観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

白神山地マタギ伝

2015-03-26 10:12:20 | 読書
白神山地マタギ伝~鈴木忠勝の生涯 根深誠 七つ森書館

  ヒマラヤ登山なども行い、探検家とも言えるような著者が、白神山地の伝承マタギと知り合い、折々に聞いた話から、自然と人間との関わり方について考察した本です。マタギとは山で狩猟を生業とするハンターだと思っていましたが、大自然と文化的に結びついた存在として再認識できました。故鈴木忠勝氏の発言が、かなり読みやすく改変されて、多数収録されていますが、方言による温かみのある語り口が、お人柄をよく表しています。筆者と鈴木氏の交流の深さが感じられます。

  この本からマタギの「文化」を教えられました。例えば、獲物を射獲したあと、クマやカモシカなどの獲物別にそれぞれの祈りや儀式を行い、獲物の成仏を願い、自己の罪を浄罪を行ったこと。作法や呪文などが細かく決まっていました。過去の事故から6人では狩りをしない、4頭いるクマは3頭しか撃たない、囲炉裏などの火に頭を向けて寝ないなどといった迷信が生まれ伝承されてきましたが、それらも文化に含めてよいと思います。クマの絵馬が安産を祈って奉納されたことなどは意外でした。すべて自然への畏敬の念が感じられるものです。

  白神山地と言えば、世界自然遺産として人気がありますが、道路建設反対運動がきっかけになって、その自然がクローズアップされ、世界遺産へと結びついたことを初めて知りました。

  現在、白神山地は行政によって厳しく立ち入りが制限され、漁猟や山菜採取が禁止され、先人が切り拓いた道が失われようとしています。マタギの小屋も撤去され、木などに祈りや目印のために名前や日時を刻んだナタメも、落書きの類として罪悪視しています。手つかずの自然を標榜するあまり、人間と自然との結びつきを無視して、文化を消し去ろうとしているのではないか、筆者はそんな疑問を投げかけています。

  鈴木氏の死によって伝承マタギがいなくなり、その文化が失われると同時に、自然と人間との関わりという一つの貴重な事例も終焉を迎えてしまうようです。

植村直己 夢の軌跡

2015-03-21 08:50:39 | 読書
植村直己・夢の軌跡  湯川豊  文藝春秋
冒険家の植村直己氏がマッキンリーの冬季単独登頂から戻らなくなってから30年、文藝春秋社で植村氏を資金的・精神的に支援してきた筆者が、植村氏の「肖像画を描いてみたい」という思いから書いた本です。そこで、「年譜の上の彼の事績を追うという方法はとらない」という形で描かれていますが、そのために重複や時系列の混乱が目立ち、やや統一感を欠いた気がします。この稀代の冒険家の魅力をじっくりと描く「評伝」があってもよいと思うので、正攻法で書いた方がよかったように思います。
私はなぜ植村さんがマッキンリーに挑まなければならなかったのか、この本で初めて知りました。マッキンリー登山の前、植村氏は2つの挫折を経験しています。1980~81年、隊長として臨んだエベレスト登頂に悪天候のため失敗、続いて「夢」だった南極単独横断が、フォークランド紛争でアルゼンチン軍の協力が得られず中止に追い込まれたのです。南極単独横断にはアメリカ軍の支援も不可欠でしたが、その許可も得てはいませんでした。夢を実現するためには、失敗を払拭し、自己の業績を強くアピールしなければならない。そのためにマッキンリーの冬季単独登頂を成功させなければならなかったのです。
植村氏のすごいところを、筆者はいくつか挙げています。その中で印象に残ったのは、植村氏がエスキモーの生活をそのまま受け入れる適応力を持っていたことでした。焼くことを嫌って生の肉を食べる習慣、室内のバケツで用を足す習慣など、植村氏は、それが極地で最も合理的な生き方なのだと考え、それを尊重し、そのまま受け入れたのです。これはエスキモーの人々に信頼され、よい関係を築くためにも役立ったようです。
次に、植村氏が単独にこだわったことです。彼は若い頃から孤独を楽しんでいました。一人でいるときには過去のことを思い出して飽きることがないそうです。そんな過去を持つ大切さに気付かされました。組織で動く場合と違って、一人の場合は何のバックアップもありません。言語の違いを超えて、さまざまな機関と交渉し、許可や協力、資金等を得なければ冒険は成り立ちません。実際の冒険も大変でしょうが、実は、それ以外のこまごまとした事柄をすべて自分でこなすことの方が大変だったかもしれません。これは、植村氏が1964に明治大学を卒業後、アメリカ行きの移民船に乗り込み、その後、フランスのスキー場で働くなど1000日にわたって外国を放浪した経験がベースとしてあるようです。若い頃の経験が、植村氏の人生を決定し、その基礎になったのでしょう。若い頃は積極的に活動していくべきだということを改めて教えられます。


雨でした。

2015-03-16 19:47:47 | コラム
 今日は午後から雨になりました。
 バスで帰宅する途中、座席が埋まっていたので、吊革につかまって立っていました。前で座っていた男性は70歳くらいだと思います。背広を着ていてるようだったので、まだお勤めなのでしょう。足元には駅前にあるスーパーのレジ袋が二つ置かれていました。乗車前に買い物をなさったのでしょう。
 見るともなく見ていると、鞄の中から財布を出し、そこから数枚のレシートを取り出しました。また、ケータイを取り出すと電卓機能にして、レシートの数字を入れだしました。家計簿をおつけなのか、しっかりしているなあと感心しました。
 どう見ても定年後の方だと思いますので、単身赴任ということはないでしょう。そうすると、私と同じ、チョンガーなのかなと思います。自分の近い将来の姿を見るようで、ちょっと切ない気がしました。
 雨は小止みなく、今も降り続いています。

不思議な因縁

2015-03-12 05:41:10 | 絵画
 先日、オークションで一枚の絵を落札しました。大きなパステル画です。最初、パソコン画面で見たときには、きれいだな程度の関心しか持ちませんでした。オークションに参加しようとも思いませんでした。しかし、何度か見ているうちに欲しいという気持ちが強くなり、価格も予想以上に低かったので入札を決めました。
 その絵を描いた画家は、あるグループの主要なメンバーであり、重厚で写実的な画風には定評があります。私が購入した絵も、静寂と艶やかさの両方が感じられる美しい絵でした。
 届けられた絵は、某有名画廊の包装紙が付いたままの状態で、かえって偽物なのではないかと疑われるほどでした。しかし、満足しながら眺めているうちに、記憶の底から浮かび上がってくる思いがありました。私は、その絵を昔見たことがあると感じたのです。その思いはだんだん強くなり、確信に変わりました。
 その絵の絵ハガキを買ったことを確かに思い出したのです。私は絵ハガキを額に入れたりして飾ることはまれなので、そうした記憶はありません。飾って見ていた記憶ではなく、鮮烈なのは絵ハガキを買った時の記憶でした。私はケチなので、よほど気に入った絵ハガキしか買わず、買うときにはかなり悩んでから買うのです。そこで、絵ハガキを買うという行為が記憶に残ったわけです。絵ハガキを買ったことから考えると、画廊ではなく、美術展で見たのかもしれません。おそらく30年以上前のことだと思います。こんな形で、昔気に入った絵に再会できるとは思ってもいませんでした。
 冷静に考えれば、画家が気に入って何枚も描いたモチーフと構図だったのかもしれません。また、私がかつて見たのは油絵で、今回の絵は下絵のパステルだったとも考えられます。調べてもわかることではないでしょう。
 絵を見ながら、突然の過去との邂逅に不思議な気がしています。

合掌

2015-03-10 22:01:43 | コラム
 もうすぐ、あの日がやってきます。あれからもう4年になるのですね。
 いろいろな方がいろいろな思いを抱えて、この4年間を生きてきたでしょう。震災に遭われた方々はもちろん、震災の惨状を見ながら、同じような苦しみを味わってきた方々もいると思います。そうした方々は、報道される被災地の惨状を目にして、被災した方々にわが身を重ね、その悲しみと苦しみを共有してきたのだと思います。
 あの日、私も、震災とは違う理由で家族を失い、その後、父を失いました。父は福島の病院に入院していましたので、よく見舞いに行きました。一緒にいる間も余震が何度もあり、住民の方々と同様の不安や恐怖を感じたものです。
 申し訳ないのですが、その後、被災地は遠いものになりました。それではいけない、何とか力になりたいと、ようやく被災地を訪れ、多少なりとも地域に貢献できたかなと思われたのは夏の終わりでした。
 適当な言葉はいくらでも書けます。3月か4月、東北道を車で走ることに不安がなくなる頃、私はまた東北に行きたいと思います。
 昨日のニュースでしたか、多くの児童が亡くなった小学校の建物を保存することを巡って、住民の皆様の投票が行われ、一部ではなく、校舎全体を残すという意見が半数近くにのぼったというニュースを聞きました。見るのが辛いから取り壊してほしいという心情もよく理解できますが、なくなってしまえば、記憶は確実に薄れ、地域の方々さえもすべてを忘れ去ってしまう日が来ます。いわんや、よその土地から来た人間には、震災のメッセージが何もないことになります。以前、南三陸町の防災庁舎を訪ねた折の感想を書かせていただきましたが、あのむごたらしい建物があるからこそ、余所者にも、あそこで起こったことが想像できるのです。なくしてしまったら、何も残りません。よすがを残して、無念のうちに亡くなった方々の声を後世に残してください。さまざまなメッセージを伝える場として、震災遺構を残してください。後世の人々のためにも、心からお願いしたい気持ちです。
 もうすぐ日付が変わります。あの日が来ます。今日は、東京大空襲で亡くなった方々を思って黙禱しました。明日は、東日本大震災で亡くなった方々を思い、あの防災庁舎や造成工事の続く町の様子を思いながら、黙禱したいと思います。合掌。

教育再生ってどう考えてもヘンでしょ?

2015-03-08 21:15:30 | コラム
 私は教育に関心を持っているわけでもなく、自分が受けた学校教育にもよい思い出はあまりありません。ですから、教育問題なんてどうでもよいようなものですが、ちょっと気になることがあるので一言だけ言わせてください。
 ニュースを見ていると、教育再生会議というのがよく出てきて、教育改革を推進しているようです。首相などもよく口になさっているので、耳に入る機会も多いのです。しかし、よく考えてみれば、教育を「再生」しなければならないとするなら、今、現実に学校で教育を受けている児童・生徒・学生の皆さんは「死に体」の教育を受けているということになります。自分が、今、現に受けている授業が「再生」しなければならない「死に体」の内容だったとするなら、勉強しようなどと言う気になるでしょうか。子供たちに対して、「再生」などと言う言葉を使う政治家の皆さんの神経がわかりません。
 仮に現在の教育が「再生」しなければならない「死に体」の内容だと言うなら、責任は誰にあるのでしょうか? かつて大きな路線変更がなされ、やはり撤回された「ゆとり教育」を推進したのは誰ですか? 学校や保護者から「ゆとり教育が必要だ」という声が上がり、学校主導で教科書が改められたり、指導要領が変わったのではありません。お役所が勝手に決めて、勝手に改革を行った結果です。おそらく、ゆとり教育を推進したお役人の皆さんは、その功績(現状を改革したというだけの!)によって出世なさったのでしょうが、大きな路線変更を強いるような改悪をし、子供たちを混乱させた責任は誰がとるのでしょうか。自らの責任には一切触れず、学校が悪いという世論を作って責任を転嫁しようとしている、私にはそう思えてなりません。「再生」が必要な教育を作り出しておきながら、一方では「教育再生会議」なるものを立ち上げている鉄面皮には呆れるばかりです。
 新しいことをやらなければ目立たず、出世もできないから、必要でないこと、改悪になることでも平気でやっているというのが、現在のお役所の体質なのではないでしょうか。
 大学入試センター試験も曲がり角に来ているようです。改革する必要もあるのかもしれませんが、自分の出世のための改革はやめてください。迷惑するのは子供達だからです。選挙年齢が18歳に引き下げられるようですね。高校生や大学生の皆さんは、自分の体験をもとに、でたらめな行政に鉄槌を下してください。私だったらそうします。

漱石という生き方

2015-03-03 18:16:15 | 読書
  筆者、秋山豊氏は東京工業大学を卒業して、岩波書店に入社し、漱石全集の編集をなさった方である。理系の方が文学全集を編むというのも奇妙な気がしますが、イギリス留学のあたりから、漱石自身が文学を科学的に研究しようとしたことを思えば、共通点があったのかもしれません。

  氏は作品を対比しながら、漱石という生き方を探っていきます。それは発見に富んだスリリングなもので、人間漱石を立体的に浮かび上がらせています。

  たとえば、いたずらをした生徒たちや赤シャツ以下の先生たちが、言葉で謝らないことに憤慨し、謝っても許さない坊っちゃんの姿は、『こころ』で、自らのKへの罪を許せず、死ななければならなかった先生と重なる部分があると感じられます。

  このあたりには、漱石の性格の偏りを感じますが、漱石は癇癪持ちであり、家人や弟子に怒りや不機嫌をぶつけるような時代もあったようです。漱石自身も、自分が変人であり、神経衰弱であり、狂人でありうると言っていました。

  具体的なエピソードとして、漱石が京都で贔屓にしていた芸妓との交際が描かれています。あるとき、梅見の約束をした(と漱石が思っていた)日に、相手が外出して来なかったということを、執念深く覚えていて、後年、手紙に書いて相手とやりあっていました。相手をうそつき呼ばわりして非難しており、何とも幼稚な気がしますが、漱石にはそういう一面が確かにあったのでしょう。

  そうした漱石が平穏な夫婦生活を送っていたとは思われません。『野分』にはなかった妻の心理描写が『道草』になると詳細に現れるようになり、漱石の女性理解は実生活の中で深まっていったのだと想像できます。しかし、どちらの作品でも、夫と妻の間は理解不能であり、漱石の夫婦生活を象徴しているかのようです。

  晩年の文学博士辞退事件も、漱石の頑固な面を表しているようです。国家に対する個人の在り方を貫いたわけでしょうが、それだけでは納得できない気がします。

  漱石はなぜ小説を書いたのか。筆者は、『私の個人主義』を挙げて、漱石は自身の過去を語り、「そのお話をした意味は全く貴方がたのご参考になりはしまいかといふ老婆心から」だと述べていることを指摘します。それは『こころ』の先生の遺書が書かれた動機と重なっています。

  漱石作品にお金が深く関わっていることは意外でした。『こころ』の先生が寂しい人間になったのは、叔父に財産を横領されたことであり、『道草』の主人公も義父に金をせびられていました。

  漱石の信仰とか境地について言うときに「則天去私」という言葉が引き合いに出され、さまざまに説明されています。秋山氏は漱石の手紙から「余の意志以上の意志」という語句に注目されていました。漱石は渡英の船上で宣教師をやり込めているなど、キリスト教には違和感を持っていたようです。やはり漢学を学んだ人間として、東洋の思想が肌に合ったのでしょう。

  漱石の作品が変化するのは『それから』を最後にストレートな文明批評が息をひそめると指摘されています。私も漠然と感じていたので、膝を叩きました。『それから』執筆の翌年、漱石は胃潰瘍の手術をし、修善寺の大患を経験するわけですから、死線をさまよって作品が変わったと言えるでしょう。

  あとがきを読んで、原稿にあたってテキストを決定していったご苦労が偲ばれました。漱石は一度書いた作品は、もう自分を離れた独立した作品として読み返すことがなかったそうです。多くの作品が新聞の連載であったことを思うと、〆切に追われたり、話の細部が破綻したり矛盾が生じたりすることもあったようです。誤植がもとで間違ったまま全集に収められてきた作品もあったというから驚きです。

  今回、漱石に関する作品論に触れて、また読んでみたくなりました。過去に読んだときとは、全く違う理解ができるものと思います。それは、この本を読んだことだけでなく、自分が積んできた体験からも言えると思います。