7  われら自らを王と思い
9  道の美しい時もある
10 悩みの果てぬ古き場末で
11 明日は晴れるだろう、難破した者はそう言った 
12 生きるとはつらい業
13 でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう
16 上流社会のご婦人は、天国で予約席に着けると信じている
22 世はさまざまなれど、荒地に種まくは美しき仕事
23 ジャン・フランソワは決してハレルヤを歌わない
30 われら、彼の死において洗礼を受けたり
32 御身なり、我は御身を認む
37 人は人にとりて狼なり
39 われわれはみな愚かもの
43 われら死すべきもの、われらもわれらの仲間のすべても
46 正しい人は、白檀の木のごとくおのれを打つ斧に香を移す
56 高慢と無信仰のこの暗き時代に、地の果てより聖母は見守る
57 死に至るまで、そして十字架上の死に至るまで従順なる
58 われらが癒されたるは、彼の受けたる傷によりてなり

 私は32番を持っています。うちひしがれたキリストにそっと手を重ねる従者の姿が気に入りました。人を信じる温かさが伝わってくる作品です。

ブログに求めるもの

2009-01-18 21:04:26 | コラム
 自分の娘の点滴液に異物を混入して殺していたという母親のニュースを見ました。未遂も含めて1度だけではないようです。彼女はブログに娘の死を嘆く文章を書き続けていたそうです。同情してもらいたかったという理由でした。
 背景に深い事情があったかもしれないので、軽率に非難することは避けたいと思います。 私が、このニュースから感じたのは、ブログに何を求めるのかということです。娘の死を嘆いて同情されたとしても、彼女の場合、何が得られたのでしょうか。真に彼女に同情を寄せてくれる人が現れたとしたら、彼女はその同情を裏切り、相手を傷つけることは自明です。それでも、同情を求めたのでしょうか。私には理解できませんが、相手の真心を裏切り、相手を傷つけてまで同情を求めるとしたら、あまりに自己中心的でわがままな発想です。まあ、真相は、アリバイ作りではありませんが、自分に嫌疑がかかることを避ける目的だったのでしょうが。
 もう遠い過去のようになってしまいましたが、秋葉原の通り魔事件でも、犯人はケータイで書き込みをしていまいた。反響がないことに対して、世間は自分を無視したと感じていたようです。一人の人間の小さな記事に、同情や反響が逐次あると考えていたのでしょうか。だとしたら、あまりに幼い発想だと言わざるをえません。自意識過剰という感じでしょうか。本当に苦しんでいる方には酷な話のようですが、現実とはそういうものでしょう。
 私のブログも、なかなか当初の目的が達成されません。だからといって、人を傷つけようとは思いません。これも、文章力がないせいかな? もう少し修行させてもらうことにします。文章力でなく、発想自体が爺くさいと言われたら、それまでですが・・・・・・。

追悼 阪神淡路大震災

2009-01-17 14:33:32 | コラム
 阪神淡路大震災が起こったあの日、朝のニュースで聞いた第一報は、垂れ下がった電線に自転車の女性が触れて感電したというものだったと記憶しています。
 何が起こったのかもわからないまま出勤し、事態の大きさを知ったのは、昼過ぎにテレビで煙の上がる神戸の街が映し出されているのを見たときでした。国内で起こった事件なのに、全容はなかなかつかめず、情報も錯綜しました。あとになって、危機管理の甘さが指摘されましたが、想定外の災害だったと言えるでしょう。
 多くの尊い人命が失われました。子供や老人の区別なく死に追いやられた点は、天災か人災かの違いだけで、戦争に似ています。ガザの空爆では千人以上が犠牲になっているそうです。どちらの情景を思い浮かべても、瓦礫の下で息絶えていった人々が思われて胸が締め付けられます。
 数日前の新聞や今日のTVニュースで、ある家族が取り上げられていました。ご夫婦は震災で二人の子供を亡くされました。震災後生まれたお子さんが、亡くなったお兄さんのランドセルを担いで通学しているということです。受け継がれていくものはランドセルだけでなく、家族の心や愛情だと感じました。
 毎年、TVで映し出される式典には、涙を拭う遺族の姿があります。神戸の街は復興しましたが、愛する家族を失った悲しみは、消えることがないのだと思い知らされます。

身近な自然を見直そう

2009-01-14 15:14:09 | コラム
 私の住む町は、都下でありながら遊水池や二つの川が流れるのどかな風景が残っています。川はそれほど大きくはありませんが、かなり澄んだ清流で、流れも速く、見ていて楽しいものです。
 先日、自転車で久しぶりに川べりの道を走りました。ジョギングしたり散策する方と多く出会いました。洲になった場所では、カモが飛来しており、パンくずなのか、餌をもらって、人の足下まで集まっているのを見ました。サークルを作って観察している人もいるようで、「今日はカルガモが少ない」とか、種類についても複数確認されているようでした。しばらく行くと、大きな鯉が悠然と泳いでいる姿も見られました。
 さらに行くと、中年の女性に声をかけられました。指さす方向には、意外なほど大きく、富士が雪を被った姿を見せていました。
 こうした川を埋め立てる動きがあり、一部では工事が行われています。どうして、このような自然を破壊するのか、せっかくの町の特徴を簡単になくしてしまうのか、行政はなぜ市民の声を聞こうとしないのか、私にはまったく理解できません。こうした小さな自然を守ることすらできない政治に、環境問題の解決など期待できるはずがありません。自然に優しい町が、人にも優しい町なのだということを、もう一度考えて欲しいと思いました。

地域の古老の話を聞く

2009-01-14 00:53:56 | コラム
 私は現在の住所に引っ越してきて4年足らずで、地域のことをほとんど知りません。「多生の縁」を得た者として、機会があればいろいろ知りたいと思っていました。今回、手紙でお誘いをいただいて、地域に長くお暮らしの方が、お話しをなさるという催しがあると知り、参加しました。
 地区の公民館に集まったのは、ご老人が20名ほど。私は一番若かったかもしれません。講演者の方は87歳ということでしたが、かくしゃくとなさっており、2時間ほどのお話も有意義なものでした。私が期待したような地域の歴史といったお話はありませんでしたが、戦前戦後の話題を語れる方は多くないのだと言うことを実感しました。それは、私から見れば、かなり高齢の方が「私どもにはわからない戦前戦中の世相を聞いておきたい」と発言されたことからも強く感じました。
 講演者の方は「田母神氏のような思想で自衛隊のトップが固まっていることが怖い」とおっしゃいましたが、「失政に対して反抗する人が多いことが救いだ」とおっしゃっていました。また、いろいろと批判される現代の若者に対しても「厳しい社会状況の中で生きた勉強をしている」と語って、温かい視線を感じました。
 核家族化の中で、おじいちゃん、おばあちゃんの話を聞く機会がない人がほとんどだと思います。今回、高齢の方から、ご自分の体験談を親しくお話いただいたことは大変有意義でした。多くの地区で、このような催しが開かれ、若い方々も参加されるとよいと感じました。

リニューアル

2009-01-12 22:14:34 | コラム
 正月に帰省した際、実家のパソコンを借りてブログを更新していました。ちょうど1年前の正月に私が選んだ機械で、とにかく安くというスポンサーの依頼で、ディスクトップです。当時は、今話題の小型で安価なノート型パソコンはまだありませんでした。ミドルタワーといったサイズで、CPUにはインテルのCORE2DUOを積んでいました。私の愛機はノートでpentiumMを積んだマシンですが、やはりはるかに速い印象を受けました。CRTにはNECの17インチをチョイスしました。安価でしたので、それほどの解像度でもなかろうと馬鹿にしていましたが、今回、ブログのプロフィールに貼った写真を見て驚きました。私のマシンでは、解像度も落としてありますし、実際によく見えなかったのに、実家のNECのディスプレイでは、写真が非常に鮮明に映っていたのです。不純な動機で作ったブログですので、多少は雰囲気をつかんでもらった方がよいだろうと考えて写真を載せていましたが、こんなにはっきり映るとは思っていませんでした。期待するような反響がないこともわかってきましので、今回、プロフィール写真を変更することにしました。
 この仮面は、7~8年ほど前、上野の国立博物館だったと思いますが、南米の発掘品を展示した展覧会の会場で買ったものです。安価だったこともあり、珍しく、一目で気に入って購入しました。水色に白の水玉と、オレンジ色と黒のアクセントが強烈な仮面です。所々に描かれた深紅の円には、中心に点が描かれており、魂を象徴的に表現したもののような気がします。興味のない方には気味の悪い仮面でしょう。でも、仮面に関心のある方には、なかなか興味深い面だと思います。私自身、仮面が好きで、自ら変人だという自覚がありますので、何となく共通点があるかもしれないと思い、この仮面をプロフィールとしました。ついでなので、仮面と同時に買った素焼きの笛の写真も今回アップしました。こちらは、シンプルで明るい印象です。
 サイトオーナーの写真は小さくて見えないだろうと思うので、残しておくことにします。また、どこかで見てみてマズイと思ったら替えることにします。
 

トイレの貼り紙

2009-01-10 22:56:45 | コラム
 最近は出先でトイレに入ると「いつもきれいにご使用いただいてありがとうございます」といった貼り紙が目立ちます。本当は「きれいにご使用願います」「トイレの美化にご協力ください」と言いたいところなのでしょうが、角が立つ表現を避けて、間接的な言い方にしているわけでしょう。私などに言わせれば、ストレートに利用者に訴えてもまったく不都合はなく、媚びた婉曲な言い方をするよりもかえって気持ちがよいように思います。
 半年ほど前、路線バスに乗っていると、二車線の直線道路で接触事故があったようでした。バスの運転手さんと先方の若者との間で言い争いが始まり、バスは5~10分程止まりました。ドアミラーを擦った程度の接触だったらしく、結局、最後は、バスの運転手さんが謝罪し、若者が罵詈雑言を吐いて終わりました。バスが動き始めると、初老の男性が二人ほど、バスが遅れたのだから事情を説明しろと言って、運転手さんに強い語調で迫りました。私達乗客は、窓から双方のやりとりを見ていましたし、声も聞き取ることができました。何があったのか、一目瞭然です。それなのに、何を今さら説明しろと言うのか、私には真意がわかりませんでした。あとで思えば、あのような人達をクレイマーと言うのでしょう。
 アメリカは、煙草で健康を損ねた人が訴訟を起こせば勝つ国です。自己責任が言われる本家のような国で、奇妙な気がします。グローバル化という言葉で、アメリカ化が進む現在、日本もますますアメリカナイズされているように思いました。それを考えれば、トイレの貼り紙くらいは、日本らしいことなかれ主義だと笑ってすませられる気がします。