観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

面白おかしくこの世を渡れ

2015-04-30 20:05:13 | 読書
『面白可笑しくこの世を渡れ』 遠藤周作


  「悪戯のすすめ」「運命を知る知恵」「古女房とは女の形をした男」「とてもいい話」「年寄りの昔がたり」の5章から構成されています。

  私が中学校時代に読みふけった「狐狸庵先生」の「ぐうたらシリーズ」から転載されたものが多く、久しぶりに懐かしく読みました。ユーモアとペーソスといいますが、面白くてちょっと哀しい内容は、狐狸庵先生(遠藤周作氏が面白おかしいエッセイを書く際のペンネーム?)の面目躍如というところでしょうか。おどけた内容は若い皆さんが読んでも面白いと思います。

  グッと来たフレーズを紹介します。狐狸庵先生は、老年について次のように述べていました。

  「その一つ一つが何の関連もなく起こったかのようにみえた昔の出来事や体験も、今、ふりかえるとそれぞれにひそかなつながりのあったことがわかってくる」

  私も老年に達して、そんなことを漠然と感じていたので、納得できました。

  「ぐうたらシリーズ」は今読んでも実にくだらない内容で、筆者を楽しませようとする狐狸庵先生のサービス精神が痛々しいほどです。「男と女の生きる道」では全編猫語で書かれるなど、今、読んでみると、しっくりきません。しかし、誰もいない北杜夫氏の別荘を訪ねて一人過去を回想する「女房に見せない顔」、近所に住む若い女性とのほのかな交流を描いた「窓からの情景」、愛犬との別れを描いた「別離」などは、しみじみと心に深く響くエッセイで、改めて遠藤周作という作家の力量を感じました。

学生時代に戻って

2015-04-26 08:19:27 | 読書
『丁寧に読む古典』 小松英雄


  古典の教科書には、作品が当然のように漢字と仮名交じりの文章で印刷されており、句読点も濁点もつけてあります。

  しかし、筆者がこの本で紹介しているのは、平安時代の仮名文学作品であり、色紙や写本の筆跡がそのまま掲載されているものもあります。教科書の本文などは、国文学者が読みやすいように書き改めているわけですが、それによって誤った解釈や、原作者の思いが伝わっていないケースがあると筆者は指摘しているのです。

  例えば、紀貫之の「ゆふつくよ をくらのやまに なくしかの こゑのうちにや あきはくるらむ」は「夕月夜 小倉の山に 鳴く鹿の 声のうちにや 秋は暮るらむ」と書かれてしまうために、「小倉の山」に掛る「小暗し」(朦朧として何があるのか見分けがつかない)という形容詞をイメージできません。ひらがなで書かれていれば、読者は「をくらのやま」を一次的に「朦朧とした山」と想像し、二次的に「小倉山」という具体的な地名を想像するというのが、貫之の意図だったのではないかと述べられます。

  さらに、この歌を書いた毛筆の色紙を分析し、「をくら」が黒々と、「しか」が細々と書かれ、暮れようとしている「秋」は色紙の外れギリギリに書かれていることを指摘しています。まさに書全体で歌の趣を表現しているわけで、そんな表現方法もあったのかと驚かされました。

  なかなか難しい内容もあるので、全部読んで理解するのは難しいかもしれません。『方丈記』の冒頭なども出てくるので、学生時代に勉強したところだけでも読んでみると、新しい発見があると思います。たまにこんな本を読むのも面白いと思いました。

須賀敦子の方へ

2015-04-25 22:55:46 | 読書
『須賀敦子の方へ』 松山 巌

故須賀敦子氏が『ミラノ霧の風景』でデビューしたのは61歳。その後、10年足らずの作家活動の中で、文壇における確固たる地位を確立しました。

筆者松山巌氏は、生前の須賀氏と交流があり、全集の編集にあたっては詳細な年譜を作りました。そこで知り得た資料や人脈を使って、須賀氏が1953年にフランス留学に旅立つまでの成長や苦悩を描いたのが本書です。筆者は過去と現在を自由に行き来し、ゆかりの場所を実際に訪ねて、須賀氏の半生に迫ろうとしています。夫婦でもないのに、よくそこまで調べ、思いを込めて描いたものだと感心するしかありませんが、そうさせるのが須賀氏の魅力なのでしょう。

若い須賀氏に影響を与えた本の言葉として、『星の王子さま』で有名なサン・テグジュペリの言葉が何度も出てきます。須賀氏がキリスト教の学生活動をしていた関連で信仰に関わる言葉ですが、紹介しておきましょう。

「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者である」

女性の地位がまだ低かった当時、ミッションスクールで外国人シスターの指導を受けた須賀氏は、自立した女性の生き方を模索して、読書したり討論したりする中から貪欲に成長しようともがいていました。自ら考え行動する女性になりたいと願い、後年の穏やかで静謐な文章からは考えられないほど、左翼的で先鋭的な思想も持たれた期間もあったようです。混乱した国内情勢と海外の思想と関わる中で、一人の少女がどのように精神的に成長していったのか、大変興味深い記録であると言えます。須賀氏の著作を読むと、須賀氏の回想する日本が古き良き時代のように感じていたのですが、ご自身の家族の問題も含めて、波乱に満ちた動乱の時代だったという意識を新たにしました。

ちょっとした逸話も心にしみます。雑誌の編集長鈴木敏恵氏は、死期を悟った須賀氏から一枚の写真を贈られました。外国の町の一角で、ジャンパーを着た女の子が、ベンチに腰かけてうつむく男の子をかがんで覗きこんでいます。鈴木氏ははじめ、いつも笑っている須賀氏を思い、男の子を慰める女の子が須賀氏で、泣いている男の子が自分だと思っていました。しかし、自分の死を予感した須賀氏はべそをかいている男の子で、励ましている少女が鈴木氏だと気づきます。二人の関係が偲ばれるエピソードでした。

今後は須賀氏のイタリアでの生活を調査した続編を出していただくことを強く望みます。

新幹線をつくった男

2015-04-24 20:39:32 | 読書
新幹線をつくった男~伝説のエンジニア島秀雄物語 高橋団吉

リニア新幹線が世界最速の時速603キロを達成するなど、鉄道の進歩には隔世の感があります。

東海道新幹線は、日本の鉄道の未来のために、政治家や企業が一丸となって進めたプロジェクトだと思っていましたが、実はそうではなく、この物語の主人公、島秀雄ら一部の人々が、多くの障害を克服して作り上げたものだと知りました。

例えば、当時、世界では、先頭の機関車が後続を引っ張る「機関車列車方式」が常識でした。しかし、島は、非難を受けつつも小型モーターを分散して取り付ける「電車列車方式」を採用します。それがやがて、超高速走行時の蛇行を抑え、先頭車両を付け替えずに反転運転できる機敏性、列車の軽量化により高架を安価に作れるなどのメリットに結びついていきます。

また、日本の在来線は幅の狭い狭軌が採用されていたため、高速化がきわめて困難でした。政治的な駆け引きもあって、世界標準の広軌に変えられないという決定的な制約の中で、エンジニアたちは知恵を絞り、技術を磨いていきました。当時の国鉄、私鉄、車両メーカーを問わず、官民の技術者たちが利害を超えて結集し、改良していったのです。条件が悪いからとあきらめずに努力したからこそ、広軌の採用を勝ち取ったときに、すぐに対応できる技術力があったわけです。逆境にもめげないことが大切なのだとわかります。

新幹線は、線路、車両、駅舎、管理システムなどの大規模な鉄道施設をゼロから丸ごと建設した異例の大事業です。莫大な建築費と採算性が疑問視されていました。その解決策の一つとして、世界銀行から復興支援としての借款を受けました。この政治的手段によって、日本は莫大な利益を得ましたが、世界銀行でも「数ある借款の中で最も成功し、実り豊かで、かつ世界銀行にとっても誇らしい融資が、日本の東海道新幹線建設である」と語り継がれているそうです。

新幹線建設に反対する人々は、鉄道を斜陽産業と決めつけ、利用客が少ないことを予想して新幹線建設に強く反対しました。一部の世論やマスコミは「世に4つのバカあり。万里の長城、ピラミッド、戦艦大和に新幹線」と新幹線を蔑視していました。国鉄内にも確執があり、新幹線を作った島秀雄も、国鉄総裁として彼を援護した十河信二も、新幹線の出発式には出ていません。組織における人間関係の難しさを考えさせる事件です。

リーダーシップを持った、それほど多くない人たちが、真剣に日本の将来を考え、ごり押し的に工事開始を決定し、突貫工事で完成させた新幹線は、開業以来死亡事故ゼロという奇蹟的な安全神話を作って走り続け、リニア化に向けて進化を続けています。

鉄道ファンはもちろん、モノづくりに関心がある人はぜひ読んでみてください。

時計の日付

2015-04-12 00:19:43 | コラム
 今日が何日だったか、書類の日にちを何度も入れた日でも、あれ?なんて思ってしまうのは認知症の始まりでしょうか。
 私が最初に持った腕時計は、オメガのシーマスターで、高校生の頃でした。父がヨーロッパから土産として買って来てくれたものです。ものすごく厚くて重く、皮の黒いベルトがついていました。普段はグレーでメタリックな文字盤でしたが、光に当てると細かな砂のように光を反射して美しいものでした。今も手元にありますが、まったく使っていません。
 日付が変わる頃、日にちを表示する部分も回転して、今日と明日の間が空白になるわずかな時間帯がありました。実際には時間は連続しているわけですが、時計のカレンダーでは、その日の終わりと翌日の間に、数字が徐々に入れ替わる、何も表示されなくなる時間帯があって、一日の終わりと、新しい一日の始まりを、感覚的に強く意識することができました。アナログとデジタルの差と言えるかもしれません。
 今日は雨が降っていたせいもあり、一日家で過ごしました。だらだらしていた時間も多く、やろうと思っていたことは思うようには進みませんでした。でも、少しはできたのでそれでよしとしましょう。明日は出かけなければならないので、今日の続きはできません。
 急に眠くなってきました。おやすみなさい。

発達障害

2015-04-11 09:08:29 | コラム
 ブログを何年もやっていることが、最近、おかしいのではないかという気になってきました。執念深いというか、考え方によっては気持ち悪いです。
 私は最近、自分自身が発達障害だったのだと気づきました。人間関係がうまく作れないのは、性格ではなく、障害と言った方が当たっていると思ったのです。いい歳をして恥ずかしいのですが、ようやくそれに気づいた次第です。結婚できないのも、障害のせいなのでしょう。
 自分で自分自身を「おかしい」と認めることは難しいものです。誰だって認めたくないでしょうし、それ以前に、「自分がおかしい」ということに気づきません。うまくいかないのは、すべて周囲が悪いのだと考えてしまうのも無理はありません。自分がビョーキだなんて考える以前に、気づきもしないのです。
 通勤途上などで同僚などに会っても、たいていは近づきません。それまでの歩きから速度を落として間を広げていくか、回り道でも別な道に逸れてしまうか、どちらかです。挨拶をし、話を合わせ、歩調を合わせて歩くことが、苦痛であり厄介に思えるのです。そう言うと、きわめて不遜な感じがしますが、相手の人に対しても、自分のような人間に気を遣わせてしまうのは申し訳ないという配慮をしてのことです。これでは、人間関係が縮まることはありません。おそらく、気づいた相手は、私のことを「変人」と思うでしょうし、それは当然だと思います。そんなことをしていて、自分が孤独だなどと嘆いているのですから矛盾してます。人間と言うものは、実に矛盾した生き物です。
 今のところ何となくフツーに暮らしてはいます。でも、いつビョーキがもとで妙なことをしでかすのではないかという不安があったりします。今朝、北海道の方でしたか、軽自動車の男が、親子連れをはねてけがをさせたというニュースを見ました。わざわざ車で歩道を走って背後からひいたようです。狂っているとしか思えませんが、失業中に幸せそうな親子を見て、嫉妬したのでしょうか。私には、犯人の気持ちがちょっとわかるような気がするのが怖いです。
 
 

父と娘

2015-04-07 20:10:10 | コラム
 今朝、通勤のバスに乗り込んで、座れたことに安堵していると、後ろの座席に乗っている男女の話し声が聞こえてきました。
 男性の声は低くてよく聞き取れませんでしたが、女性の声ははっきりとしていて、話している内容までよく聞こえました。専ら女性が日常のことをいろいろと話し、男性が相槌をうっている感じでした。内容から判断すると高校生くらいの娘と、中年の父親ではないかと思われました。バスの中で会話を聞くことはほとんどなく、父と娘という組み合わせは初めてでしたので、耳をダンボにして聞いていました。
 バスが終着のバス停に泊まり、後ろの父娘が私の傍らを通り過ぎて降りていきました。
 驚いたことに、娘は大学生か社会人のようであり、父親は中年とはいえ予想以上に若い男性でした。一緒に通勤しているなんて、素晴らしいと思いました。
 以前、私が電車を使って、現在とは別の場所に勤務していたころ、駅から勤務先へ行くまでの間に決まってすれ違う父娘がいました。娘は中高生のようでしたが、明らかにダウン症であるとわかりました。父親は毎日、娘と一緒に駅までの道を歩いていました。私などにはうかがい知れないご苦労が多々おありでしょうが、いつも二人とも晴れやかな笑顔が印象的でした。娘と一生一緒に生きていくことができると考えれば、決して不幸ではなかったと思います。
 私も保育園へは、毎朝、父と手をつないで通いました。隣に越してきた方は、毎朝、いい親子だなあと思いながら見送ってくれたそうです。その日も遠い昔になり、私は一人ぼっちになってしまいました。
 
 

ベスト・オブ・ザ・ベスト

2015-04-05 09:23:46 | 絵画
 ブリヂストン美術館で開催中の「ベスト・オブ・ザ・ベスト」という展覧会を見てきました。
 まず、驚いたのは、ブリヂストン美術館へ向かう途中、八重洲の地下街を歩いていたときでした。大丸の地下などで、会う人の半分くらいが中国からの旅行者だと感じられました。家族連れが多かったものの、若い女性のグループなども目立ちました。以前にはあまり見られなかったと思います。海外からの旅行者が増えているとは聞いていましたが、予想以上でした。
 さて、「ベスト・オブ・ザ・ベスト」という展覧会は大変結構なものでした。これはブリヂストン美術館が保有する作品だけで構成されています。改めてブリヂストン美術館のすごさが理解できました。青木繁の「海の幸」も里帰りしていました。藤島武二の「黒扇」、モローの「化粧」、ピカソの「道化師」、セザンヌの自画像など、1点を見に行くのもアリでしょう。ルオーの作品はどれも傑作でした。
 日本屈指の美術館ですから、ここでも外国からの旅行者が多数見られました。もともと展示室が狭い美術館なので、鑑賞者が多いと見にくいのはしかたがないでしょう。
 たまたま昨日は土曜でした。土曜講座はまだやっていたのですね。私ははるか昔に参加したことがあります。また、リピーター割引というのがあるのですね。チケットをとっておくと、2回目以降は半額でよいというものです。いろいろサービスがあるのもうれしい限りです。時間がなくて展覧会は小一時間しかみられなかったので、5月17日までにもう一度行けたらよいと思います。
 展覧会を見てから、上野へ行きました。不忍池の桜を見ながら、友人と花見をしました。5時からは数軒梯子して10時ころに帰宅。ポケットには1000円札が何枚も入っていましたが、どうしてなのかは不明です。友人と割り勘にしているうちに、細かくなったのでしょう。今朝は頭が痛いです。花見にも外国人旅行者が多かったことは言うまでもありません。
 日本の国際化?はすごい速度で進行していることが実感できました。びっくりです。
 今日もお花見です。雨ですけど。誘ってもらえるだけでありがたいです。まだまだ花見できますよ。ご一緒しませんか?