観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

ブックリスト~『ギャロップ!!』

2008-11-30 00:26:01 | 読書
 半年近く前になりますか、神楽坂にある料亭に飲みに行ったときのこと、店主が面白いと見せてくれたのが、この本でした。インターネットでようやく手に入れたという本は、絵本という範疇に入るのでしょうか。「しかけえほん」と表紙にも書かれているので、そういうことにしておきます。
 作者はルーファス・バトラー・セダー、訳者は「たに ゆき」とだけ表記されています。大日本絵画社刊で1900円です。
 「たに」さんには失礼ながら、確かに字は書いてありますが、内容にはあまり意味がありません。要するに、この本には「しかけ」があるのであって、「ページをひらくとどうぶつがうごきだす!」のです。
 本のページには黒い窓が開いていて、細く白いストライプが何本も入っています。そこに浮き出ているのは動物の黒い影。その動物たちが、ページをめくるごとに、動き出すのです! 最初は馬、次に鶏、犬、猫、鷲、チンパンジー、蝶、亀、最後は星と続きます。
 大がかりな仕掛けではないと思います。おそらく目の残像を利用しただけの単純な仕掛けでしょう。でも、それがとてもよくできていて、思わず惹きつけられてしまうのです。絵本とうたってありますが、子供より大人の方が面白がるでしょう。言いしれぬノスタルジアが感じられるのです。極めてアナログで、電池も何も使っていないからこそのよさだろうと思います。
 こんな単純なものに感動させられる、何とも小馬鹿にされたような、騙される快感のようなもの。このとぼけた感じが、この本の持ち味ですね。だから、書店で見つけて、すぐに買ってしまいました。馬鹿馬鹿しいと思いつつ。
 仕掛けがある分、むやみに厚く、背表紙も派手です。書店で見かけたら、一度手にとってご覧ください。でも、そうか、セロファンで包装されていますね。中を見ることは出来ません。購入してくださいと言いたくはありませんが、私は即決で買いました。何度も眺めて、ほのぼのしています。

石田徹也~僕たちの自画像~展

2008-11-29 16:18:04 | 絵画
 かねて予告(?)していた練馬区美術館へ「石田徹也~僕たちの自画像~展」を見に行ってきました。大小あわせて70点あまりの作品が、美術館2階の3つの展示室に分けて展示されていました。有名な作品がほとんど網羅されており、見応えがありました。とはいっても、来週また行く予定なので、今回は第1展示室しか見ていません。したがって、今日の段階では、全体を通して云々ということはできません。
 今日、第1展示室を見て、石田氏の絵は、ほとんど板にアクリルで描かれていることを再認識しました。図版等で見ると、少しくすんで迫力に欠けるように見えますが、実際の作品を前にすると、アクリル独特の鮮度と透明感が感じられ、やはり石田氏の世界はアクリルでなければならなかったのだと理解されました。
 私もアクリルで数点の絵を描いたことがありますが、乾燥が早いために急かされるようなところがあり、油彩に慣れていると戸惑いを感じました。油絵具よりも取り扱いは楽で、自由度は高いと感じました。でも、重量感や存在感を出すためには、油彩画の方がよいというのが私の結論でした。石田氏の場合は、夢や空想の世界がモチーフになっていますから、むしろアクリルで非現実感や浮遊感を出した方がふさわしかったのでしょう。
 観覧中の方々は、口々に発想の素晴らしさを褒めていらっしゃいましたが、ユーモアやペーソスが感じられる題材や構図は、強い共感を促すものばかりでした。思いの外、小品も多かったですが、それでも十分に説得力がありました。
 石田氏が学生時代に下石神井に住んだことがあるというのが、今回、練馬区立美術館で展覧会が催されるきっかけであったようです。父上なのでしょうか、徹也も喜んでいるのではないかという挨拶文が掲げられていました。12月28日までが会期です。

風呂焚きの日々

2008-11-28 22:18:43 | コラム
 小学生の半ばまで、我が家は薪で沸かす風呂に入っていました。
 風呂を焚くのは、子供の仕事で、夕方、新聞紙、薪、マッチ、団扇を持って、焚き口にへばりつくのが日課でした。薄暮から暗闇に向かう時間に、点火直後から燃え盛るまで、火はいろいろな表情を見せてくれました。舐めるように燃える火や一気呵成に燃え上がる炎など、共感していただける方は、どれほどいらっしゃるでしょうか。苦労して燃え上がった火を眺めていると、不思議な陶酔感や高揚感に襲われました。人類が太古から火を崇拝してきたことも納得されました。火が燃え出すと、今度は湯加減を見なければなりませんでした。木の浴槽もさることながら、火で焚いた風呂は、湯も優しくとろみがあったような気がします。
 小学生の仕事ではありましたが、大げさに言えば、風呂焚きは遊びではなく、神聖な仕事でした。その証拠に、風呂を焚きながら、火遊びをしてはならないのでした。火遊びをすれば、火の神様の怒りをかい、おねしょをするのだと教えられました。これは、子供が危険な火遊びをしないよう防止する方便だったのでしょうが、幼い私は、それを固く信じていました。
 この風呂は、ある夏で、突然、入浴できなくなりました。海水浴から帰った父と私が、一緒に浴槽に入ったとき、底板が見事に二つに割れてしまったのです。あのお湯が抜けていく間の様子を、今でもはっきりと覚えています。事故後、しばらくタライで行水のようなことをしていたのは覚えていますが、その後のことははっきり覚えていません。家の新築がすぐ後だったように思います。

寒くなってきましたね

2008-11-26 22:10:12 | コラム
 私の知人で、ものに対するこだわりの強い人がいます。ブランドにこだわるといった方が正確でしょうか。定評を得ているものを、多少高くても購入した方が、飽きもこないし長く使えるということのようです。流行に振り回されるというのとは違う気がします。
 その人が長く使っているのが、アラジンの石油ストーブです。冬にお邪魔すると、あの円筒形のストーブが部屋の隅に置かれ、独特の青い火が揺れています。「ブルーフレーム」というこのストーブは、約70年前、頑固で完璧を望む英国人が作り上げ、発売以来、大きなモデルチェンジがされていないといいます。完成されたフォルムと性能に自信があるのでしょう。事実、幅広い支持を受け、時代を超えて愛用されているストーブです。芯がダメになっても、それだけを買い換えることができ、古い部品でもストックがあってサポート体制もしっかりしているそうです。
 新しいものが好きな日本人とは、ずいぶん違う気がします。簡単に是非を云々するつもりはありませんが、英国人は環境問題が大きくなる以前から、省エネを心がけていたのだなあと感心させられます。それが英知というものかもしれません。振り返れば、「消費は美徳」「使い捨て」などという言葉が流布し始めた頃から、経済は発展したかもしれませんが、人心の荒廃が密かに進行していたのでしょう。
 月並みな言い方になりますが、少年時代は確かに貧しかったですが、今よりずっと豊かだったと思います。私の実家の家にも石油ストーブがありました。灯油の匂いが漂い、やかんのお湯が沸く音が部屋に溢れていました。そこに家族が集まっていた日々を懐かしく思い出します。

レコードを見直そう?

2008-11-24 08:54:34 | オーディオ・音楽
 ハイパーソニックエフェクトという言葉をご存じでしたか? うかつにも、私は知りませんでした。
 人間の脳は、人の声に敏感に反応するようにできているので、音楽でも歌声が人の心を動かすというのは道理に合っています。その声は、普通20~20キロヘルツの帯域に収まるようですが、中には50キロヘルツ、100キロヘルツといった高周波が含まれることもあり、その複雑に揺らぐ音が、脳を活性化し、α波を出したり、ストレスを軽減するなど、生理的、精神的効果のあることが明らかにされています。
 高周波成分を含む歌声は、50キロヘルツくらいなら、ブルガリアの民族音楽のように合唱の方がよく出るのだそうで、声と声がぶつかることで、高周波が生まれるということです。これが、ドーパミンを分泌し、脳に快感や幸福感を与えるのです。この高周波ですが、レコードには含まれても、CDには入っていないそうです。
 私は長らくCD専用機を使っており、アナログプレーヤーはしまったままでした。CDの音は薄いと言われてきましたが、あまり気にしたことはありません。音質が機械的で無機質な気はしましたが、それがCDの特徴なのだと理解していました。音楽を聴いた感動が、以前ほど感じられなくなったのは、年齢のせいだと思っていました。もし高周波の有無に原因があるとしたら大問題です。ここは、実家に置いたままのアナログプレーヤーを取り寄せ、試してみなければなりません。
 お手元にアナログプレーヤーをお持ちの方は、すぐに比較実験をされてはいかがでしょうか。

休日の車内で

2008-11-23 18:29:14 | ボランティア
 今日、仕事の帰りに電車に乗った3時過ぎのことです。車内に、知的障害をもっているとお見受けする方々とボランティアの若者達が乗ってきました。若者達は大学生と思われる年齢で、男性も女性も皆さん、穏やかな笑顔が素敵な方々ばかりでした。
 私の前に座った障害者の方は、二十代と思われる男性でした。両脇に男性と女性のボランティアの方が座り、男性の方は、何かメモをとっていましたが、その方に、障害者の男性がしきりに声をかけます。その表情は、少年のように無垢で、幸せにあふれているように見えました。母親に甘える子供のようでもあり、信頼と安心に満ちているようでもありました。あんなに純粋な笑顔を何年ぶりに見たでしょう。今日びの子供にもないような、見ているこちらの方が幸せになれるような、そんな笑顔でした。私達が失ってしまったものを、確かにお持ちなのかもしれません。
 ボランティアの青年は、メモの手をとめては穏やかに話に応じていました。どういう動機で、どういう機構で活動しているかは存じませんが、頭が下がる思いでした。こんな青年がいてくれれば、日本の将来も棄てたものじゃないとさえ思いました。
 殺伐とした事件が続く時期だからこそ、一服の清涼剤のようなシーンでした。

 

家族の中で

2008-11-22 18:50:32 | コラム
 首都圏の夫婦調査というデータを見ました。家族の中核たるべき夫婦の関係が、ずいぶん変わってきているようです。
 配偶者に関する感情として「恋愛」を感じる男性は23%、女性は11%。「無関心」は男性27%、女性32%、さらに「憎悪・不愉快」では男性8%、女性15%という数字が出ています。男女間の意識のすれ違いは大きいようです。
 女性も社会に進出して、多くの異性と接するうちに、異性を見る目が磨かれるのでしょう。それに対して、男性はロマンチストですから、勝手な幻想を奥さんに対して求めてしまうのだと思います。その差違が、以上の数字の相違として現れているのではないでしょうか。もちろん、これはできるだけよい言い方をしたのであって、女性のしたたかさと男性の甘っちょろさと断定してもよいかもしれません。
 不倫を文化だと言った芸能人がいましたが、私は「文化」ではないと思います。そんな言葉で美化はできないとは思いますが、人は変わります。こういう人だと思って結婚しても、その後、まったく別人のようになってしまうケースだってあるでしょう。そこまで予測して結婚できる人はいないはずです。家庭を築いた責任はあります。だから、家庭を破壊することはできない。でも、それに縛られて一生を送る義務もないというのが、私の見解です。
 あなたはどう思いますか? たった一度の(二度でも三度でも結構ですが)結婚で、すべてが制約されることが、そんなに素晴らしいことですか?

1.7

2008-11-20 20:28:09 | コラム
  この数字の意味は?と問われても、困ってしまうことでしょう。これは、1ヶ月間に職場の人と酒を飲む回数だそうです。対象の人数や男女比、実施日なども不明です。1.7、これを見て、意外に少ないと感じたのは、私だけでしょうか。
 かつては、上司に誘われたら、酒を飲めない人でも3回に1回は付き合うようにしなさいとアドバイスされたものです。社会人の常識・マナーといった類の本には、ほとんどそう書かれていました。酒好きな私は、若い頃から皆勤賞で酒席の末席に連なっていました。上司の本音が聞ける機会は貴重でしたし、その場にいないとどんな批判を浴びているか・・・・・・という不安もあったかもしれません。仕事やゴルフの話ばかりで、つまらないと感じるときもありましたが、必要なものだという気持ちはありました。
 「和をもって貴しとなす」というのが、聖徳太子の十七条憲法以来、我が国の伝統のはずです。根回しやすり合わせも、公の場で衝突を避けるための方便でした。それが近年、変化しているということなのでしょうか。終身雇用や年功序列が廃れ、会社に対する帰属意識が薄れていることも、影響があるかもしれません。自己主張をしっかりしようということも奨励されています。共働きの家庭では、家事や育児で、仕事と家庭の両立が迫られます。同僚との付き合いは制限されるでしょう。また、スキルやキャリアを上げることを優先して考えるなら、周囲と融和することは二の次、三の次になるでしょう。このようにして、特にジェネレーションギャップが大きくなってきたのではないでしょうか。
 以前は、職場でも、打ち上げ、納め会などと称して、酒を飲み交わす場面が多々ありました。それが、近年、職場や公の場での飲酒を慎む傾向が強くなってきました。飲酒運転防止などを考えれば妥当なことでしょう。嫌煙権同様、嫌酒権だって行使してよいはずです。そうした社会全体の認識も、職場の人と酒を飲む機会を減少させているのかと思います。
 付き合い方が変わってきたというのは簡単ですが、職場の人たちと酒を飲むことにメリットはないのでしょうか。それが担ってきたよい面にも目を向けて考える必要があると思いました。


小さな巻貝

2008-11-19 00:36:23 | マイ・ギャラリー
 鹿児島に旅行したときに、流木などと一緒に拾った小さな巻き貝を、サムホールで描いた油彩です。ごく短時間で仕上げました。
 旅の記念は土産物や写真ということになるでしょうが、私の場合は、拾った物が多いです。先に絵のモチーフとして紹介した向上寺の瓦をはじめ、安芸の宮島(厳島神社)では、潮の引いた海辺で、陶器の破片などを拾いましたし、沖縄ではムーンビーチで珊瑚の欠片を収集しました。土産物屋で売っている郷土玩具や特産品も面白いですが、やはり一番楽しいのは、自分で探して拾った物でしょうか。
 有元利夫氏は安井賞を受賞し、将来を嘱望された画家でした。若くして亡くなりましたが、氏も、旅先では石などを拾って帰り、それを顔料にして絵を描いたといいます。氏の作品は、どれもバロック音楽を彷彿とさせるリズムを持っている反面、犯すことの出来ない静謐さを持ち合わせています。その根本には、微妙な色のニュアンスがあるわけでしょう。私など及ぶべくもありませんが、絵に思いを塗り込めるといった気持ちだけは、共感できるように思います。
 こんなことを書いていると、また有元氏の絵を見たくなりました。

まだいけます!紅葉

2008-11-18 00:32:58 | 旅行
 この日曜と月曜で、猿ヶ京に旅行してきました。群馬県でも新潟県に近い温泉場です。日曜はあいにくの雨でしたが、夕方から天候が回復し、翌、月曜日は晴れでした。
 今回は温泉でゆっくりしようと考え、旅館の部屋と温泉だけで宿を選びました。10畳間に6畳間が2つつき、掘りごたつもあるという部屋は広々していました。清潔な浴室と、貸し切り風呂は2つあって、空いていれば自由に利用できるといった大らかなものでした。地場の食材を精選した食事もおおむね好評で、手配した人間としては責任を果たしたといった感じです。そして、期待していなかった紅葉には、ぎりぎり間に合ったと言えそうでした。特に、月曜日は天候に恵まれたので、紅葉がきれいでした。
 写真は利根郡川場村にある吉祥寺という寺の入口付近の写真です。この寺の伽藍や紅葉はなかなか見事でした。境内のあちこちにモミジがあり、建物や石仏に彩りを添えていました。本堂裏の庭園も紅葉が見事でした。その庭園を見ながら抹茶がいただける趣向もよく、人品卑しからぬご婦人に抹茶を点てていただき堪能できました。
 近くには、道の駅があり、地ビールや物産館など、広大な敷地にいろいろな施設がありました。家族連れでゆっくり一日過ごせる場所だと思います。お勧めのスポットとして紹介させてください。リンゴ園なども多く、美味しいリンゴが各種試食でき、安く購入できます。
 今回、蕎麦屋で天ぷらを頼んだ折、柿とリンゴの天ぷらがでてきました。珍しく思っていただくと、これが何とも美味で、それだけを単品で追加注文するほどでした。柿などは庭に1本木があると、たくさん実って大変だと思いますが、天ぷらにして食べるというのは、ぜひお勧めしたい食べ方でした。皮のついたまま、四分の一に切って揚げただけのようでした。
 またゆっくり訪ねてみたい場所です。
 

回転すし考

2008-11-14 03:22:29 | コラム
 手軽に寿司を味わうのに回転寿司を利用されている方は多いと思います。回転寿司は、海外にも進出しているようで、今や国際的な食文化と言えるかもしれません。それにしても、寿司を回転させるというアイデアは、考えてみれば非常にユニークかつ合理的で、素晴らしいものだと改めて感心させられます。
 海辺の町に生まれ育った私は、長らく回転寿司を敬遠していました。「産地直送」「新鮮ネタ」などといくら言われても、慣れ親しんだ地元の寿司には及ばないはずだと信じていたのです。最近は、外食してもお米がまずいとか、極端に新鮮でないなどというものに行き当たることは、ほとんどなくなりました。それでも、寿司だけは違うだろうと考えていたのです。
 私には、帰省するとよく行く寿司屋があります。路地の中の小さな店で、カウンターしかありません。店主は、儲けようなどという下心の感じられない人で、独り身の気楽さが漂っています。60代かとお見受けしますが、いつ辞めても不思議ではない感じです。実際、数年前にネタを入れておくガラスの冷蔵庫が壊れたときには、辞めそうな勢いでしたが、折よく中古で完動品が手に入ったので閉店を免れました。店主が野球放送を見始めた頃、常連さんで賑わう以前の時間にお邪魔し、好きなネタと日本酒を飲んで、客が2組くらい来たところで退散するのが、私のパターンです。
 しかし、この数年は回転寿司に行く機会が増えました。値段と味をはかりにかけて、納得できると思ったからです。最近行った「すしお○ど」というチェーン店には感心しました。すべての皿が百円で、かなり旨いのです。その理由は、上等なネタを扱っていないことにあるのではないかと睨みました。あまり出ない高級ネタを入れない分だけ、全体のコストが抑えられたのではないでしょうか。
 築地あたりに行けば、何を食べても確かに旨いですが、いつも行けるわけではありません。回転寿司に行くことの方が多くなるでしょうが、いろいろなチェーン店を食べ歩くのも面白いかもしれません。意外な発見があります。
 

この程度? 鉄道博物館

2008-11-12 22:33:23 | 旅行
 開設1周年を過ぎて、ますます話題の鉄道博物館へ初めて行ってきました。私自身はことさら鉄道マニアだとは思いません。あえて言えば、嫌いではないし、思い出はたくさんあります。今回も、そういうことで行ってみたのですが、「この程度?」というのが偽らざる感想です。
 話題の運転シミュレータですが、私はテレビゲームやパソコンゲームをしませんし、予約してまでする気もないのでパスしました。模型鉄道ジオラマも気になりましたが、時間制で見ませんでした。すると、この博物館は、ただ30両近くの車両を並べただけの、倉庫のようなものでした。昼頃行ったので、昼食をとったのですが、懐かしい日本食堂は何の趣向もないレストランでしたし、駅弁を買って乗り込めるランチトレインというのも、ただの止まっている車両で混んでいるだけでした。大人が感傷に浸れるわけでもなく、子供達が楽しめるというふうでもなく、失礼ですが、よくこれで話題になるなあと不思議な気がしました。もっともマニアの方には貴重な展示物もあるのでしょうから、素人判断で申し上げています。
 今回唯一、C57が回転台の上で回転し、汽笛を鳴らすショーを見ましたが、ほんの2ヶ月ほど前に京都の梅小路公園の蒸気機関車資料館を見た目には、何とも物足りないものでした。私の場合、大宮の鉄道博物館に感動できなかった最大の原因は、そこでしょう。梅小路の歴史や動態保存の熱意などに比べると、大宮は想像以下でした。同じ鉄道博物館という範疇では考えない方がよいと思います。

グリーンフラッシュ

2008-11-11 22:30:37 | コラム
 夕日や朝日が赤い理由をご存じですか。
 太陽光線が地球の大気中を通過する際、朝夕は昼と比べて通過する大気の層が厚くなるため、青色光のような波長の短い光線は途中で散乱・吸収されて届かず、波長の長い赤色光の方が多く地上に到達するというのが一般的な理由です。
 ところが、この理論によれば、朝日も夕日も同じように赤いはずですが、実際はそうではありません。夕日がより赤いのはどうしてでしょうか。
 朝焼けの地点では、地球の自転方向は太陽に向いており、夕日の地点では、地球の自転方向は太陽から遠ざかっているというのが、その理由のようです。つまり、ドップラー効果によれば、近づくときに波長は短くなり、遠ざかるときに長くなりますが、それを光で言えば、夕日の地点では太陽が遠ざかっていくので、波長が長くなり、赤くなるというわけです。
 今日、そんなことを調べていて、偶然「グリーンフラッシュ」という現象に行き当たりました。それは、日没時に、地平線や水平線に一瞬だけ現れる緑色の光のことを言うようです。気象条件に恵まれたときにしか見ることができず、これを見た者は幸福になれるという伝説さえあるようです。
 日が傾いて、青色光は空に散乱し、屈折の大きな赤色光が地平線や水平線に遮られて届かなくなったとき、スペクトルの真ん中あたりにある緑色の光が一瞬だけ見えるというのがグリーンフラッシュの正体のようです。
 そんなものがあるのかと感心しました。中高生の頃、自転車で夕日見物に出かけるのが私の日課でしたが、水平線に走る緑色の光など、一度も見たことがありません。やはり、私は・・・・・・と思わずにはいられませんでした。
 それにしても、学生時代の夕日は見事なほど真っ赤でした。すべてのものを染め上げると言ってもよいほどでした。しかし、近年は、そんな夕日を見ることが全くなくなりました。これも温暖化のせいなのでしょうか。
 

ブックリスト~『14歳の君へ』

2008-11-10 21:52:28 | 読書
 大変話題になった2006年12月刊の本ですので、説明は不要でしょう。サブタイトルには「どう考えどう生きるか」とあるように哲学書ですが、平易な言葉で綴られ、哲学エッセイと呼ばれる分野を開拓しました。著者の池田晶子氏は2007年2月に亡くなっています。
 中学生の新聞に連載されたのが始まりということで、確かに読みやすいです。私は、各項目から、アフォリズム的に感想や気になったフレーズをご紹介しようと思います。
 【友愛】嫌いな人でも受け容れる。愛とは受け容れること。存在を認めること。
 【個性】本当の自分は、今ここにあること。だから、自分探しなど無意味。
 【性別】男女にこだわれば必ず不自由になる。
 【意見】自分の意見など持つな。正しい考えを自分で知ること。
 【勉学】学問はそれぞれが世界を知ろうと探究している。世界に自分と関係ないことなどはない。だから、世界を知ることは自分を知るということ。
 【歴史】歴史とは過ぎ去った過去で、もともと存在しない。想像するもの。
 【社会】自分を支配し束縛する社会とは、実体がないものだ。
 【道徳】道徳はきまりではない。善悪も時代とともに変わる。道徳は自己の中にあるのみ。
 【戦争】国などという存在しないもののために人々は戦っている。
 【自然】「自然を守ろう」が、自然と人間を対立的にとらえようとする傲慢を示している。自然は死んでも、自分の命は守ろうという人間中心の考え方は限界にきた。
 【宇宙】百億年前の星の光を見る不思議。自分が存在する以前の世界がなぜ見えるのか。
 【宗教】人間を超越した神を人間が理解することはできない。多神教は、生命を持つことが、はかりしれない仏のはからいととらえ、あらゆるものを神仏や魂と見なすから自在で寛容。
 【言葉】行ったことのない国、知らない歴史を出現させてくれるのが言葉の力。
 【お金】億万長者でも、明日死ぬことがわかれば、お金はただの紙切れ。本当の価値は君の中にある。
 【幸福】幸福とは、職業や生活の形ではなく、自分の心のありよう、そのまま。不幸な人は、自分が不幸だと思うことをやめれば、今すぐに幸福になれる。
 【人生】平均年齢が80歳であろうと、君がそれまで生きる保証はない。生きていること、そのものが人生。その不可思議を考えていくことの面白さに気づこう。
 今回は何もコメントしません。

陰鬱礼讃

2008-11-09 14:10:14 | 読書
 風呂場の照明は壁に二つついているのですが、しばらく前から一つが切れてしまい、夜の入浴は電灯一つになっています。電球を買ってこようと思いながら、なかなか時間がとれず、以前に比べると薄暗い風呂に入っていましたが、しだいにこれはこれでよいものだと思うようになりました。
 谷崎潤一郎氏の『陰鬱礼讃』は、古来、日本文化に関する名著として人口に膾炙しています。風呂に浸かりながら、ふと思い出し、短編ですので、さっと読み返してみました。冒頭に近い場所には、こんな記述がありました。「実際電燈などはもうわれわれの眼の方が馴れッこになってしまっているから、なまじなことをするよりは、あの在来の乳白ガラスの浅いシェードを附けて、球をムキ出しに見せて置く方が、自然で、素朴な気持もする。夕方、汽車の窓などから田舎の景色を眺めている時、茅葺きの百姓家の障子の蔭に、今では時代おくれのしたあの浅いシェードを附けた電球がぽつんと燈っているのを見ると、風流にさえ思えるのである」
 谷崎氏は、その他の箇所でも日本家屋の照明に言及されていますが、私の住むのが洋風のマンションであっても、氏のご指摘には共感させられる点ばかりです。和の艶というものを、改めて感じることができます。
 切れた電球は、しばらくこのままにしておこうと思います。