観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

信仰について

2009-02-12 04:16:12 | 仏教学
 信仰のある方は幸せだと思います。揶揄するわけでなく、本心からそう思います。失礼な譬えになりますが、「鰯の頭も信心から」と言うように、自分で心の平安が得られるなら、何を信じようが個人の勝手であるし、第三者がとやかくいうことではないと思うのです。これが、誰かを教団に巻き込もうとしたり、教理を信仰のない人に押しつけようとしたり、世の中のすべてを教理に照らして考えたりするようになってくると、拒否反応を示す人も出てくるわけです。素晴らしい信仰を他人にも紹介したいという善意であることはわかりますが、それが行きすぎると困惑することも多くなります。
 私は仏教を学び、その世界観や人間観に興味を持っています。具体的には、仏の慈悲や仏像の美しさ、精神性というものを好ましく思います。キリスト教にも関心があり、多少の関わりも持ちましたが、裁く神、男性的な神よりは、人間的なキリストの苦悩や聖母の慈愛というものに惹かれます。弱い自分を支えてくれるものというのが、私の宗教の定義なのでしょう。
 昨年から、月に1回程度、ある宗教団体の修行(?)に参加しています。形式的に見れば、私は信者ですが、実際には信者ではないと思っています。回りくどい言い方になりますが、それが実際でしょう。私は、現代の宗教のひとつの実践例として、毎回、いろいろな観察をさせてもらっている感じです。信者に満足感を与える修行の形態、演出法、権威付けや集金・勢力拡大のシステム等々、興味深いものがあります。そのうちミイラ取りがミイラになるのではないかと危惧されるかもしれません。私は、たぶん、それはないと思います。私は宗教によって救われるタイプの人間ではないと思うからです。個人崇拝は苦手ですし、霊界の存在というものも信じることができません。ただ、大乗の精神にのっとり、わかりやすく言えば人助けをしていこうという教団の思想は、私に欠けているものを教えてくれるようです。私を誘ってくれた人物も人格者として尊敬できます。
 私は、仏教の研究をライフワークに選びました。そして、内的な信仰を求めています。その基幹となるのは、釈迦の仏教、原始仏教だと思います。それをまた勉強し、自らが理解すると同時に、多くの方々に紹介することが、当面の目標であると考えています。仏教の基本的な理念のひとつが「中道」ということです。極端に偏らないということですが、現在の仏教は、さまざまな偏りを内包していると思います。そうした自己矛盾が排他性を生んだり独善に陥ったりさせているのではないでしょうか。
 私は、仏教が最も重視する般若波羅蜜、すなわち智慧によって、生きていく指針を得たい。そのために、もっと勉強と実践を積んで、真の仏教を多くの方々に紹介したい。そう考えています。