畏敬する作家、故福永武彦氏は、海と山の違いを『風土』という初期の長編小説の中に描いています。私は、この作品を再読する際、メモをとりながら読んだ覚えがあります。確か、山は人間の孤独に対して相対的であるが、海は絶対の絶望であって、山のように人間に合わせてくれない。波はデカダンス(退廃)であると、主人公に語らせていたと記憶しています。
私は、去年、尾瀬の燧ケ岳に登りましたが、低い場所ではハイキングのように景色を楽しむことができますし、高くなれば、登りは険しいですが、次々に開けて行く景色には目を奪うものがあります。強風が吹きすさぶ山頂は、厳しい地点ながら、そこでしか見られないパノラマがあり、下りにかかれば安堵の気持ちがこみ上げてきます。そういう意味で、山は人間と相対的であるというのは納得できます。
一方の海ですが、人類が宇宙へ行く時代になっても、海の神秘はまだまだ解き明かされてはいないといいます。何より、個人で海水浴をしていても、足の立たない場所で泳ぐ不安というのは強くあると思います。私は、小学生の頃、学校で映画を見せられました。そこに映っていた深海の生き物は不気味で、寒気がするようでした。中でも忘れられないのがオキノテヅルモヅルです。細い骨が集まり、それが絡み合いよじれ合うようにして動く姿は異様でした。闇の中で、そんな生物が生きている深海、それはまさに暗く絶望的な世界でした。
山国で生まれ育った知人は、日常の暮らしの中で山が見えないと寂しいと言います。海で育った人間は、海のない土地は嫌だと言います。それぞれの環境や生い立ちの違いは、お国柄とか性格の形成に関係するものでしょうか。そう考えると、山国の人と海に近い土地の人とは、気質が異なるような気がしないでもありません。ちなみに、私は海の近くで生まれ育ちました。だから、暗いのでしょうか。
私は、去年、尾瀬の燧ケ岳に登りましたが、低い場所ではハイキングのように景色を楽しむことができますし、高くなれば、登りは険しいですが、次々に開けて行く景色には目を奪うものがあります。強風が吹きすさぶ山頂は、厳しい地点ながら、そこでしか見られないパノラマがあり、下りにかかれば安堵の気持ちがこみ上げてきます。そういう意味で、山は人間と相対的であるというのは納得できます。
一方の海ですが、人類が宇宙へ行く時代になっても、海の神秘はまだまだ解き明かされてはいないといいます。何より、個人で海水浴をしていても、足の立たない場所で泳ぐ不安というのは強くあると思います。私は、小学生の頃、学校で映画を見せられました。そこに映っていた深海の生き物は不気味で、寒気がするようでした。中でも忘れられないのがオキノテヅルモヅルです。細い骨が集まり、それが絡み合いよじれ合うようにして動く姿は異様でした。闇の中で、そんな生物が生きている深海、それはまさに暗く絶望的な世界でした。
山国で生まれ育った知人は、日常の暮らしの中で山が見えないと寂しいと言います。海で育った人間は、海のない土地は嫌だと言います。それぞれの環境や生い立ちの違いは、お国柄とか性格の形成に関係するものでしょうか。そう考えると、山国の人と海に近い土地の人とは、気質が異なるような気がしないでもありません。ちなみに、私は海の近くで生まれ育ちました。だから、暗いのでしょうか。