観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

海と山

2010-01-08 21:21:54 | 文学
 畏敬する作家、故福永武彦氏は、海と山の違いを『風土』という初期の長編小説の中に描いています。私は、この作品を再読する際、メモをとりながら読んだ覚えがあります。確か、山は人間の孤独に対して相対的であるが、海は絶対の絶望であって、山のように人間に合わせてくれない。波はデカダンス(退廃)であると、主人公に語らせていたと記憶しています。
 私は、去年、尾瀬の燧ケ岳に登りましたが、低い場所ではハイキングのように景色を楽しむことができますし、高くなれば、登りは険しいですが、次々に開けて行く景色には目を奪うものがあります。強風が吹きすさぶ山頂は、厳しい地点ながら、そこでしか見られないパノラマがあり、下りにかかれば安堵の気持ちがこみ上げてきます。そういう意味で、山は人間と相対的であるというのは納得できます。
 一方の海ですが、人類が宇宙へ行く時代になっても、海の神秘はまだまだ解き明かされてはいないといいます。何より、個人で海水浴をしていても、足の立たない場所で泳ぐ不安というのは強くあると思います。私は、小学生の頃、学校で映画を見せられました。そこに映っていた深海の生き物は不気味で、寒気がするようでした。中でも忘れられないのがオキノテヅルモヅルです。細い骨が集まり、それが絡み合いよじれ合うようにして動く姿は異様でした。闇の中で、そんな生物が生きている深海、それはまさに暗く絶望的な世界でした。
 山国で生まれ育った知人は、日常の暮らしの中で山が見えないと寂しいと言います。海で育った人間は、海のない土地は嫌だと言います。それぞれの環境や生い立ちの違いは、お国柄とか性格の形成に関係するものでしょうか。そう考えると、山国の人と海に近い土地の人とは、気質が異なるような気がしないでもありません。ちなみに、私は海の近くで生まれ育ちました。だから、暗いのでしょうか。

ことばのふしぎ2

2009-12-18 21:33:32 | 文学
 前回の続きです。今回も吉田兼好に例をとり、ことばのふしぎというか、面白さを紹介したいと思います。でも、今回はちょっと難しいですよ。説明が下手ですいません。 
 それでは、『徒然草』にある有名ななぞなぞの話をしましょう。昔の人はなぞなぞが好きだったようで、いろいろな作品に出ています。『徒然草』第135段には、二人の貴族がなぞなぞで対決する場面が紹介されています。問題は「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんとう」とは何かというものです。兼好は答えを書いていません。そのために、その後、いろいろな人が謎解きに悩むことになりました。
 解答の1つを紹介しましょう。「馬退きつ」で冒頭は削除します。「りやうきつにのをか」を「中凹(くぼ)れ入り」は、最初の「り」と最後の「か」だけを残し、その中間の7文字「やうきつにのを」を削除する意味ととらえます。「りか」の語を最後に「ぐれんどう」即ち「顛倒(てんとう)」させると、答えは鳥の「雁(かり)」になるというのです(他にもいろいろな説があります)。
 『枕草子』など、古典作品の中には、現代の私たちには理解不能ななぞなぞがまだたくさんあります。興味のある方は千年の謎に挑戦してみてください。


ことばのふしぎ

2009-12-17 21:27:00 | 文学
 犬の鳴き声と言えば、私たちは「わんわん」と表現するのが普通ですが、実は、これは江戸時代から広がった言い方です。それ以前の日本では、犬の鳴き声は「びよ」「びょう」でした。意外な気がしますが、英語やドイツ語でも、犬の声はバ行音で表しており、インターナショナルな表現と言えそうです。同じ国の言葉なのに、意外なほど変化しているのも面白いですが、昔の言い方の方が国際的だったというのも不思議ですね。
 さて、私たちの祖先は言葉に対して素晴らしい感覚を持っていました。そこには機智やしゃれっ気、細やかな気遣いなど、さまざまな要素が含まれています。今回は、吉田兼好を例にお話ししましょう。有名な『徒然草』の作者です。
 まず、兼好が頓阿(とんな)という知人との間に交わした有名な短歌があります。短歌はご存知のように、57577の5句31音からできています。次の兼好の歌で、この5句の初めの音に注目してください。*の付いた1字ずつです。
 *夜もすず#し *ねざめのかり#ほ *手枕(テマクラ)#も *ま袖(ソデ)も秋#に *へだてなきか#ぜ
 つなげてみると「よ→ね→た(て)→ま→へ」、つまり「米をください」という意味が現れます。次に、5句の最後の音を、後ろからつなげてみてください。#を付けた文字です。「ぜ→に→も→ほ→し」となって、「お金もほしい」という意味が読み取れます。言いにくいことを、うまく暗号にして伝えたのですね。
 これに対する頓阿の返事は省略しますが、兼好の歌とまったく同様の形式で「よねはなし、ぜにすこし」と答えています。面白いですね。二人とも、どうしてこんな歌が作れるのか不思議です。(つづく)


書くことの意味

2008-12-05 22:17:31 | 文学
 10年ほど前、松江市で作家の関川夏央氏の講演会を拝聴しました。演題は忘れてしまいましたが、枕の中で、近年の(当時の時点です)若者の小説ブームについて触れられていました。
 近年、文芸雑誌の新人賞などに作品を応募する若者が増えているそうです。それは、文芸誌の売り上げと反比例する奇妙な現象だということでした。氏によれば、他人の小説は読まないが、自分では書いてみたい、読んでもらいたいという自己顕示欲の強い若者が増えているのだそうです。
 そこから、ものを書く行為の意味について話題が発展していったように思います。二人の有名な作家が採り上げられました。一人は石川啄木です。啄木は、俳人として有名ですが、本来は小説家や詩人として名をなしたかったようです。しかし、若い啄木の作品は青臭く平凡でした。それが変化し始めたのは、貧窮にあえぎ、借金を依頼する手紙を書き始めたからでした。つまり、対象と内容がはっきりとしたときに、彼の文章は説得力を増し、磨かれていったのでした。
 もう一人は夏目漱石です。漱石が正岡子規と親友だったのは周知の通りです。英国留学中も、漱石は子規から手紙をもらったそうですが、ほとんど返事を書かず、鏡子夫人からのとりとめのない手紙を幾度も読み返して、力を得ていたようです。留学中に子規は亡くなります。漱石は後悔したそうです。漱石は、夫人からの手紙に助けられたように、なぜ子規を助けられなかったかと自責の念にかられたでしょう。文学の力に思い至り、子規の代わりに大勢の人を救いたい、そう思ったかも知れません。ここで、漱石は文学に開眼したのではないかというのです。
 ブログも、不特定多数が対象ながら、自分を知って欲しい、自分の気持ちを共有したいと思って書くのでしょう。そういう意味では文学の王道を行くものだと思います。たとえ、動機が多少不純だとしてもです。
 関川さんの講演内容は、随分歪曲して書いたかもしれません。ごめんなさい。

 

中原中也の詩

2008-10-10 02:43:57 | 文学
 名俳優、緒方拳氏が亡くなりました。臨終に居合わせた津川雅彦氏の談話などが話題となっています、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
 さて、今朝の新聞で、興味ある記事を目にしました。20数年にわたって緒方氏と絵手紙を交わした方のお話です。交流の発端は、その方の個展を緒方氏が見て、感動されたということのようです。緒方氏がその方宛に書いた絵手紙(実際には文字だけのようです)はシンプルですが、やはり何かを感じさせるものばかりのようでした。
 いくつか写真がある中で、私の目を引いたのは、表装された詩の一節でした。それは「月夜の晩にボタンが一つ 波打ち際に落ちていた」という、中原中也の『月夜の浜辺』の冒頭でした。実は、私もこの詩が大好きなのです。緒方氏自筆の、味のある、何とも魅力的な字体で書かれていました。
 私は中也の詩をほとんど読み、湯田温泉にある生家跡の記念館も訪ねました。私の私見では、中也は傑作の少ない詩人です。代表作も多少ある中で、白眉はやはり『月夜の浜辺』でしょう。浜辺で拾った、うち捨てられたボタンに、孤独で失意の中にある自己の姿を重ねた傑作です。自己憐憫を描きながらも、いやらしさがなく、時代を超えた普遍性を得ている点に感服させられます。この一作だけで、やはり中也は近代詩史に名を残す価値があるだろうと納得させられます。
 緒方拳氏が、この詩に心ひかれていたという事実が、私にはうれしい。絵手紙を年に数回交わす間柄でありながら、お二人は実際に言葉を交わしたことがなかったようです。名俳優でありながらシャイなところは、故渥美清氏を彷彿とさせるものがあります。緒方氏も、ご自分のことを実に謙虚にとらえておいでだったのだなあと思います。そういうお気持ちが、緒方氏を名優に押し上げたのかもしれません。
 緒方拳氏を理解する一助となる、興味深い記事でした。

 

会津先生のこと

2008-07-04 20:40:16 | 文学
 私は、最初の大学で国文学を学びました。それは短歌に惹かれたからです。万葉や古今、新古今など、理屈抜きにいいなあと思っていました。しかし、専攻は和歌を選べず、短歌は趣味の世界となりました。
 私の最も敬愛する歌人は、文句なしに會津八一先生です。歌人にして書家である先生は、私の郷里の偉人であり、高校の先輩でもあります。帰省すると、できるだけ記念館を訪ね、その遺墨に触れるようにしてきました。『南京新唱』『自註鹿鳴集』は文庫になっていると思います。私達の心の故郷である奈良(・京都)へと誘ってくださる偉大なる先達、それが會津先生だと思っています。
 それでは私の好きな御歌をいくつか紹介させていただきます。
 たびびとの めにいたきまで みどりなる ついぢのひまの なばたけのいろ
  (旅人の 目に痛きまで 緑なる 築地の隙の 菜畑の色)(高畑)
 ならざかの いしのほとけの おとがひに こさめながるる はるはきにけり
  (奈良坂の 石の仏の 顎に 小雨流るる 春は来にけり)(般若寺越)
 ふぢはらの おほききさきを うつしみに あひみるごとく あかきくちびる
  (藤原の 大后を 現身に 逢ひ見る如く 紅き唇)(法華寺)
 おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ
  (大寺の 円き柱の 月影を 土に踏みつつ ものをこそ思へ)(唐招提寺)
 すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな
  (水煙の 天つ乙女が 衣手の 隙にも澄める 秋の空かな)(薬師寺東塔)
 あめつちに われひとりゐて たつごとき このさびしさを きみはほほゑむ
  (天地に 我一人いて 立つ如き この淋しさを 君は微笑む)(百済観音)
 きりがないのでこのへんで。會津先生の歌にも書にも、一本しっかりと筋の通ったものがあると思います。それは、私達民族の心の琴線に触れる、懐かしく慕わしい詩情であると感じます。国際化が叫ばれる現代だからこそ、もう一度、しっかりと先生の心を味わいたいと思います。